「竹取物語」と「聖書」の違い

 私は小さいころ、「竹取物語」のようなお話が好きでした。竹から子どもが生まれる「竹取物語」と、桃から子どもが生まれる「桃太郎」は、根本から違う話だと思っています。竹取物語は、最後に、すべての理由がわかるのです。かぐや姫は、月に帰るのです。なぜ竹から生まれたのか、なぜあんなに求婚者を拒んだのか、すべて理由が明らかになります。竹取物語は、周到に作られたフィクションであったわけです。無駄な要素がない。

 最近、私の学生時代の友人が、本を送ってくれました。『ベルリンうわの空』という漫画でした。おすすめだということで送っていただけました。すごく興味深く読みました。なんとなく思い出されたのが、昨年(2020年)9月に、某都市に単身で行って、4週間滞在したこと。知らない土地に滞在し、日常に起きるささいなことすべてが奇跡。『ベルリンうわの空』は、そういう、ベルリンに住んで日常のさまざまな出会いや小さな奇跡を描いていく漫画であったのです。(私のその手の話は、「日頃の行い」という題の滞在記をおすすめしておきます。リンクがはれなくてすみません。「日頃の行い 腹ぺこ」で検索するとすぐに出ます。)

 ちょっと、ほんの少しの例を挙げますね。『ベルリンうわの空』のワンシーン。2人が電車に乗っています。「花、買う?よく花を買っている人を見るけど」「ぼくも花を買う習慣はないね」みたいな会話がなされます(記憶で書いていてすみません。細部が違うと思いますが、どうかおゆるしを)。そして、電車を降りると、その会話は、もう何にも関係ないのです!著者はたんに、ベルリンでは花を買う人をよく見るということだけが言いたかったのか、いや、この会話を単に描きたかったのか。でも、われわれの日常生活って、こんな感じではないですか。『竹取物語』とは対照的ですが、この『ベルリンうわの空』は平凡で魅力的です。

 送ってくれたのは、本業は大学の聖書の先生の人です。聖書というのも、どちらかと言えばあまり緻密に書かれていないわりに、すごく緻密に読まれている書物であるようにも感じられますので、なにか『ベルリンうわの空』に通じるものがあるかのようにも思えます(思い過ぎ?)

 それから、この漫画には、友だちがたくさん出て来ます。お金に困っていても、友だちがたくさんいたら、なんとかやっていけるのかもしれない。そんなことも思いながら読みました。

 言いたいことは、つまり私たちの人生は、『竹取物語』よりは『聖書』に似ていて、意味のないようなささいな奇跡に満ちているということです。「ナルドの香油のつぼを割った」?それがどうしたのか、わかりませんが、その話を切り取って聖書に載せた人のセンスは抜群なものがありますね。聖書に出て来るさまざまな奇跡物語さえ、竹取物語の、最後にはすべてが説明されてしまう世界ではない。緊急事態宣言とかがなくなったら、もう一度、あの町に行きたいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?