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ストコフスキーのゲヴァントハウス管弦楽団客演およびニューヨークのマーラー8番

本日は、急病で授業をお休みになったかたがあり、突然、時間ができました。またもクラシック音楽マニア話をだらだらと書くぞ。好きなCD、本日2つ目。ストコフスキー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のドビュッシーの夜想曲とラヴェルのスペイン狂詩曲、およびニューヨークフィルでのマーラーの交響曲第8番の2枚組です。

これは、もう大学1年のときから持っているCDだと思いますので、29年くらい所持しているCDです。しかし、本当にこのCDのよさに目覚めたのはこの2、3年ではないかと思います。そういった「芸術、文化とは気長に付き合うべし」という趣旨のブログは、数学ブログとして、予約投稿されていますので、そのうち公開されます。そういった曲のうちのひとつが、このマーラー8番なのです。とにかく私にとって特別なCD2枚組です。

私がストコフスキーに目覚めたのは高校3年のときです。高校でムソルグスキーの「展覧会の絵」をやることになり、音楽を聴くとすればCDしかなかった時代に、いろいろCDを購入しました。ときどきわれわれのやるラヴェル編曲でないCDがありました。ストコフスキー編曲・指揮のCDを聴いてたまげたのがストコフスキーとの出会いでした。つぎに購入したのがフィリップスのショスタコーヴィチ5番とスクリャービンの法悦の詩。そのつぎに買ったベルリオーズの幻想交響曲(デッカ録音)で、私はストコフスキーのとりことなりました。いまからちょうど30年前のことです。当時、私は17歳か18歳でした。

翌年、私は東京の大学に行き、東京に住むようになりました。田舎とは桁外れの情報があります。ストコフスキーのCDも田舎よりはるかにありました(田舎には、デッカのステレオ録音の一部がCD化されている程度でした)。さまざまなものを買って聴きましたが、これはそのころ買ったものです。

マーラーの好きな仲間はいたものです。みんな「マーラーはいい」「マーラーやりたい」と言っていました。私にはマーラーのよさはわからなかったのです。東大オケをやめたあとに入った市民オケでマーラーの1番をやったときでさえ、マーラーのよさはわからないままだったと思います。あるとき、クーベリック指揮の第9番を聴き「この曲のすべてに共感できる!」と思ってしまったときがマーラー開眼であったことは今までも何度か書いています。にもかかわらず、この「第8番」のよさがわかるにはまたしばらくの年月が必要だったのでした。これもそのいま予約投稿されている記事にきちんと書いたつもりですので、あとから書いているこのだらだらした記事で、不足のある説明をしている自分が歯がゆいですが、とにかくマーラーの第8番のよさがわかるのには30年近い年月が必要だったのです。

当時、ストコフスキーのマーラー8番は、単独でも売られていたと思います。しかし、私はお得感もあって、このドビュッシーとラヴェルの入ったほうを選びました。それでよかったと思います。この2つのライヴはとくに関連があるとは思えず、また、意味をもってカップリングされているとも思えないのですが、これには価値がありました。

ゲヴァントハウス管弦楽団のライヴは、1959年の録音です。この日はこの2曲のほか、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を演奏しています。ストコフスキーは同じドイツ滞在中に、ベルリンフィルで、同じこの3曲のプログラムを披露しています。同じパート譜を使ったのでしょう。(クラシック音楽の演奏家って、楽譜に書いていないことはしない代わりに、楽譜に書いてあることならなんでもします。したがってオケに言うことを短時間で聞かせるなら、すべてパート譜に書いておけばよいのだ。おそらくストコフスキーはそうしていました。)ちなみにずっとのち、ビシュコフがベルリンフィルでショスタコーヴィチ5番を取り上げたとき、このオケは自分が取り上げるまで、ショスタコーヴィチ5番はレパートリーでなかった、ショスタコーヴィチの交響曲は10番だけだった、と言っていましたが、それは違うということがわかります。確かにカラヤンは10番しか録音していませんが、こうしてそれよりずっと前にストコフスキーが5番を取り上げています。のちにストコフスキーはベルリンフィルでショスタコーヴィチの交響曲第1番も取り上げています。ビシュコフの勘違いなのでしょう。

学生寮の1年後輩で、吹奏楽をやる仲間が、このラヴェルのスペイン狂詩曲について部屋まわりで意見を述べており、私もこの曲のこのCDの演奏でこの曲を思い出していたのですが、この演奏は終結部がかなり変わっているのでした。音を伸ばしているのです。ときどきストコフスキーが使う奥の手です。同じ年のワルシャワ国立オケでの客演でも、同様の変化をつけてこの曲を指揮しているのがわかります。ちなみにこの曲は、15分くらいで時間をはかって授業の前に備えるのにちょうどよく、私はワルシャワでの演奏およびロンドン交響楽団の正式なレコーディングの2つをパソコンに取り入れて、授業前にひんぱんに聴いています。嫌味のない傑作だと思います。こういう肌の感覚にあう音楽は、私の好みになります。いい曲です。ストコフスキーはラヴェルのスペイン狂詩曲を得意とし、このような客演での演目にしばしば持って行ったために世界的にライヴ録音があるのであり、また、92歳のときのロンドン告別コンサートでも取り上げました。よほど得意です。

