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神様は相手してくれる

最近、ふと思ったのです。のび太は、学校では先生に叱られ、ジャイアンにはいじめられ、ほうほうのていで家に帰って来てドラえもんに不平不満を言います。そこでドラえもんは、ポケットからなにか「奇跡的な」道具を出します。これがいつものパターンですが、じつはのび太にとって、ドラえもんの真のありがたみは「ドラえもんがなにか道具を出してくれる」こと以上に「家に帰ればドラえもんがいる」こと、「ドラえもんはのび太の愚痴を聞いてくれる」ことではないだろうか。

「甘える」「『助けて』と言う」「あつかましくする」「不平不満や愚痴を言う」これらに共通するのは「相手がいないと成立しない」という点です。みんな、「相手してほしい」のではないでしょうか。人が神様を求める気持ちも、おそらくそれではないかと思われます。とても人にはわかってもらえないような複雑な事情でも、全知全能の神様なら、すべてわかってくださるかもしれない。そう思うから、われわれは神様なりイエス様なり仏様なりに「より頼む」のではないでしょうか。

『×―ペケ―』という漫画に、以下のような場面が出て来ました。七夕様(織り姫と彦星)って年に一度7月7日しか会えないわけです。「なんでわれわれが年に一度しか会えない大切な日に、こんなにたくさんの人の願いをかなえなければならないのだ!」と七夕様が憤慨するという話です。たしかに、われわれは七夕様には極めてあつかましいです。願い事を短冊に書きまくります。あと、サンタクロースにもわれわれは極めてあつかましいです。あれが欲しいです、これが欲しいですと、子どもたちはサンタさんにお願いをします。ときどき「サンタさんは一晩で世界中の子どもたちのところを回れるのか?」と思ったりもしますが、とにかくサンタさんにもわれわれは極めてあつかましいです。

「聖書を読む人」と「ドラえもんを読む人」の気持ちは本質的に同じなのかもしれません。聖書を読んでは「目が見えない人が見えるようにしてもらえた。いいなあ」と思い、ドラえもんを読んでは「ドラえもんはつぎつぎにすごい道具を出す。いいなあ」と思うわけです。「『空を自由に飛びたいな』。『はい、タケコプター!』」という歌の通り、みんなが期待しているのはそれです。みんな、七夕様には願いをかなえてほしいし、サンタさんには欲しいものを持ってきてほしいし、ドラえもんには道具を出してほしいし、イエス様には奇跡を起こしてほしい。でも、ほんとうはみんな、「相手してほしい」のです。「恐れるな。私はあなたと共にいる」(旧約聖書イザヤ書43章5節)という言葉に励まされている人がどれくらいたくさんいることでしょうか!数学者の広中平祐(ひろなか・へいすけ)さんが言っていました。数学は科学の「おふくろ」である。おふくろは「助けて!」といってすぐに飛んできてくれるわけではないけれど、田舎にいてくれるだけでありがたいのだ、と。のび太にとってドラえもんは「家にいてくれるだけでありがたい」存在であるのと同様、神様って、「天にいてくれるだけでありがたい」存在なのです。

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