見出し画像

あいまいさ

 私は今、ある町のある教会の一室に寝泊まりさせていただいております。この一室、どこまでが部屋なのか、境目があいまいである気がしました。もう4泊もし、ようやく少しわかってきました。この部屋の境目があいまいであることは、この教会の、よい特徴なのですね。もちろん、ある意味で部屋の境目ははっきりしています。この一室に泊まるのはもちろん私のようなおじさんだけでなく、たとえば女性がシャワーを浴びている場合もありますので、ちゃんとプライバシーが確保されるようになっております。ただし、たとえばパソコンをインターネットにつなげることができるところはもう共有スペースのようなところですから、いまオフラインでこの原稿を書いていますので、いつアップロードできるかはわかりません(いまアップロードしようとしています)。やはり、この部屋の境目はあいまいです。

 牧師館(牧師先生一家のお住まい)も、あいまいです。この教会の中にあり、何度かお招きいただきましたが、どこからが教会で、どこまでが牧師先生の部屋なのかは、あいまいです。そもそもこんなに自室に招いてくださる牧師さんは私のなかで空前ですし、そもそも私は「教会に泊まる」ということ自体も空前です。私の寝泊まりする部屋からは、どこからかテレビの音がします。牧師先生の部屋から聞こえてくるのかもしれません。逆に、私が部屋で流している音楽も、先生の部屋まで聞こえているかもしれません。「牧師が教会に住む」ということは、「仕事(教会)とプライベート(住まい)の区別があいまい」とも言えます。このあいまいさは、意図的なものであると感じるようになりました。

 私は今、「あいまい」という言葉を、いい意味で用いています。ゴミ箱や冷蔵庫は、いわゆる「普通の」教会のほうにあります。でも、全体的に、あいまいな教会ですから、たとえば私の所有する楽器(高価)も、いつでも盗まれる可能性があります。でも、いいのです。この教会は、困っている人は誰でも泊めます。どんなリスクがあるかわかりません。でも、リスクを負っても困っている人を助けています。私は逆に、今までの私の生活には、いかに「線」が引かれていたか、痛感するようになりました。私は、その牧師先生一家といっしょに暮らしているともいえます(同じ教会の中)。邪魔だったらよけるし、使っていいものは使っていいし。この「線」のない暮らしのよさが、少しずつわかってきました。

 そもそも、「どこからが教会なのか」もあいまいになっています。教会の入り口にベンチがあり、屋根があって、教会が閉まっていても、そこで休憩ができます。私は2020年5月から仕事を休んでいますが、そのころはコロナの流行り始めでした。私は職場で叱責を受け、しばしば早退し、しかし妻に仕事を休んでいるのがバレないように、付近のマクドナルドに行きました。しかし、テイクアウトのみになっており、店内で食べられないばかりか、ベンチ等もすべて撤去されており、私はどこにもいられないのでした。どこにもあいまいさがありませんでした。はっきりと「線」が引かれていたのです。

 私は、B市の市民でありながら、A市で仕事を探そうかと、この2か月くらい、動きました。A市の市役所の障害福祉課でわかったことは、A市で助けてもらうには、A市の市民にならねばならないことでした。しかし、それは、仕事が決まって、住むところも決まって、A市の市民にならないと助けてもらえないということでした。それでは遅いです。B市の市民から、住民票を移したときに、突然、A市の市民になります。あいまいさがありません。「だんだんB市民からA市民になる」ことはできないようでした。

 もちろん、なんでもかんでもあいまいなのがいいと言いたいわけではありません。でも、私は、この「線」のない暮らしが気に入って来ました。逆かもしれません。今までの私の生活に、線があり過ぎたのです。この教会では、マスクをしていない人もしばしば見ます。それは、みんな「おうち」ではマスクをしない感覚なのです。どこからが「おうち」なのかはっきりしないためだと思うようになりました。もちろん感染予防は大切ですが、それは線を引くことではないと思うようになりました。

 すみません。だらだらと長く、話があちこちに飛ぶ記事になってしまいました。でも、書きたかったことなのです。必ず手を洗ってマスクをして、ここからここまでが自分のぶんで、という線を引いた生活って、あまり人間っぽくないのかもしれません。9時から5時まで仕事とか。私のような空気の読めない人間にとっては、ルールが決まっていたほうが過ごしやすい面もありますが、その代わり、この場所では、ルールさえもあいまいなのです。つまり、極論すれば、必ずルールを守らなければならないという雰囲気でもないのです。

 これは、この教会のやさしさなのでしょう。それぞれ違う人間が、いっしょに過ごすための知恵であると思われます。そんなことを、この教会の構造から感じました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?