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迷える子羊

 皆さん人の前では強がっています。人からは強く見えないと、なめられるし、突っ込みを入れられるからです。しかし、「イエスさま」の前では弱さを出します。イエスさまの前では甘えられるのです。「私は弱いです、助けてください」というわけです。

 イエス・キリストの有名な言葉で「私は良い羊飼いである」(新約聖書ヨハネによる福音書10章11節)というものがあります。羊というのは「おろかな」生き物ですよね。イエスは「助ける人」ですから、助けてもらう側のこちらとしては、ずいぶんなめられているわけです。これも、救い主なるイエスさまに言われているから皆さん素直に聞けるわけで、ひとから「私は良い羊飼いである」などと言われたら「なんだと?」ということになるだろうと思います。私たちは、イエスから助けてもらう代わりに、ずいぶんイエスからバカにされているのです。相手がイエスさまだから気にならないだけかもしれませんね。

 これもイエスの有名な言葉で「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(新約聖書マタイによる福音書11章28節)というものがあります。これもずいぶんなめられている言葉で、こちらは助けてもらう側ですから、このようにイエスは「上から目線」で出てくるわけです。このあと「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい」(29節)と続きます。柔和で心のへりくだった人が自分で自分のことを「柔和で心のへりくだった者」と言うかどうかがはなはだ疑問ですが、それくらいわれわれ助けてもらう側はなめられているのです。

 「迷える子羊」という表現があります。これは、最初に述べた「私は良い羊飼いである」という言葉などから来ているように思われますが、この「迷える子羊」という表現は、自分が弱いという前提で口にする言葉です。「私は弱いですから助けてください」というわけです。かくいう私も教会の祈祷会などで「神様が私たちとともにいてくださり、弱い私たちを助けてくださいますように」とよく祈っています。これは、自分の弱さを認めているというより、神様に甘えているという側面の強いものです。助けてもらう側のほうが弱い立場なのです。「主は私の羊飼い」(旧約聖書詩編23編1節)なども同様で、自分をおろかな羊にたとえているわけです。

 そして、いったん信者となった人間は、今度は自分がキリストになった気分で、他者に「私は良い羊飼いである」と言って歩き、教会には「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。聖書」と書いて貼っておくのでしょうか。ずいぶん上から見ているのですね。助けてあげる人のほうが強い立場ですからね。

 「イエスさま」の前だけで弱い姿をさらし、人前ではなめられないように強く出る。それがキリスト者の現実の姿ではないでしょうか。イエスになめられているのに気づきませんか?そして、イエスとともに人をなめているのに気づきませんか?

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