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「できません」が言えなかった

 私は異様に「インターネット検索」が苦手です。皆さんはスマホでさささっと検索ができるのに、私にはできません。半年前か1年前には「自分の『検索が苦手』というのは発達障害の障害特性だ」ということをはっきり認識し、以来「わからないことは人に聞く」という作戦に切り替えました。

 最近、ある牧師さんに相談に乗ってもらっていました。キリスト教の相談ではなく、制度の相談です。あまりに私が何でも人に聞くのでその牧師さんはついに言いました。「何でもかんでも人に聞いていないで、少しは自分で調べなよ。ネットにいくらでも情報があるのだから!」。これはですから私の障害特性に逆らっている行為なのですが、とっさに私は「それは障害特性で、できません」と言えませんでした。そんなことを言ったら、ブチ切れられるような気がしてしまって、言えなかったのです。

 その牧師さんはよく説教で「信仰とは何か。『助けて』と言えることです!」と言っています。おっしゃる通りです。ならば私は「できません」が言えない、信仰の足りない人間です。普段から「盲人バルティマイ(新約聖書マルコ福音書10章46節以下に登場する、イエスに『助けて!』と言った人物)を見習って、あつかましくしましょう!」とさかんに書いている私ですが、いざと言うとき「できません」が言えなかったのです。

 その牧師さんは、比較的最近、家族そろってコロナの濃厚接触者となりました。家族全員が外出禁止となり、誰も買い物に行けないので、食料が尽きて来て困っていたところ、若いお友達が「買い物に行ってあげようか?」と言ってくれたそうです。その牧師さんは「助かった!」と思った、と言っていました。しかし、この話は、その牧師さん(またはそのご家族)が、その若者に「ねえ、とても困っているんだよ。お願いだから買い物に行ってくれない?」と頼んだという話ではありません。その若者のほうから「買い物に行ってあげようか?」と言ってもらって「助かった!」と思ったという話なのです。私はその話を聞いて思いました。この牧師さん、「助けて」が言えていない。あんなに普段からみんなに「もっと『助けて』と言いましょう!」と言っているのに、自分では「助けて」が言えないのだ。

 私は今、ボランティアで、ある小学生に算数を教えています。だんだん気がついてきたことですが、そのお子さんは、「わかりません」の言えないお子さんです。皆さんどれだけ「もっと『助けて』と言いましょう!」と言っても「盲人バルティマイを見習ってあつかましく生きましょう!」と言っても、自分では言えないということではないでしょうか。先日、そのように私は「できません」が言えませんでした。これはとても難しいことです。

 私はこれから障害者手帳の取得に向けて動き出します。障害者として生きて行きます。なるべく「できません」の言える障害者でありたいと強く思わされました。

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