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キリスト教人脈の強さ

日本におけるキリスト教人口の、日本全体の人口に対する比率はご存知でしょうか。だいたい1パーセントと言われています。一見、少ないかに見える数字ですが、これが実はすごく多いという話をいたします。

私は偶然に偶然が重なってキリスト教の信者になりましたが(ここで「神様のお導き」という言いかたをしなければ「偶然」ということになります)、いま、私の携帯電話の電話帳を見ると、教会つながり、キリスト教つながりの人がいかに多いかが如実にわかります。

そして、そのなかに、いろいろな制度に詳しい牧師さんがいたり、お金の計算のことに詳しい牧師さんがいたり、あるいは、優秀なウェブサイト制作者がいたり、優秀なライティングの人がいたり、優秀な新聞編集者がいたり、格安の税理士さんと知り合いの人がいたり、「とにかくものすごく親切」という人がいたり、「とにかく話をよく聞いてくれる人」という人がいたり、いろいろするのです。長いこと私は、人口の1パーセントしか味方につけていないことは少ないように感じていました。それは勘違いでした。人口の1パーセント「も」味方につけていたらかなり「強い」のです。

もちろん、クリスチャンでも「ひどい」人はいます。最低のクリスチャン、最低の牧師に出会ってひどい目にあったことも稀ではないこともきちんと書いておきます。それでも、キリスト教人脈は強いです。

ある程度、「同じ宗教を信じている」ということのメリットがあることは否定しません。確かにその要素は小さくなくあります。しかし、それ以上に、キリスト教というのはまず人脈の強さであり、教会というのは人と人が出会うコミュニティです。小学校の教科書に「地域の人に聞いてみよう」などと書いてあることがあります。しかし、「地域の人」で頼れる人がどれくらいいるでしょうか。地方差はあるでしょうが、私の住む地域には、地域の八百屋さんとか魚屋さんとか言ったものはなく、コンビニの店員さんでも地域の人とは言えず、夏休みのラジオ体操のために早起きして張り切ってくれる地域のおじさんもいません。しかし、教会はその「地域の人」という役割をまだ果たしています。クリスチャンといってもみなさんいろいろな仕事の人がおり、いろいろな年代、いろいろな背景を持った人がいるものです。

16年前、30歳のときに社会に出る私に、キリスト教に詳しくない父が言いました。「社会は厳しいぞ!キリスト教の『博愛主義』などないからな!」。あれから16年、その父も思いもよらなかったほどの「厳しい」道を私は歩んでいます。そして、キリスト教の特徴は「博愛主義」などではないです。キリスト教の強さは博愛主義などではなく、その「人脈の強さ」にあったのだ!


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