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人の話を聞く=相手になさけをかける

 たとえば講演会などで人の話を聞きます。それは、しゃべっている講師に、聞くわれわれが「なさけ」をかけているのです。あるいは、学校の授業で先生がしゃべっているのを聞きます。しかしそれも、しゃべっている先生に、生徒であるわれわれが「なさけ」をかけているのです。

 どんな人にでも「突っ込みどころ」はあるものです。揚げ足を取ったらきりがないほどあるのです。ですから、しゃべっている人にはなさけをかけてあげて、突っ込みどころには目をつぶって聞いてあげるのです。

 これは、私がしゃべるときも同様です。私はこういう記事を書くときにも、お読みになるかたに、なさけをかけてもらっています。私の話はいくらでも揚げ足が取れますので、そこを突っ込まれたら答えようがありません。ですから、最初から受け入れてもらえる人向けに語っているわけです。これは「話」に限らず、私のあらゆる言動がそうです。人はその人の言動で判断しているのではありません。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言いますし、逆に、「あばたもえくぼ」と言います。最近、私はだいぶエクセルのマクロをマスターしてきました。しかしこれで、職場で受け入れられるかどうかは別問題で、私がいくらエクセルに詳しくても、私のやることなすことだと、すべてマイナスに取られた可能性が大きいです。人は受け入れてもらえなければ「発揮」できません。受け入れてもらえた(なさけをかけてもらえた)ときに「発揮」できるのです。

 演奏会も、演奏者が一方的にお客さんに聴かせているわけではありません。お客さんの存在が演奏会を成立させている面もあるのであって、そこはお客さんの「なさけ」によって演奏会が成立している面が大きくあるのです。

 ある教員が、学年通信に「人にものを教わるときは、相手のほうが自分より賢いと思いなさい。そうでないと、頭に入って来ませんよ」ということを書いていました。それはもっともですが、よく考えてみると、じつは教師のほうが生徒からなさけをかけてもらっているのです。ある教師は「教える側と教えてもらう側ははっきり分かれているのであって、彼ら(生徒)は教わる側なのだから、徹底的に厳しく出るべき」だと私に説教しました(実際その教師は極めて厳しいことで有名でした。そういう教師は学年主任や進路指導部長になります)。そうなのかもしれませんが、私には結局それはできなかったから教師を辞めさせられているのです。しかし、本当はこちらが100%教える側ではなかろうと思います。80教えていても、20は教わっているものです。お互いに欠点はあるのですから、欠点には目をつぶって、お互いに相手になさけをかけて人の話を聞き、また、人に話を聞いてもらいたいものです。確かに意見の異なる人とも話さないと気づきは与えられませんが、しかし、受け入れてもらえないところでがんばり続けることは私には不可能でした。受け入れてもらえるところで能力を発揮したいです。私、もう中年なのに、若者みたいな夢ばかりを語っていますか?

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