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土居健郎と奥田知志

 牧師にしてNPO法人「抱樸」理事長である奥田知志牧師の『いつか笑える日が来る』を熟読し、また、コロナで教会が閉鎖になったころ、今年のイースター(2020年4月12日)から、奥田牧師の牧会する東八幡キリスト教会のオンライン礼拝宣教を、毎週、欠かさず見てきました。奥田牧師は、現代のわたしたちに、大切なメッセージを語り続けておられると実感しています。しかし、奥田牧師の話を聴いていて、しばしば思い出されるのは、土居健郎(1920-2009)の『「甘え」の構造』をはじめとする、「甘え」関連の書籍のかずかずです。


土居健郎は、1920年生まれなので、ちょうど、今年(2020年)、生誕100年です。土居健郎の『「甘え」の構造』は、1971年の著作です。土居が51歳のときの著作であり、すなわち半世紀くらい前の本ですが、土居の「甘え」理論の始まりは、1950年、敗戦から5年、土居が30歳のときにアメリカに渡ったときのカルチャーショックから始まっています。土居がその「甘え」理論について、はじめて「一般人向け」の本を書いたのが『「甘え」の構造』だというわけです。
かんたんにいうと、欧米諸国の言語(半世紀前の本ですから、外国と言って、欧米諸国しか念頭にない、というのは、差し引いて考えるべきでしょう)には、「甘え」という語彙がない、ということに気づいた、ということ、日本の「甘え」という無自覚的で非言語的コミュニケーションの言葉を、(その明晰な頭脳で)「言語化」した、というのが、土居の大きな功績でしょう。


勘違いされていることも多いようなのですが、土居は、決して「甘え」という言葉を悪い意味で使いません。『「甘え」の構造』という本は、その書名の通り、「甘え」というものの「構造」について述べた本で、「甘え」のことを、よいとも悪いとも言っていない、ということです。


『「甘え」の構造』は半世紀前の本ですが、この半世紀のあいだ、日本は、どんどん社会から「甘え」を排除してきました。いま、「甘え」という言葉は、かなり悪いニュアンスをもつ言葉になってしまいました。そもそも、2007年版の『「甘え」の構造』の裏表紙に書かれてある文章(だれが書いたのでしょうか)が、土居の「甘え」理論への無理解を露呈しています。少し引用しますと、以下のようです。「無神経な「甘やかし」と「甘ったれ」が蔓延しています」「いまこそこの不朽の名著を読んでじっくり考えてみましょう」。など。
土居健郎の『「甘え」の構造』は、とにかく「不朽の名著」と呼ばれ、私と同世代の人(私はいま44歳です)では、とにかく偉い先生などが課題図書にしており、宿題として読まされた、そして読まされた読書って頭に入らないものですから、読んだことは記憶しているけど、内容は記憶していない、というところまで含めて「『「甘え」の構造』あるある」です。最近も、土居健郎は、「甘え」を批判した人物だと、土居を正反対に評価しておられるかたに出会いました。それくらい、持ち上げられるわりに、誤解されています。
(「聖書」や、「イエス・キリスト」にも似ています。持ち上げる人ほど、中身を読んでいない。)


話が少し横道にそれることをおゆるしください。「甘えの分散」という言葉は、私の仲間の名言です。どういう意味かと言いますと、1箇所に強烈に甘えている(恋人ひとりに甘えている?)と、そこを切られたときに打撃が大きいので、なるべくたくさんのものやひとに、ちょっとずつ甘えるという意味です。たくさんのものやひとに、ちょっとずつ甘えていれば、甘えられるひとりひとりのご負担は小さくてすみますし、なにより、1箇所くらい切れても、だいじょうぶです。言いえて妙だと思います。安冨歩さんは、このことを、「自立とは、多くの人に依存することである」と表現しています(『生きる技法』)。ほぼ同じ意味です。伝聞ですが、奥田知志牧師は、これを、1本の太いパイプで支えられているより、糸100本で支えられているほうがよい、と表現しているそうです。これもほぼ同じ意味でしょう。


奥田牧師の話を聴いていて、しきりに土居健郎が思い出されるのは、奥田牧師は、この、甘えのゆるされなくなった、孤立した社会において、いっしょうけんめい、「甘え」を取り戻そうとなさっておられるように見えるからです。
よく奥田先生が言う、「助けて」と言えない社会の雰囲気のお話も、「助けて」と言わせない社会の、「甘え」をゆるさない雰囲気のせいだということができます。ほんとうに、「助けてください」と言えない人は思ったよりずっと多いです。ひとに「困ったときはいつでも言ってね」という人ほど、自分ではSOSが出せなかったりします。ではなぜ私は、いろいろな人に「助けて」と言えてしまうのか。これは、私には「甘え」があるからではないか。
奥田先生がよく言う、社会でよく聞く言葉である「自己責任だ」「自業自得だ」という言葉も、ようするに「甘えるな」と言っている言葉であるように思われます。


2020年6月7日の礼拝の宣教(YouTubeで見られます)での「神様にぐちを言いましょう(神様くそったれと祈る話)」という話のときの、「ぐちを言う」というのは、甘えることです。
依存することも、甘えることですし、祈りとは、神に甘えることです。(「お祈りは神さまにあまえること」土居健郎『信仰と「甘え」増補版』(1992)より。)
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの十字架上の言葉が、イエスの、神への「甘え」であることは、まさに土居健郎が、的確に指摘しています。
 土居健郎は、晩年、日本社会から、どんどん甘えがしめだされていって、孤立社会になっていくのを、憂いていたふしがあります。以下の文章は、『「甘え」の構造』の最新版(2007年)に、87歳の土居が付け加えた「「甘え」今昔」という文章からの引用です。まるで奥田知志牧師が書いたような文章で、驚かざるを得ません。
「要するに人間は誰しも独りでは生きられない。本来の意味で甘える相手が必要なのだ。」
(土居健郎「「甘え」今昔」2007)
 この、甘えのゆるされない、すべては自己責任の、ひととのつながりの切れた、孤立した社会において、もし土居健郎が生きていたら、なんと言うだろうか、というのは、非常に気になるところです。これは、土居健郎の、残されたたくさんの原稿を見て、現代なら土居はなんというか、考えをめぐらすよりありません(どなたか、研究して、論文を書いてください)。もしくは、せめて奥田知志牧師のメッセージを聴きましょう。

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