ドビュッシーの夜想曲は、これもストコフスキーが若いころから得意とした音楽です。ストコフスキーは、女声合唱を省くことなく、必ずノーカットで演奏・録音しました。このゲヴァントハウス管弦楽団ライヴも、非常にうまくいった演奏です。ドビュッシーって、このように3曲セットの作曲が得意でしたね。ピアノ曲の映像も、管弦楽のための映像も、その第2曲であるイベリアがまた3曲からなりますし(ストコフスキーの記念すべき録音あり!これについてもいつか述べます)、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタも3楽章からなりますね。「海」もだ。あまりこういうことを言うと、反例を出してこられるマニアのかたがおられると思いますので、このへんにいたしますが、とにかくこのドビュッシーの夜想曲は傑作だと思います。

このころのゲヴァントハウス管弦楽団は、あまり木管がうまくないと思います。同じころ録音された、コンヴィチュニー指揮のベートーヴェンの交響曲第2番、第4番も前からCDを持っている演奏ですが、やはり木管はいまいちだと思います。80年代にはもうすでにそのようなことはなく、ニコレの伴奏をするライネッケやニールセンでは文句なしですが、このころはいまいちであった気がしています。古いドイツのオケはこんな感じでしょうか。

ようやくマーラーの話題に行きます。マーラーの交響曲第8番は、ストコフスキーはマーラー本人の指揮による初演を聴いていることで知られており、ストコフスキーはこれをアメリカ初演しています。「マーラー、だれ?」という時代に、これだけの出演者(「千人の交響曲」と言われるだけあり、出演者が千人くらいいります。映像で見るとものすごい。いつか生で聴いてみたい曲です)を要する曲で、よくやったと思いますが、考えてみるとストコフスキーの新曲を理解する桁外れの能力に驚かされます。その予約投稿されているブログ記事にも書いてあるエルガーの交響曲第2番もストコフスキーがアメリカ初演したものですし、上述のショスタコーヴィチの交響曲第1番もストコフスキーがアメリカ初演したものです(交響曲第5番を書く前のショスタコーヴィチにこれだけの理解を示すってすごいと思いますよ。ストコフスキーは上述の通り、交響曲第5番も得意にしましたが)。ラフマニノフなんて、21世紀になったいまごろ、ようやく再評価されているではありませんか!どれほどストコフスキーは時代に先駆けていたことでしょうか。とにかく私が真価を知るのに30年近くを要したマーラー8番を、ストコフスキーは一夜で理解したと言えると思います。

このマーラー8番は、それからも何十年か経過している、1950年のライヴです。(それでもマーラー8番の録音としてはかなり古い部類であるはず。もしかして最古?)ニューヨークフィルとのお別れの演奏会の模様です(しかしストコフスキーはのちもニューヨークフィルはときどき指揮しました。実況録音のいくつかが残されています)。これは正式な録音ではありません。のちに、デリック・クック(マーラーの交響曲第10番の補筆完成をした人物として名高い)によるストコフスキーへのインタビューのなかで、クックがこの録音を「海賊盤」と呼んでいます。ストコフスキー存命中から出回っていた海賊盤だったことになります。(そのときクックは録音年を間違えて1951年と言っています。ストコフスキーも訂正しないので、間違えたままになっています。この英語でのインタビューは、ネット上の知り合いである、あるマニアに文字起こしと日本語訳を頼みました。感謝。)それによると、ストコフスキーは、マーラー本人による初演は、どうやらリハーサルから聴いたらしいことがわかります。とにかくこの録音が残ったことには感謝です。

長いことマーラー8番のよさがわからなかった私は、永遠にこの曲のよさはわからない気がしていたのですが、ついにわかるときが来ました。いまは喜んでこのCDを聴いています。29年間、手放さずに持っていてよかったです!

マーラーの交響曲第8番を、もっといい録音で聴くときは、私は京都市交響楽団(京響)のYouTubeにある、広上淳一さん指揮の動画で楽しんでいます。これが最も安心して聴けます。映像はほとんど見ず、音だけで楽しんでいます。就労移行支援事業所と言われる障害者福祉で、パソコンのある席で授業の予習をしながら、ときどきこれをイヤホンで聴いています。それにしてもこの曲のよさを一発で理解したストコフスキーはすごすぎるなあ、と思う次第です。

この2枚組のCDは、おそらくとっくに売られていないでしょう。ただし、これはもともと意味のある組み合わせではありませんので、マーラー8番はこれでなくてもこの演奏はなんらかの形で発売はされているだろうと思います。ドビュッシーとラヴェルに関しても、これでなくてもいい演奏はあろうかと思います(ストコフスキー指揮だけでも何種もあると思います)。ただし、この演奏は、私にとって特別な意味がある、というだけです。

中学時代の私は、クラシック音楽が好きでも、恥ずかしくてレコード店に入れなかったものです。好きなものを好きということに、どれだけの年月が必要だったことでしょう。いまや私は好きなものを好きだと言うようになりました。言うようにしています。嫌いなものは嫌いだと言いたいと思います。不快なものは不快なのです。これが言えなくてどれほどの人が苦しい目に遭っているか、わからないと思います。とにかく好きだというだけでこの記事を書きました。文句あるかね?

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