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私はアバドやサヴァリッシュより耳がよい

 ときどきこのnoteの記事で書いていますが、私は、世の中で流れている音楽のほとんどは、すべて耳だけで、旋律も和音もベースラインも聴き取れており、その気になれば、すべて楽譜に書き起こせます、という話をしております。そこで、この能力にかんしては、しばしば世界的指揮者よりも耳がよい、ということを、ふたつ(以上)、具体例を挙げて、ご説明したいと思います。例に挙げるのは、クラウディオ・アバドと、ヴォルフガンク・サヴァリッシュという、2人の、世界的指揮者。2人とも故人です。その残された録音から、私が、明らかにアバドやサヴァリッシュよりも耳がよいことを、以下に書こうと思います。

 まず、アバドです。クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるムソルグスキーの「展覧会の絵」を聴きましょう。このCDは、もしかしたら廃盤かもしれませんが、ナクソス・ミュージック・ライブラリ(NML)という、過去のCDが聴けるサーヴィスで、いま(2021年3月4日現在)も聴けますので、ご紹介します。

 この作品は、ムソルグスキーの作曲で、原曲はピアノ曲。ラヴェルがオーケストラのために編曲しました。(ほかにもオーケストラ編曲した人はたくさんいますが、ラヴェルの編曲が最も有名です。)しかし、この曲は、リムスキーコルサコフという作曲家が、あちこち音を変えた楽譜(ここはどうしてもリムスキーコルサコフの悪口になってしまいますが、リムスキーコルサコフは、作曲家としては、たいへん才能のある人です)がしばらく流通しており、ラヴェルは、そのリムスキーコルサコフ版の楽譜をもとに編曲したので、ムソルグスキーの原曲とは、あちこちで、音が違います。アバドは、ムソルグスキーのもとに戻して、演奏しようとしていますが、その過程で、音を間違えたのです。以下に詳しく書きますね。

 「キエフの大門」の4分09秒。ラヴェルは、ラの♭で書いていますが、それはリムスキーコルサコフの「改悪版」なので、本来、ムソルグスキーが書いたのは、ソの♮です。ですから、アバドは、ここで、ムソルグスキーが本来、書いた音に直そうとしています。そこで、「ある音を半音下げる」というところまではあっているのですが、下げる音を間違えました。ラの♭はそのままで、その代わり、レの♭が半音さがってドの♮になっています!これは、弾き間違いとかいうレヴェルではありません!明らかに、アバドが、下げる音を間違えたのです!しかも、本人も間違いに気づいていないばかりか、おそらくベルリンフィルの団員さんでも気づいてはおらず(おそらく「おかしい!」と言った人はいたでしょうが、指揮者から「いや、これが正しいのだ!」と言われて、その意見は消されたのでしょう)、レコード会社の人も、またそのCDを買って聴く人も、少なくとも日本の音楽評論家も、だーれもこれを指摘しません!私だけが、聴き取れているのです。この1点だけでも、私はアバドよりずっと耳がよいことがわかります。(ちなみに、ストコフスキーは、この箇所は、正しく編曲していますので、よろしければストコフスキー編曲・指揮のこの曲のこの箇所をお聴きください。NMLにもあります。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。3分51秒。)

 つぎ、サヴァリッシュです。これもNMLにありますが、フィラデルフィア管弦楽団を指揮した、ドビュッシーの「沈める寺」のオーケストラ版です(ストコフスキー編)。7分20秒以下。ファゴットの三重奏に編曲されていますが、3番ファゴットの人が、シの♭を忘れています!シのナチュラルで吹いています!1番ファゴットの人はちゃんとシに♭をつけているのに!これも「吹き間違い」とかではありません。奏者の、「譜の読み間違い」です。しかし、それを正すのが指揮者であるサヴァリッシュの役割のはずです。それが正せないのは、「サヴァリッシュの耳が悪いから」というほかありません。(サヴァリッシュはピアニストでもあります。この曲は、原曲はピアノ曲です。ピアノ版も知っているでしょうに…。)しかも、これも、オケの人も、レコード会社の人も、CDを買って聴く人も、音楽評論家も、だれも指摘していないのです!私しか聴き取れていないようです。というわけで、私は、サヴァリッシュよりも耳がよいです。(ちなみに、編曲したストコフスキー自身は、間違っていません。だからストコフスキーの編曲の間違いでもありません。NMLにあるものでは、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した録音。5分40秒以下。)

