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一種の引きこもり

 最近、あるご婦人と電話をする機会がありました。仮に橋本さんとしましょう。橋本さんは、小さいころから教会に通っておられたクリスチャンですが、とてもピュアな感覚を持っておられます。そのことを改めて感じるお電話でした。

 橋本さんは、人脈の大切さの話をなさっていました。とにかく人脈があると、思わぬところから話が広がって、なにか助かる道が開けることがある、というお話でした。私はまさにいま、それを感じて(というか、それに賭けて)動いているところですので、とても感じ入りました。そして、私が「聖書はじつは私たちに、もっとあつかましくなるように、と、うながしているように思えます」というと、橋本さんは「どういうところですか」と言われたので、バルテマイ(バルティマイ)の話をしました。私の記事を続けてお読みのかたには、おなじみの話です。ときどき私はこの話をします。バルティマイという盲人が、道ばたに座って物乞いをしていました。イエスが通ったという話を聞いて、バルティマイは叫んだ。ここまで言った瞬間に、橋本さんは、私の言いたいことをすべて理解なさいました。こういうかたは、極めてまれです。橋本さんは笑いながら「みんなでしょう」とおっしゃいました。イエスさまに助けてもらう人は、みんなバルティマイくらいにあつかましいでしょう、という意味です。そのくらい、この話が通じたのです。

 (以下に、最近、書いた、最新のバルティマイの話を載せますね。読まなくてもだいじょうぶですよ。長いですし。ご興味をお持ちのかただけ、お読みくだされば、と思います。スルーでだいじょうぶです。)


 そこで私は、「みこころならば、わたしを清くすることがおできになります」とイエスに言った重い皮膚病の人の例も挙げました。「重い皮膚病」と言っていますが、昔の聖書では「らい病」と書いてありました。あまりにらい病という言い方は差別的なので、避けられるようになったのです(そして、これは厳密な意味でのらい病ではないという説も現れています)。でも、イエスの時代から、この病気は、ものすごく差別されていました。そして、「みこころならば、わたしを清くすることがおできになります」という言い方をした重い皮膚病の人も、ある意味でちょっとあつかましいです。バルティマイの「助けてくれー!」というあからさまなあつかましさとはまたちょっと違いますが、彼もまたあつかましいです。

 カナンの女の話もしました。無視されても断られても、食い下がって食い下がった女性の話です。橋本さんは「この話を、イエスも外国人差別をしたのだ、と説教する牧師もいるけれど、これはカナンの女が主役の話だと思う」とおっしゃいました。私もそう思います。イエスさまのほうに、どういう事情があって断られ続けたのか知りませんけど、とにかくあつかましく食い下がった彼女の娘は癒やされたのです。

 じつは、橋本さんは、ときどき、ご自身が、社会不適応者であること、一種の引きこもりであるということをおっしゃいます。主婦をしているからそうは見えないだけだと。たしかに、橋本さんは「一種の引きこもり」には見えません。しかし、私自身の経験からしても、ここで本人に逆らって「そんなことはないでしょう!」というのは、話を聞いていない証拠みたいなものなので、私は橋本さんのおっしゃる通りに受け取りました。しかし、ここからわかることがあります。この聖書の読みかたというか受け取りかたは、「弱い人」の受け取りかただと。私も弱いし、橋本さんも弱い。だから、ごく自然に、バルティマイの話をバルティマイに感情移入してとらえ、カナンの女の話はカナンの女に感情移入してとらえるのだと。(イエスに感情移入するのではなくてね!)

 橋本さんは、小さいころから、たくさんの聖書のお話を聞いて育っておられますので、たくさんの聖書のお話が、あたまのなかでごちゃごちゃに入っているようですが、それによって、年を重ねることによって、いろいろな話がつながってとらえられるようになった、とおっしゃっていました。この、「バルティマイの話をバルティマイの側から読む」というとらえかたは、決して聖書の読みかたのメインにはならないということもわかった気がしました。でも、私にはやはり聖書というものは、「イエスさまに助けてもらう」視点で書かれているように思えてならないです。

 橋本さんとの話で通じ合ったたくさんのことのひとつは、神様にあつかましくすることがお祈りであるという話でした。まあ私たちの祈りと言えば、これをしてください、あれはしないでくださいと、神様にあつかましくしまくりです。でもそれでいいという気がします。信仰の大先輩で人生の大先輩である橋本さんが、この話に共感してくださるのですから。

 橋本さんとしなかった話で、もう少し、聖書に出てくるあつかましい話を出しますね。ひとつは、やもめと裁判官の話です。ルカによる福音書の18章1節以下です。神を畏れず人を人とも思わない裁判官に、しつこく「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言い続けるやもめの話です。(現代でも、やもめと言えば未亡人で、立場は弱く、また裁判官といえば社会的にも強い立場でしょう。)これはもう、極めてあつかましい人のたとえですが、なぜ私がここまではっきりした「あつかましい」話をいままで挙げなかったのかと言えば、若いころに出会ったある強烈な「願いはかなうのだ!」というタイプの伝道者が、やたらにこの箇所を引用していて苦手意識があったからです。しかし、いま読んでみると、黙読だけでも涙が出るほど感動的です。おそらく音読したら号泣するのではないかと考えられます。これくらいあつかましく行けとイエスは言っているのです。

 また、旧約聖書に「ヨブ記」という書があります。これも橋本さんとは話していませんが、とにかくヨブというのは、ひたすら神様に不平不満ばかり述べます。もちろんそれだけの不平不満を言いたくなるくらいの理不尽な目にヨブはあっているわけですが、それは私もいっしょで、みんな神様への不平不満はあると思います。とにかくヨブは神様への不平不満を述べ続けます。ずっとその調子で続きます。しかし、最後の最後で神様がいきなり出てきて、ヨブ記は驚くべきハッピーエンドを迎えます。これは、あまりに唐突なので、「これは後世の人の付けたしだ」という意見を述べる人もいます。そうかもしれません。私の20歳から25年つけている日記はまさに「終わりのないヨブ記」です。神様は出てきません。しかし、ヨブ記の作者(もしくはヨブ記に最後の付けたしをした人)の気持ちは痛いほどわかる気がします。ヨブのようにひたすらあつかましい人には最後に神様が現れて圧倒的なハッピーエンドを迎えるように書きたかったのでしょう。これもまた、あつかましい人が報われる話と言えるでしょう。私の話は極端ですか。そうかもしれませんが、聖書は私たちにもう少しあつかましくなることをすすめているように思えてならないです。

 とにかく、橋本さんとは、この話でつながりあえました。うれしかったです。この日は、朝からろくなことがなかったので、余計、この橋本さんとの30分ほどの電話は、救いとなりました。きょうは、午前は就労移行、午後はコロナワクチンで、noteを更新する時間があまりなく、この話をだらだらと書いてみました。みなさんも、もう少しあつかましく生きてみませんか。神にも人にも。

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