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逆の立場から見る大切さ

 学生時代の話です。オーケストラのオーボエの友人が言っていました。あるオーケストラに乗ったところ、そこのファゴットは、2人ともエキストラで、2人とも音大生だったそうです。そして、片方はうまかったそうですけど、片方がひどかったらしく、彼は「あれが音大生だなんて!」とあきれて言っていました。しかし、彼は法学部生で、いつも単位を取るのですれすれの学生生活を送っているタイプでした。私が「法学部生と言っても、いっぽうで司法試験を目指すようなのもいれば、いっぽうで単位をそろえるので精いっぱいのやつもいるし」と言ったら彼は目を丸くして「お前、公平な見方をするなあ!」と感心していました。

 note(ブログ)をやっていて思うことがあります。私はけっこう、障害者仲間だけでなく、障害者の支援者もフォローしています。つまり障害者福祉の人などです。そういうかたの記事を読むと、自分(たち)が、助ける側のほうの人からどう見られているのかがわかって、参考になる場合があります。(また、フォロワーさんにもときどき支援者のかたがおられ、そういうかたも、また助ける側とは違う視点で私の記事をお読みなのだろうと思います。)これは物事を多角的に見るにあたってだいじなことではないかと思っております。ほんとうは、障害者を採用する人事のかたのnoteとか読みたいですけどね。まだそういう人は見つけていないですね。

 学生時代の話に戻ります。河合隼雄の本が流行っていました。仲の良い伝道師と話していて気づいたのは、私は河合隼雄の本を「カウンセリングを受ける目線で」読んでいたのにたいし、その伝道師は「河合隼雄の目線で」読んでいた、ということです。それによって見えかたはまったく違うでしょうね。

 これは、聖書についても言えます。聖書には、重い病気や障害がイエスによっていやされた話がたくさん出てきます。おおざっぱに分類して、こういう話を、「イエス目線で」読んでいる人と、「癒やしてもらう側の視点」から読んでいる人と、いるのです。この両者で、聖書のとらえかたはだいぶ違ってきます。ちなみに私はごく自然に後者の読みかたになるのですが、このことに気づくのにもだいぶ時間がかかりました。(いま思い出した話ですが、「ラザロの復活」の絵を、ラザロの視点から描いている画家さんがいる、という話をなにかで読んだことがありますね。つまり自分は墓の中にいて、向こうでイエスが招いている絵なのでしょうね。)

 教会というところもそうですね。「はじめて来た人にとって、教会はどう見えるか」「そもそも入ったことのない、前を通っても気づくかどうかわからない人にとってどう見えるか」という視点は、なかにいると、なかなかわからないものです。かくいう私も、もうだいぶ「キリスト教内部の人間」になってしまったので、果たして自分がクリスチャンでない人から見てどう見えるのかはわかりづらくなっています。

 このように、なんでもいろいろな視点から見てみるのは大切なことです。私からのおすすめは2つです。障害者のみなさんには、ぜひ支援者の記事をお読みいただきたいのと、それから、クリスチャンの皆さんには、「イエスさまに助けてもらう側の視点」から聖書を読み直してごらんになることです。えらそうに、すみませんでした。私も視野を広く持っていきたいです。

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