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ドイツ・レクイエム

(以下の記事はまたクラシック音楽オタク話かつ聖書オタク話のように見えますが、もう少し読者層の広い話を書くつもりです。でもおもしろい話が書けるかどうかはわかりません。それでもよろしければどうぞお付き合いくださいませ。)

ブラームスの「ドイツ・レクイエム」という長大な合唱曲があります。オーケストラ伴奏と独唱を伴う大規模作品です。これをブラームスの最高傑作だと言う人も少なからずいます。しかし、以下の話は恥ずかしくてなかなか言えない話でした。

ブラームスには、交響曲が4曲あります。私は、ブラームスの交響曲は4曲とも大好きであり、4曲とも傑作だと思っています。ブラームスにはまた協奏曲も4曲あり、これらも傑作だと思います。しかし、実はドイツ・レクイエムはそこまで夢中になれなかったのです。クラシック音楽界の嫌なところのいくつかで「名曲の度合いにランク付けをする」とか「マウンティング合戦になりやすい」などの特徴がありますが、まさにこれは「ドイツ・レクイエムのよさが分からないなんて、何も分かっていない!」とバカにされること間違いなしなので、人には言えないのです。しかし、つい最近、非常に単純なことに気づきました。

ドイツ・レクイエムの名曲度を強調する人間には、合唱の人が多いです。そして、まさにドイツ・レクイエムは合唱曲です。そしてブラームスの交響曲で合唱を要する曲は1曲もなく、したがって合唱の人はブラームスの交響曲には参加できないのです。単純なことに気づきました。これは「オルガンの人のバッハ好き」「ピアノの人のショパン好き」と変わらない。

こう書くと、あたかも私がブラームスのドイツ・レクイエムに価値を見出せないと言っているようにも聞こえかねないと思ってあわてて付け加えますが、確かにドイツ・レクイエムはブラームスの名曲の誉れが高く、私がドイツ・レクイエムの良さを理解できていない面が大きくあるのは明らかです。でも、なぜブラームスのドイツ・レクイエムのよさを強調する人間が(とくに合唱界で)非常に多いのか、理由が分かったのです。とても単純な理由だったのです。

少し余談をしましょう。このドイツ・レクイエムは、ブラームスがドイツ語の聖書から言葉を引用して歌詞とした曲であるため、キリスト教の世界の中でもマウンティング合戦の起きやすい曲ではあります。それも嫌な理由のひとつですが、私は2015年だったか2018年だったかの長期休職中に、実家に滞在して、ドイツ・レクイエムに親しむため、毎日のように聴いたことを思い出します。ある世界的指揮者の指揮したCDが実家にありました。ドイツの音楽学者の解説が邦訳されて掲載されていました。この曲は、山上の説教と言われる聖書の部分である「悲しむ人々は幸いである」という言葉で開始されます。最後に「主にあって死ぬ死人は幸いである」というヨハネの黙示録の言葉が出て来ます。これをその学者は「ブラームスは山上の説教に戻ってくる」と解説していました。山上の説教ではまったくないのに!これは、その音楽学者は聖書の専門家ではなく、また、そのCDを売る人も買う人も音楽に興味のある人であって聖書に興味のある人ではないため、見過ごされてきている間違いだと思われました。うかつに専門外のことを書かないほうがよいですね。以上、余談でした。まとまりのない記事ですみません。

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