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モーセの海割りとヨシュアの川割り

 クリスチャンプレスのMAROさんが以下のようなことを書いていました。モーセが海を割った話は有名ですが、そののちヨシュアが川を割った話はあまり有名ではない。でも、二度目の奇跡のほうがすごいと思う、という話でした。


 以下はMAROさんに対抗しようとしているというより、「私ならこう書くな」と思ったことです。

 ポテトチップスの「濃厚コンソメ味」を買って来たとします。1枚目を食べました。濃厚なコンソメ味がします。しかし、2枚、3枚と食べているうちに、だんだん濃厚なコンソメ味はしなくなって行き、そのうち一度に口に2枚、3枚と入れるようになってきて、どうにか濃厚コンソメ味を口の中で保とうとするわけです。

 学生オーケストラ時代、大塚敬子さんという打楽器の先生がいました。大塚さんは、オーストリア放送交響楽団というウィーンのオーケストラで長く打楽器を演奏されてきました。大塚さんがウィーンの音大で習ったという話です。フォルテ(強く演奏するという楽譜の指示)が3回、書いてあったとき、1回目よりも2回目、2回目よりも3回目を、より強く演奏しないと、お客さんには同じ大きさに聞こえないよ、という話でした。同じフォルテが3回書いてあっても、それを同じ音量で演奏してはいけないという話でした。

 その点、ヨハネによる福音書の奇跡の出しかたは「理に適って」います。最初の奇跡として水がぶどう酒に変わる話を2章で出し、5章で足の悪い人を癒やす話を出し、9章で目の見えない人を見えるようにし、11章で死人をよみがえらせます(ラザロの復活)。これは、あとになればなるほど、「強い奇跡」になっているため、順番としては適切なのです。これが、最初の奇跡がいきなり死人をよみがえらせる話だと「うまくない」わけです。『ドラゴンボール』で最初にベジータが出てくるくらい「うまくない」です。

 というわけで、あとになるほど強烈なものが出てくるという順番のほうが人間にとっては自然なのです。モーセの海割りがあって、しばらくしてヨシュアの川割りがあったら、それはモーセばかり有名になってしまうでしょう。たとえばさきにヨシュアの川割りがあって、それからしばらくしてモーセの海割りがあったら、だいぶバランスが取れていたのではないかと思いますが…。

 なんでもそうでしょう。大相撲でも最初は弱い力士が出て来て、最後に横綱の取組があります。コース料理でも、最初にオードブルがあって、あとからメインディッシュが出てきます。

 以上、MAROさんに反対するわけではなく、そもそも違うところに関心があります。別の話です。いろいろな見方をする人がいるのがキリスト教の豊かさだと思います。

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