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私の文章がわかりやすいとよく言われるわけを考えてみました。

 私は、作文の苦手な子どもでした。いつも、小学校の宿題で作文が出て、一字も書けないまま机の前で時間が過ぎ、泣きべそをかいている自分を思い出します。なぜ、いまは、こんなに文章を書くようになってしまったのでしょうか。

 私の文章は、しかも、なぜか、わかりやすいとよく言われます。拙著『永遠の命』(非売品です。入手なさりたいかたは、ご連絡ください)でも、このnoteでも、わりと、わかりやすい、読みやすいと言っていただけます。その理由を、自分なりに考えてみますと、以下のようなことが考えられます。

 まず、私は、ひどい口下手です。しゃべるのは苦手です。YouTubeとか、およそ向いていないと思います。教員だったことがありますが、授業は毎年、崩壊していたダメ教員でしたしね。なぜなら、思いつきで話すのはすごく苦手ですが、書くのは、考えたり書いたり、自分のテンポでできます。言い間違いを消しゴムで消すことはできないでしょう?書くのは、書いたり消したり直したりできるのです。これは、「考えながら」「話す」というマルチタスクの苦手な私には、苦手なことだと、今さらながら思います。「しゃべる」って、マルチタスクなんですよ。しかも、「しゃべりながら」「聴衆のほうを見る」なんて。
 (前にも書いたことあるかと思いますが、パウロも、しゃべるのは苦手なようすが、新約聖書のあちこちから感じられます。いっぽうで、パウロは、書くのは得意ですね。新約聖書にパウロの手紙が13通も入っています。私、パウロに似ているんです笑)


 この、空気の読めない私が、自分の文章をとりあえず書いてみて見直しますと、そこには、いろいろな、読みづらい表現が出て来ます。私は、ひとの話でも、主語や目的語が省略されると、すぐにとまどって、話がわからなくなってしまいます。それは、いったん書いた自分の文章を読み返してもそうなので、「どうもわかりにくいなあ」と感じる箇所は、何回も推敲しています。これで、だいぶわかりやすくなるのかなあ。この現象をちょっと考えると、空気の読める多数派の人からしてみたら、説明過剰の、めんどくさい文章が出来上がるような気もするのですが、どうもそうではなくて、おそらく、ナナメ読みしても通じるような、わかりやすい文章になるのでしょうね。これが、私の文章が、わりとわかりやすいと言っていただける理由のひとつかと。(もちろん、推敲不足で、読みにくい文章になっている場合もあると思います。その場合は、また本にするときまでにはわかりやすい文章にしますので、おゆるしを笑)


 あと、論旨がはっきりしていること。これもあると思います。小学校のとき、原稿用紙の前で一字も書けず、泣きべそをかいていた私というのは、ようするに、「書くことがないのに書くことを要求されていたから」。いまは、書きたいことがあるときだけ、パソコンなりスマホなりで、書いています。だから、書けます。論旨がはっきりしているというのは、(私の学生時代の専門は数学でしたが、)数学のセミナーの用語で「明解」という言い方がありますが、要するに言いたいことがはっきりしていて、論理的にも破綻がない状態を言います。こういう姿勢は、大学院の数学のセミナーで学んだ気がします。私は、大学院の数学でも、「明解」なことで評判の高いほうだったのでして、当時の先輩・同輩・後輩が、ほとんどは、いま、どこかの大学の准教授とかになっていることからしても(つまり数学者になっている)、私は、能力的には数学者になれていただろうなあ、それが、25歳のときの、発達障害の二次障害にはばまれてしまったのだなあ、と思うと、そして、その結果、たったいまの困窮につながっていることを思えば、ほんとうに人生を無駄にしているようで、くやしくてしようがありませんが、ぐちを言ってすみません笑。とにかく、論旨がはっきりしているのも、「読みやすい」「わかりやすい」と言ってもらえるひとつの理由かなあ、と。(ときどき論旨のはっきりしない文章を書いていることもあります。すみません。)


 あと、自分のわかる(わかった)ことしか書かない。私は、100のうち、99わかっていても、1わかっていなかったら、「わかりません」と言ってしまう人間です。それでずいぶん損をしています。(私には、40くらい理解して、あと60くらいは空気で乗り切っていく多くの人のやりかたは、真似できないのです。馬鹿にしている意図はありませんよ!私には本当にできないことです。できなくてだいぶ損しています)だから、書くとしたら、100のうち100わかったことだけを私は「わかった」と認識していますので、わかりやすい文章になる。難しい言葉(自分で使いこなせないような言葉)は使わない。これも、上の「論旨がはっきりしている」「明解である」ことと関連するかと思いますが、私の書くものが「わかりやすい」と言っていただけるひとつの理由かと思ったりもします。(これも、未消化で書いている文章がないとは言えないので、そういう文章にかんしましては、申し訳ございません。)


 それから、ひとつの文章にひとつの話題しか盛り込まない。だから、そんなに長くならないし、要点をしぼって簡潔に書いている。拙著『永遠の命』でも、四六判(普通の単行本の大きさ)で、平均2ページ、長くても4ページ、短いと1ページで終わっています。このnoteの文章も、そんなに長くはないです。これも、わりと私の書くものが、読みやすいと言っていただける理由かな、と思ったりします。
 (ちなみに、私がしょっちゅう出す、奥田知志先生の礼拝説教は、長いです。50分くらいかかる。しかし、奥田先生は、言いたいことはひとつなので、それをさまざまな角度から言おうとして、あの長さになっている。つまり、意味のある長さなので、集中して聞けます。逆に、意味もなく長い話、中身のない長い話は、聞くに耐えませんよね。奥田先生は、なんでも長い。でも、ひとによって、向いている長さがあると思うのです。奥田先生は、長い話が得意な人。私は、これくらいの長さがちょうどよい。ツイッターはちょっと短すぎました。作曲家でも、ブルックナーのように、どうしても長くなる人、ヨハン・シュトラウスのような短めの人など、さまざまいるようなものです。)


 このへんまでにしますね。えらそうに、すみませんでした。これからもよろしくお願いいたします。ではまた。

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