 なお、ストコフスキーの編曲でも間違っているものはあり、私はストコフスキーよりも耳がいいとも言えます。バッハの「フーガ ト短調」(以下、「小フーガ」と呼びます)の編曲。NMLにある「レオポルド・ストコフスキー交響楽団(彼の交響楽団)」を指揮した録音。2分27秒。低弦が、ラの♮を弾いていますが、これは、ラの♭が正しいです。これは、ストコフスキーの編曲の間違いであり、自ら間違えたまま演奏して録音しているというケースです。以前、楽譜屋さんで、この曲のスコアを立ち読みしたことがありますが、出版譜からして、間違えています。ところが、驚くことに、この編曲作品を演奏する後世の音楽家たちも、みんな、間違えたままなのです!NMLで聴ける音源を挙げますね。…と思って、本稿を書きながら、NMLを再生していると、興味深いことに気がつきました。ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団のこの曲の録音は、間違っていない!ちゃんと訂正されていました。だれかが指摘したのでしょうね。この録音より前、いまから7、8年くらい前だと思いますが、ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団が来日して、この作品をアンコールで取り上げたときは、まだ間違っていましたから…(テレビで観ました)。いま、NMLにはないようですが、エサ=ペッカ・サロネンのCDも間違えていました。NMLで聴けるものとしては、あとマティアス・バーメルト指揮BBCフィルも間違えたままです。私は、ストコフスキーよりも、サロネンよりも、バーメルトよりも、耳がよいのです(おそらくネゼ=セガンよりも耳がよいです。彼も、その来日公演では間違えていましたし、おそらく誰かの指摘でようやく気が付いて直したのでしょうから)。

  あと、いちいち書きませんが、アルゲリッチとエコノム(ピアニスト)でも、エコノム編曲のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」のなかで、アルゲリッチが、三度、音を間違うところがあり、これは「弾き間違い」ではなく、「譜の読み間違い」です。(エコノム編の楽譜も見ましたが、エコノムの「編曲の間違い(書き間違い)」ではありませんでした。)私はアルゲリッチよりも耳がよい。

(あと、エンリケ・バティスという指揮者がまた、耳の悪い指揮者で、彼の録音したラフマニノフの「交響的舞曲」とか、レスピーギの「ローマの松」などには、致命的な音の間違いがあります。だれも指摘しないのが、ほんとうにふしぎです。)

 こうして見てくると、こういう「音の間違い」は、「編曲物」に集中していることがおわかりいただけたかと思います。どうも、クラシックの音楽家って、「楽譜に忠実に演奏する」ことには長けていても、どうも、耳が悪いのではないか…と思ってしまいますね(他のジャンルに詳しくないので、他のジャンルのミュージシャンが、耳がよいかどうかはわかりませんので保留にさせていただきますね)。

 しかし、いかに、そのような世界の超一流の指揮者より私のほうが耳がよいとはいえ、では、耳がよい人がよい指揮者になるかと言えば、そうではないことは明らかです。もしそうなら、私はいまごろ、こんなところで困窮してはおらず、とっくに世界的な指揮者になっているでしょう。たとえば、以下のようなことがあります。茂木大輔『交響録 N響で出会った名指揮者たち』に出てくるデュトワという世界的指揮者のエピソードです(著者は、N響の元団員)。デュトワは、1時間以上かかる複雑で長い交響曲(ショスタコーヴィチの4番など)を、練習で、頭から最後まで通したあと、おもむろに「第1楽章の○○小節のトロンボーンが…」などと問題点を指摘し始まるということでした。問題点を、すべて覚えているのです。これは、私にはできません。じつは、私にも、指揮者の経験があります。かつて、ある学校の教員であったころ、オーケストラ部の顧問をしていて、しばしば指揮をしたのです。ほぼ、「耳のよさ」で勝負している指揮でした。練習していると、つぎつぎに「問題点」が聴こえてきます。「いま、音を間違ったな!♭を忘れたな!」。しかし、すぐにさえぎるわけにはいきません。練習中とはいえ、指揮者にさえぎられるのは非常に不愉快であることは、経験上、知っています。ですから、いくつか問題点がたまってきたころに、「さえぎる(オーケストラをとめる)」わけですが、さて、どことどことどことどこが問題点であったのか、私は覚えていません。これは、私のワーキングメモリが小さいからです。ですから、この点ひとつとっても、私はデュトワにはかないません。指揮者にはなれません。

 採譜(耳コピ)で、食おうかと思った時期もあります。そういう求人を見つけ、いっしょうけんめい準備して、応募しました。課題曲が2曲、提示され、期限が示されました。余裕でした。余裕をもって、しかも期限よりずっと早く提出しました。返信がありました。不合格でした。「たくさん間違えている」というのです。そんなバカな!私、カンペキに取ったよ!そして、そのメールには、研修生にならないか、という誘いの言葉が付け加えてありました。研修生は、こちらがお金を払います。ようするに「たくさん間違えていますよ」というメールは、全員に同じ文面で送っており、その会社は、「研修生」で食っている会社なのでした。(アイドル事務所の研修生のように、まずアイドルには成れないのに、金だけ払わせるものだと思いました。周囲の意見もそうでした。)「採譜」の業界も、「完全実力主義」なら、私は勝ち残れたと思いますが、結局、そういう「きたない」業界でした。残念です。その点、数学の世界は、限りなく「完全実力主義」でしたので、ほんとうに数学者になれていればよかったのですが、くやしいです。

 というわけで、私は、アバドやサヴァリッシュ、アルゲリッチよりずっと耳がよく、また、聴衆のみなさん、音楽評論家のみなさんよりもずっと耳がよいのですが、実際にはこんなに困窮しているということです。ところで、みなさん、「耳コピ」してほしい音源とかありませんか?いまのところ、ボランティアで、「採譜(耳コピ)」をいたしておりますので、遠慮なくどうぞ。コメントかダイレクトメッセージなどで足あとを残していただければ、と思います。

 このへんまでです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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