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有能サヴァンと天才サヴァン

 最近、「サヴァン症候群」という言葉を知り、図書館へ行って調べ、相互フォロワーのかたから以下のダニエル・タメットの2冊の書物を教えてもらって読了しました。タメット氏はサヴァン症候群の当事者です。『ぼくには数字が風景に見える』『天才が語るサヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』。

 まだサヴァン症候群という言葉の入り口に立ったに過ぎませんが、自分の特性を言語化できるのではないかという期待を抱いています。そこで、タメット氏の本には出て来ませんが、図書館で調べたときに出て来た言葉で「有能サヴァン」と「天才サヴァン」という言葉があります。有能サヴァンとは、その人の(言っちゃ悪いけど)多くの能力の低さと比して、一部の能力が傑出している人のこと。そして、天才サヴァンとは、優秀な能力ばかりの人のことで、天才サヴァンは世界に百人くらいしかいない、という記述でした。直感的におかしな記述だと思いました。タメット氏の本を読んで、ますますそう思いました。その有能サヴァンの定義だと、「まともなコミュニケーション能力がほとんどない『くせに』電話帳をまるまる暗記している」みたいなものを指すと考えられます。しかし、これは人間の能力というものに対するはなはだしく浅い理解を示していると私には感じられます。それを言うなら、私にとって多くの人は「円周角の定理の証明も言えない『くせに』仕事をしながら雑談ができる」という特殊な能力を持った有能サヴァンです。能力と言われるものは、私の理解では「世間のニーズにいかにあっているか」で決まるようなものであって、どのような能力は価値があってどのような能力は多くの人が持っている当たり前な能力か、といったものは単に「多数派か少数派か」ということを言っているに過ぎないのです。タメット氏は、映画「レインマン」(見たことありませんけど)のモデルとなったキム・ピーク氏と会ったときも、サヴァンに差はつけていません。(キム・ピーク氏は、24時間、介護が必要な状態にあった障害者。)その「有能サヴァン」と「天才サヴァン」という分類は、人間の能力というものの複雑さへの無理解を露呈した、あきれた分類と言わざるを得ません。

 タメット氏の2冊は、いずれも少し古いもので、2000年代の書物です。1冊目の巻末にサヴァン症候群(や自閉症スペクトラム障害、発達障害という言葉も一般的でなかった時代であり、またアスペルガー症候群など)の解説を書いている医師などは、典型的に世間にアスペルガーだの発達障害だのという概念を誤って認識させた一連の医師のうちのひとりであり、私に言わせれば罪の重いものです。また、インターネット検索で出る、10年くらい前の日本でドラマ化されたサヴァン症候群の人の話の医学的な監修をした医師のインタビューも、誤解に拍車をかけています(だいたいテレビドラマというものは、うつ病にしろ、不妊治療にしろ、数学者の描きかたにしろ、世間に誤解を与えることしかできません)。このような特殊能力について書いた本も、なぜ売れるかと言ったら「こんなこともできない人が、こんなこともできるなんて、すごい!」と人が思うから売れる、という面は否定できません。(障害者福祉の人さえ、そう読んでいたかもとおっしゃったかたはいます。正直なかたですね。)人の能力はそんなに一面的ではありません。「有能サヴァン」「天才サヴァン」という言葉にだまされてはいけません。私はこれからも自分の才能の言語化に努めていきたいと思います。

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