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「よかったね」=「さようなら」

 「よかったね」という言葉は、私にとって、しばしば「さようなら」という意味を持っています。「よかったね」と言われると、「さようなら」と言われているように感じるのです。

 つまり、「よかったね。もうだいじょうぶだね。あとはひとりでできるね。もう助けなくていいね。さようなら」と言っているように聞こえる、ということです。

 15年前、私が30歳で結婚して就職したとき、私の両親は「よかったね」と言いました。それは、非常に手のかかる子であった私(のちに発達障害であったことが明らかになりましたが)が、結婚して面倒なことはみんなお嫁さんに任せたし、就職もしたから金銭的にも援助はいらなくなるし、「よかった、よかった」という意味なのです。「もうだいじょうぶだ。さようなら」という意味だったのです。のちに私は33歳で35年ローンのマンションを買い(「学校の先生をなさっているのですか、安定したお仕事ですね」、「だいじょうぶだ」、とあらゆる人から言われて買いましたが、私自身は不安でした。そのころからダメ教員をなんとかごまかしつつ人生を過ごしていましたので、あと35年、ごまかしきれるか、自信がなかったのです。実際、こんなふうになってしまいました。すなわち、ここ数年、休職と配置換えを繰り返して、いま2020年5月からの長い休職。これからどうなるかもわかりません。こうなったら母は「お前がそんなにローンを払えるとは思っていなかった」と言いました。だったらローンを組むときに全力でとめてよ!あとからだったらなんだって言えるよ)、そして、いま長いカッコのなかで書いてしまいましたが、もろもろあって1年以上の休職をしております。父と母は、非常に安直に「よかったね」という言葉を使います。私にはそれは「さようなら」と言っているように聞こえるので、そのことを伝えると「よかったものをよかったと言って何が悪い」と言われてしまいます。

 父はよく、電話をするとき(もっとも最近は電話すらかかってきませんが)、ひととおり内容が終わると、必ず、「やれやれ」といった感じでため息をひとつつき「みんな元気ですか」といいます。つまり、私の妻や子(彼らにとっては孫)が、風邪などひいていないか、確認するのです。そして、風邪をひいていないことがわかると、安心して「よかった」と言って切るのです。いや、どこがよかったんですか?実の息子がこんなに困っているのに、その話がようやく終わって、家族がだれも風邪をひいていなかったら「よかった」ことになるのですか?それよりもよほど重大な問題が起きているのに、家族が風邪をひいていなかったら、「よかった」ですか?彼らの最大の「罪」は「心配」でしたが、その次くらいの悪いクセは「安心」でしょう。前回の長い休みのあいだに職場から呼び出しを受けて戦々恐々としているとき、その前日に、父からの荷物が届いたことを父にメールで告げたら「安心しました」という返信があったこともあります。この状況で、なんで荷物が届いて「安心」できるのですか?あるいは、私が司書教諭の単位をそろえられて「よかったね」とか。おのれの息子が、整理整頓ができなくて幼少のころから毎日、厳しい叱責をし、おかげで、おそらく数学者になれるだけの才能はあったと思われるのに、二次障害(幼少のころに厳しい叱責を受け続けたことに起因する精神不安定による精神障害)で、すべてを失い、どうにか教師になったらダメ教師で、11年、綱渡りのようにやったもののダメで辞めさせられて、どうにか司書になったら「よかったね」?どこがよかったの?ひたすら時間と才能の無駄ではないですか、私の人生。
(しかも、司書になっても、ダメで、まもなく司書も辞めるはめになったんだよね。司書教諭の勉強も無駄になっているし。ぜんぜんよくないじゃん。)

 いかがでしょうか。「よかったね」という言葉には「さようなら」という意味が含まれていることは、伝わりましたでしょうか…。「よかったね。もうだいじょうぶだね。あとはひとりでできるね。さようなら」。私には、しばしば「よかったね」という言葉が「さようなら」という言葉に聞こえているのです。

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