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ぜんぶ神様のせい

 「バタフライ・エフェクト」という言葉があります。アマゾンで、あるチョウが羽ばたくか羽ばたかないかの違いで、われわれの生活に大きな影響があるかというような話です。私の専門は一応、数学でしたので、知っています。カオス理論というものがあります。ほんのちょっとした違いが、未来を大きく変える可能性です。

 高校の物理で、次のような問題があります。仰角何度で、初速度いくらで、球を打ち上げたとき、その球は、何秒後に、どこに落ちるか。しかし、この問題は、未来を予測させる問題になっております。「将来のことはなにもわからない」のに。

 これを突き詰めていくと、世の中にある無数の微分方程式をぜんぶ解いたら、すべて未来が予測できることになってしまいます。まさかね。と、直感するのですが、その直感のほうが正しい。初期条件がほんのちょっと違っただけで、結果は大きく異なるのです。したがって、未来はやはり予測できないのです。

 たとえば、私がキリスト教と出会ったのも、偶然につぐ偶然につぐ偶然につぐ偶然です。出会いとは、そのようなものです。悪いものとの出会いもそうで、あいつのせいで、こんなひどい目にあった。行き場のない怒りを、どこへぶつけてよいかわからないときがあります。ハラスメントを受けて、仕事が続行できなくなった。ハラスメントしてくる上司が悪いように思えますが、そいつを部長に任命したもっと上のやつのせいかもしれないし、そういう環境の職場のせいかもしれないし、いやいや待て、ハラスメントを受けるオレのせいかもしれないよ(普通はそうは思わないことは知っています。しかし、「ハラスメントを受けやすい人」というのがいるのは確かだと思います)。

 そうして考えていくと、ついにたどりつくのが、「すべて、この世界を造った神様のせい」。神様が、「光あれ」と言って、この世界を造ったから、すべての出来事が起きるのであって、すべて神様のせいじゃないか。

 そこまで開き直れるというか悟りを開けるといいんですけどね、実際には、目の前の人のせいにせざるを得ません。ずっと自分のせいだと思って来た私は、かなりそれが、自分のせいばかりではなかったのに、幼少のころからすべて自分のせいにされてきたので、今、ほんとうはだれのせいか、ということを、真剣に考えるようになってきています。そう簡単に開き直れません。バタフライ・エフェクトのようなことはたくさんあっても、「おおすじの流れ」で否定できないものがあります。生まれつき脳のつくりが多くの人と違っていた(=普通は、「発達障害を持って生まれた」という)→幼少のころ、だらしがない、整理整頓ができない、忘れ物、なくし物をする、電気のつけっ放しをする、ということで、両親から愛のない叱責(=虐待)を受ける→それが原因で、おとなになってから、二次障害である精神障害を引き起こした→数学者になれるだけの才能はあったのに、それが原因でなれなくなった→ひたすら転落人生→いまも困窮している→これからもっと困窮するだろう、という「おおすじの流れ」は否定できないものがあります。「そんなことを言うな、いろいろいいこともあったろう」と人は言うかもしれません。そうかもしれませんが、バタフライ・エフェクトのごときものを超越して、この「おおすじ」は変わらないものがあります。

 すべて神様のせい、どころか、すべての希望は気休めにしか思えなくなります。こんな私は、どこで救われるのか?こうなったのはだれのせいか?ずっと自分のせいにしてきたぞ。

 後味の悪い記事ですみませんね。きょう、ちょっと書きすぎですね。そろそろやめますね。また今度。

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