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よって立つところは自分の頭

『ほら吹き男爵の冒険』に出て来る話です。あるとき男爵は、馬に乗っていて沼にはまりました。そこからどうやって脱出したかと言いますと、自分で自分の首根っこをつかまえて、両足で馬をはさみ、自分で自分を引き上げて沼から出たというのです。こういうことはあり得ないので「ほら吹き男爵」と言われるわけですが、これを論理の世界でやってしまっていることはときどきあります。

xが充分に0に近いとき、xとsin xの比は1に近づく(*)のですが、これを高校で習うときの証明では「円の面積の公式」を使います。しかし、われわれは小学校で円の面積の公式を習ったときに、暗黙のうちに(*)を使っているのでした!私はこれを高校で習った瞬間に論理的におかしいと気づき、職員室に質問に行きました。そのときの数学の先生はいい意味で学者肌の先生で、私の意味するところを理解してくださいましたが、それから30年以上がたつ現在でも、高校の教科書の証明は変わっていません。これは論理的には堂々巡りになっています。

宗教改革者のルターが挙げた信仰箇条のうち「聖書のみ」というものがあります。プロテスタント教会がやたら「聖書、読め読め」と言うのはここから来ていると考えられるのですが、これはもともとそれまでの教会に聖書以外の要素が多すぎたことからの反動です。ルターは「聖書のみ」というスローガンを聖書から引き出したわけではありません。「自分の頭で考えた」のです。最近読んだある本は、「聖書のみ」という事柄を聖書に根拠づけようとしていました。それはまさに上で述べたような「ほら吹き男爵」のやっていることと変わらないわけです。聖書の根拠を聖書に求めるという。

しかし、だからこそ根本の真理を言うときには、論理を超越せねばならない場面が出て来ます。「般若心経」のクライマックスで「真実不虚」(しんじつふこ)という言葉が出ます。これは真実にしてウソではないと言っています。ウソではないから真実だというのでは根拠になっていないのですが、これが根本の真理の特徴です。

「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)。ヨハネによる福音書のクライマックスで出るイエスの言葉です。これも、真理には根拠がないことを言っています。この言葉自体が聖書の引用ではありますが、4つの福音書でずっと「しるし(奇跡)」を描いてきた聖書がここ(イエス復活の場面。最後の福音書)でこの言葉を記しているのは意味深長だと思います。

よって立つところは自分の頭なのです。こんなことをキリスト教会で言うと「よって立つところは神様だろう!」とお叱りを受けそうなのですが、実際にはよって立つところは自分だということになります。私には、自分で判断できない人が「聖書の権威」もしくは「教会の権威」「牧師の権威」にしがみついているようにしか見えません。それはイエスの時代に律法の権威にしがみついていた人と変わらないと思うのです。ルターが自分の頭で考えたことを思い出しましょう。よって立つところは自分の頭です!

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