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成績を実数で表すことの野蛮さ

 (私の書くことはすべてフィクションですよ。)

 私はかつて中高の数学の教員でした。ひんぱんにテストの採点をする機会がありました。そうして採点をし、成績をつける中で、「非常に野蛮なことをやっているな」という自覚がありました。点数や成績というものは、通常、実数(いわゆる普通の「数」)でつけるものです。(正確には0から100までの101通りの整数でつけるものです。)しかし、人の能力を「数」で表すことには無理があると思いながら採点をしていました。たとえばこの生徒さんはこちらの内容はよく理解しているが、こちらのほうはあまり理解できていない。逆の生徒さんもいます。これらを単純に「数」だけで評価してよいのか。数学には、「ベクトル」をはじめとする、たくさんの「数ではない」概念があります。それらを知っているせいも少しはあったのかもしれませんが、「成績を数でつける」さらには「人の能力を数で評価する」ということの限界を感じながら教員生活を送っていました。しかし、これに疑問を持つ教員仲間はいませんでした。生徒や保護者にもいなかったのではないかと思います(いたかもしれませんけど)。

 「数」(ここでは普通に言う実数)には、順序がついてしまいます。たとえば、「40点」と「60点」を比較すれば、60点のほうが価値が高いことになるわけです。これが「実数」の特徴です。しかし、そのようなものは試験問題とか採点基準とか配点とかに左右されます。そもそも人の能力が「数」で測れるはずがないのです。(ときどき「五教科」の点数が「五角形」みたいなもので表されているのを見ますが、あれも子どもだましであって、これは実5次元のベクトルです。それにしてもひとつの教科は実数ですけど。)

 「実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか」(新約聖書コリントの信徒への手紙一12章14節以下)とパウロは言っています。たしかに足には「歩く」という能力がありますが「聞く」能力はありません。同様にして、耳には「聞く」能力はありますが「嗅ぐ」能力はありません。このように、実際には多くの人には得手不得手があり、こういうものは数値化できないものです。ところがもしこういう能力を「実数」で表すと「順番」がついてしまい「歩く」ことのほうが「嗅ぐ」ことよりも「レヴェルが高い」とかいうことになってしまいます。「え?足さんだってにおいは嗅げないんだよ、まして鼻にはにおいは嗅げないでしょう」とか「え?目でさえ見えるんだよ、まして口さんだったら見えるでしょう」とかいう会話が日常となります。こういう価値観によって私自身、苦しめられてきました。「腹ぺこさんは東大に受かるんだからまして高校数学を教えるなんてお茶の子でしょう」とか「腹ぺこはiPadの充電すらできないのだから、まして論文の書きかたなど知るまい」みたいな感じです。そういう問題ではないのだ!

 これらはすべて「成績を実数で表すことの野蛮さ」から来ています。教員のときにひしひし感じていた違和感を、いままさに自分自身への評価で感じています。これは野蛮だよう!

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