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字句通りでない「引用」

 学生時代、私の専門は数学でした。「セミナー」と言われるものが毎週行われていました。だれかの論文や本の紹介でもいいですし、自分で考えたことを話すのでもいいのですが、とにかく「人前で話す」というものです。指導教官の先生や研究室の先輩や同輩や後輩が聴いています。最初に私がセミナーで話したときは、ある(その時点で)20年くらい前の有名な論文の紹介でした。セミナーで何を見られているのかと言えばそれは、「いかにその内容を咀嚼しているか」でした。たとえば、論文に載っている図よりも、こういう図のほうがわかりやすいな、と思ったら、自分で考えた図に変えて発表してもいいのです。この補題はいらないな、と思ったら、カットしてもよかったのです。それで「論文通りでない」と言って叱る先生などはいませんでした。私は終わって指導教官の先生から「なかなか明解でしたね」と言われました。最高の賛辞でした。

 奥田知志(おくだ・ともし)牧師が「人はパンだけで生きるものではない」(新約聖書マタイによる福音書4章4節、新共同訳)と言うとき、それは重い意味を持ちます。奥田牧師は長年、ホームレス支援をやってきて、「人はパン(食べ物)がないと生きられない」という現実を見て来ました。食べるものがない、住むところがない。それは究極の困難な状況です。しかし、人が生きるために必要なのは食べ物だけではないと奥田牧師は言います。話す相手、ぐちを言う相手、心配してくれる人が必要なのです。ですから奥田牧師の言う「人はパンだけで生きるものではない」という言葉には重みがあります。長年の経験の蓄積が奥田牧師の言葉に重みを持たせているのです。

 そもそもそのイエスの言葉が、当時すでに「聖書」であった旧約聖書の「申命記」の引用です(8章3節)。しかしその申命記の前後を読んでみると、文脈は明らかに違います。イエスはあえて文脈を無視した「ひとこと引用」をしているのです。これもイエスのなかで言葉がこなれて自分のものになっていたことを示していると思います。

 新約聖書のパウロの手紙はもっとはなはだしく、自由に、ときに強引に、旧約聖書を引用していきます。これも、パウロのなかで旧約聖書が自分の言葉として完全に咀嚼されていたことを示しています。今どきの、「聖書日課」(決められたその日の聖書の箇所)に従って律儀に聖書を「解説」する牧師とはだいぶ違いますね。数学のセミナーも、あまりにも論文通りに、「表面的に」発表する学生は、しばしば指導教官の先生から注意されていたものです。それは自分の言葉になっていない状態であることが、セミナーを聞く者には明らかでした。

 最近、以下の加藤一二三さん(ひふみん)の講演を聴きました。ひふみんは熱心なカトリックの信徒です。「ひふみんワールド全開」の講演会で、とらえようによっては支離滅裂な話なのですが、そのひふみんの自由な、そして独自の聖書の引用のしかたは、明らかに聖書の言葉を自分のものにした信仰者の姿を映し出していました。「引用」とはかくあるべきだと思いますね。

(リンクはりわすれ!どうぞおゆるしを。)




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