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「厳しい修行をしないと救われない」という発想にご注意

カール・バルト『ローマ書講解』という本があります。とてもぶ厚くて難しいことで知られる本です。いきなり余談ですが邦訳者の一人である故・岩波哲男(いわなみ・てつお)先生は個人的によく存じ上げておりました。同じ教会だったのです。特徴的な声をした気さくな先生で、岩波先生を知る多くの人が、先生の声を真似したものです。ここで「ローマ書」と言っているのは、新約聖書に入っている、パウロが書いた「ローマの信徒への手紙」のことを指しており、『ローマ書講解』はこの手紙を解説した本なのです。実は、私はこの本を一文字も読んだことがありません。でも、どうしてそんなに難しいのか、だいたい想像がつくのです。同じような難しさの本があります。親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』です。私は学生時代に『教行信証』を現代語訳でトライしました。まったく歯が立たず、すぐに挫折しました。とてつもない難しさなのです。

では、親鸞の教えというのはとてつもなく難しいのかと言いますと、そうではなく、むしろ親鸞の教えはめちゃくちゃにやさしいのでした。なにしろ「なんまんだぶと唱えれば、極楽に行けます」と言ってまわった人なのです。親鸞の教えはこれだけ!

パウロの手紙は、新約聖書全体のうち、ページ数で4分の1くらいを占めています。「コリント書」とか「ガラテヤ書」のように、明らかにパウロが「行ったことのある」「個人的に知っている」教会にあてて書いた手紙がある一方で、このローマ書というのは、パウロはまだ行ったことのない教会あてに自己紹介のように書いた手紙だと言われます(これは私が自分で読み解いたことではなく、多くの牧師さんが説教で言うことです)。まだ会ったことのない人に、自説の紹介をしているというわけです。そして、パウロの言いたいことは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ書3章28節)という言葉に端的に現れています。ここでいう「信仰」と親鸞の言っている「念仏(なんまんだぶ)」がほぼ同じです。よく「信じる者は救われる」(この言葉は聖書には出て来ません!)と勘違いされていますが、パウロの強調点は、「行いによらない」というところでして、人は立派な行いによって立派に救われていくわけではないのです。その少し前で「正しい者はいない。一人もいない」(同3章10節)と言っている通り、人は自分の力で救われるほど立派ではないわけです。ようするにパウロの言うことと親鸞の言うことはとても「都合の良い」話でありまして、ダメ人間が神様もしくは仏様の無限の愛で救われていく話なのです。あまりに都合が良いので、そのむしのよさに耐えられなかった後世の人が、やたらと「信仰」というものをたいそうなものにしてしまいました。「念仏」も同様です。パウロは「私たちは律法の下(もと)ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない」(同6章15節)と言っています。自分の言っていることがあまりに都合が良くて開き直っているように聞こえるので「そんなに罪深ければ深いほど救われるというなら、積極的に罪を犯せと言いたいのか?」と言われることをよく知っているパウロが先回りしている部分だと考えられます。

親鸞は若いころ、比叡山(ひえいざん)で修行しました。そこで親鸞は「皆さんも一生懸命修行をしないと救われませんよ」と言ってまわったわけではないというわけです。パウロも若いころは非常に律法に熱心でありました。それが、「キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑(くず)と考えています」(フィリピ書3章8節)と言っています。この点もこの2人に共通するところです。

それでこの、ものすごい都合の良い話を論理で説明しようとすると、とてつもない難しさになるのです!それが、私の学生時代の『教行信証』に歯が立たなかった経験であり、カール・バルトの『ローマ書講解』の難しさであると考えられるわけです。(だから、読んだことはないけどだいたい想像がつくわけです。)

私もずいぶん自分に都合よく聖書を読んでいますが、それでいいのではないでしょうかねえ。宗教の本質はこの究極の都合の良さであって「そんな、念仏を唱えるだけで極楽へ行けるなんて、都合が良すぎる。もっと修行しなくてはダメなのでは」と思ってしまうほうがワナだと思われるわけです。今年(2022年)4月7日に亡くなった「宗教評論家(宗教タレント?)」のひろさちやさんは「一生懸命努力して立派な人間になれとハッパをかける宗教はインチキ宗教です」と言っていました。まったくその通りだと思います。

長くなりついでに蛇足を書きますと、「親鸞」とか「教行信証」とか「浄土真宗」で検索してもたいしたものは出ません。どうもこの鎌倉時代というのは日本で仏教が発展した時代であり、親鸞のほかにも例えば道元が曹洞宗を開いて『正法眼蔵(しょうぼうがんぞう)』を書いていたりして、日本史選択の高校生を悩ませているのです。したがってこれらのキーワードで検索して出るのはほとんど日本史の受験対策であって、宗教的に実のある話は出ないのです。残念であります。

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