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与えるよりは受ける方が幸いである

 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:25)。イエスの言葉とされています。昔から、違和感のあった言葉です。なんだか、たくさん持っている人が、お恵みみたいに、持っていない人に与えることが幸いだ、と言っているみたいで。その違和感は、このnoteでも、ときどき書いていたと思います。たまにはひっくり返して「与えるよりは受ける方が幸いである」と言ったほうがいいのでないの?と。

 この言葉について、非常に的確に書いている田川建三さんの言葉に出会ったので(『新約聖書 訳と註』)、思わず共感して、このnoteを書いている次第です。田川建三さんの言われることに全面的に賛成するわけでもないのですが(それはそうですね。みんな違う人だから、ある人の意見に全面的に賛成できることは普通はないでしょう)、この箇所については、「まさにそのとおり」。

 この言葉、この箇所(使徒言行録)に、パウロが引用する場面以外、出てこない言葉として有名です。福音書には出てこないのです。田川さんは、いろいろ細かく論じた上で(その論のすべてを紹介しなくてごめんなさいね)、この言葉(「受けるよりは与える方が幸いである」)は、イエスの言葉から遠い、という話を書いておられます。そして、イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる」と言ったと書いておられます。このタイミングでその言葉を出すことは、まったくその通り!と思ったので、共感をもって、その話を、(私が理解したことを)ご紹介するわけです。

 イエスは、(ルカ11章によると、真夜中に友だちの家に行ってパンを3つ貸してくださいという人くらいのずうずうしさで)「求めなさい。そうすれば与えられる」と言ったのです。現実には、求めても求めても与えられないということがあります。しかし、そこでイエスは、「求めなさい。そうすれば与えられるかもしれないし、与えられないかもしれないし、わからない」とは言わなかったのですね。「求めなさい。そうすれば与えられる!」と言い切ったわけです。これは空前絶後の名言だと思いますね。「世紀の名言」どころではない。「世紀の名言」なら百年に1度、出ますけど、これは二千年に1度、出るか出ないかの名言だろうと個人的には思っています。

 現実には、求めても与えらないことばかり。でも、与えられるまで求め続ける、見つかるまで探し続ける、門を開けてもらえるまでノックし続ける、そうしたら必ず与えられるよと、そのことをイエスは言ってくれる。これは、「足りない」「貧乏な」人向けの言葉です。これも何度も書いて恐縮ですが、目の見えない人が、イエスによって奇跡的に見えるようになったなんていう話は、福音書に、たくさん出て来ます。視力を求めた人に視力が与えられた話です。この「求めなさい。そうすれば与えられる」という言葉に、ご利益宗教的なものを感じて、反発なさることもけっこういらっしゃることも知っております。「『求めなさい。そうすれば与えられる』なんて、自動販売機みたいだ」とか、「神のみこころに沿ったものが与えられるのだ」とか。もろに「求めても与えられません」とはっきり書いておられるブログもお読みしたこともあります。お気持ちはよくわかります。願ったからって、なんでもほいほい願いがかなうことはあるまい。たしかにそれはご利益宗教だろうと思います。しかし、ご利益宗教のなにがいけないのでしょうか。「仕事がない」「住むところがない」「食べるものがない」「病気が治らない」どれも切実ではないですか。「求めなさい。そうすれば与えられる」と言い切ったイエスは、やはりすごいではないでしょうか。その言葉を信じて、私も歩みたいです。

 そこへいくと、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉は、自分がたくさん持っていることが前提ですね。そして、持ってない人に「わけてあげる」。それはとってもいいことですけど、たしかに田川さんのおっしゃる通り、「求めなさい。そうすれば与えられる」という言葉とは、距離のある言葉です。世の中は、だれでも貧乏になる可能性があるし、だれでも突然、病気になって仕事を失う可能性があるし、私自身も、こんなに仕事を1年も休むことになるとは思いませんでした(これから、どうやって生きていけばいいのだろう)。とくにこのコロナの世の中、たくさんの人が、いまも仕事を失っています。それは、ひとごとなのじゃなくて、自分の身にも起こることなのです。ですから、たまには「与えるよりは受ける方が幸いである」と言い、「平和の祈り」も、たまにはひっくり返して「慰めることよりも慰められることを」「理解することよりも理解されることを」「愛するよりも愛されることを」と祈ったらいいかなと思っています(「祈りじょうずよりも祈られじょうずに」と言っていた牧師さんも知っています)。そうでないと、「助けて」って言えない人になっちゃうよ!自分が助けてばっかり、ほどこすばっかりの人は、いざ自分が困ったときに、「助けて」って言えなくなっちゃうのだ。そこはお互いさまだから、自分が困ったときには、助けを求めればよいのだ。

(私の友人で、「助けて」って言える人がいます。見習うべき人です。きのうも、また助けてくださいとおっしゃってこられた。私もその人を見習って、こちらからも助けを求めました。その人は、生活保護を受けておられたこともあります。そのかたとの出会いで、私は、生活保護というものは「生活が破綻した人が受けるもの」ではなく「生活保護というれっきとしたもので生活を立てている人のこと」ということがはっきり理解できました。とにかく、生活保護は、「助けて」と言える人でないと、なかなか受けられないものだと思います。心理的に。)

 だいぶ、田川建三さんから逸脱しました。いつもの、私が思っていることの話になってしまいました。でも、その文章を読んで、とても共感したので、思わず書いてしまいました。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

(以下に、まったくの蛇足を書きます。田川建三さんの本を読んでいて、ひそかに疑問に思っていること。その『新約聖書 訳と註 使徒行伝』を読んでいても、たとえば、「ルカ(使徒行伝の著者)は、露骨な人と人の衝突を描きたがらない傾向にある」と言って、あちこちから、その例を引っ張ってこられるのですが、私がひそかに思っているのは、それって、最初にそう思って(ルカは露骨な人と人の衝突を描きたがらない)読むからそう読めるのであって、そういう論は、根本からひっくり返る可能性があるのでは?ということです。いま田川さんが執筆しておられるという『概論』という書物も、もしかして、「田川建三の思い込み大全集」になる可能性があるんじゃないの?と思ってしまいますが。言い過ぎ?まあ、私は基本的には田川さんの愛読者なので、『概論』が出たら読むかもしれませんけどね…。)

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