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尊敬する人

どうも、Cherryです。

家族や友人をはじめ、「自分ができないことをできる人」は基本的に皆さん、尊敬しています。

その中でも特に尊敬している人を、今回は紹介いたします。

安田菜津紀さん


菜津紀さんってどんな人?

認定NPO法人Dialogue for People(D4P)所属のフォトジャーナリストです。D4Pの副代表も務めています。

16歳のとき、国境なき子どもたち(KnK)主催の「友情のレポーター」としてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。これを機に、難民や貧困、災害の取材を国内外で進めていて、現在に至ります。また、東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けています。

著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)などがあります。今年の2月に新刊『あなたのルーツを教えてください』(左右社)がリリースされました。

不定期ですが、TBSテレビ『サンデーモーニング』にもコメンテーターとして出演しています。

noteでも記事を出されています。以下の記事は、菜津紀さんの活動における原点「家族」について書かれています。とても興味深い内容でしたので、是非に。


菜津紀さんとわたし

<出会ったきっかけ>
わたしが菜津紀さんと出会ったのは、2017年秋のこと。新宿のオリンパスギャラリーで行われた「東北スタディツアー 」の報告会で。この報告会は、Twitterで知ったんだけど「ちょっと見に行ってみようか」みたいな軽い気持ちで行ったもんだから、これが衝撃的な出会いになるとは思ってもいなかった。


<出会うまで>
軽い気持ちで行ったとは書いてあるけれど、実際のところ、東日本大震災が自分の人生に大きなインパクトを与えた出来事だったというのは、根っこにあった

 いまの日本には、生きづらさを抱えている人がたくさんいます。
 障害、病気、国籍、性的指向……。“ちがう”ということがハンディになる、現実があります。
 そのことが明らかになったのが、3・11東日本大震災でした。社会が不安に陥った時、マイノリティがますます追い詰められてしまう。
 そんな、成熟していない社会は不安です。

一般社団法人Get in Touch「設立の背景」

これは、とある一般社団法人(この団体も菜津紀さんがきっかけで知りました)の設立背景の引用になるが、私も小学校生活が終わる間際に東日本大震災を経験したもので。


生まれてはじめて「生きづらさ」を抱えてしまったのも、ちょうどこの頃。
中学に入り、学校で浮いた存在になってしまった経験から「生きづらさ」を抱えてしまった。(今だから言えるけど、いつ不登校を経験してもおかしくなかった)

今までの人生でもう100万回くらい、色んな人から「変わり者だね」と言われてきたが、中学時代は「変わり者」というだけで大勢から避けられていたということもあった。人があまり興味を持たないようなことに興味を持ったことからなんだろうか、よくわからない。

これが私の自己否定感のはじまり。そんな私だが、その自己肯定感を取り戻す努力はしていた。具体的に何をしていたかを少し紹介すると、

図書委員会で副委員長を務めたこと(3年の春にやっとの思いで入れた委員会だけに、本当は委員長やりたかった・・・)
ソフトテニス部に3年間所属したこと(運動音痴だったものだから、技術の習得は誰よりも遅かった・・・)
修学旅行で行動班の班長を務めたこと(行動班の班員を選ぶ際、一部の男子から「お前と一緒の班になりたい人なんて誰もいない」とまで言われた・・・)

から。ただ中学時代に生じた自己否定感は拭えず。成績は悪くなかったが、勉強に身が入らず。高校受験に失敗。


高校は、私立のいわゆる管理教育校に進学。早期から受験勉強に邁進する雰囲気が意外にフィット。知り合いが誰一人としていない、中学とは全く違った環境でもあった。あと、「いじめは退学処分の対象です」という高校だったのも大きかったかも。


それがあって、志望していた大学に進学。自己肯定感を取り戻すこともできた。やっとの思いで手にした自由な時間を謳歌するも、目標のない日々に漠然と不安を覚える。そんな中での、菜津紀さんとの出会いだった。


<出会ってから>
そしてやってきた東北スタディツアー報告会の日。菜津紀さんと一緒にツアーへ同行した高校生たちの話を聞き、つい感動してしまった。

「感動した!」という言葉で片付けるのはちょっと乱暴かもしれない。ただ、衝撃的な出会いであったのには変わりがなくて、

・「いざという時に、いかに大事な人を守れるか?」を改めて考えるきっかけになった
・「私もスタディツアーに参加したかったな・・・。」なんてつい思ってしまった。(このツアーは高校生を対象としたものだったので、私は既に大学生で参加できず・・・)
・感動したが故に、「菜津紀さんのことをうちの大学の人にも知ってほしい」と思った。

ただ、どこか「生きづらさ」は抱えたままだった。そんな私は、何かヒントを得ることができればと思い、報告会終了後に菜津紀さんへ話しかけに行った。そこで得た答えは「海外に出てみるのも一つの手」ということだった。自分が死ぬまでになりたい人間像に対する答えの一部をみたような感覚だった。

この話と同じような内容の記事があります。以下よりどうぞ。

その後、
海外ボランティアに参加
: 2018年3月にタイ、2019年2月にフィリピンへ。どちらも、「日本の文化などを現地の小学生たちに教える」というのがメイン。

大学の企画団体へ持ち込む
: 2018年6月にプログラムを実施。東北スタディツアーの報告会に行って話を聞いて感動したのが、このプログラムにおける全てのはじまり。

などといった行動を起こし、その結果として刺激的な毎日を取り戻すも、無力さを痛感。危機感を覚えるのであった。これをポジティブな言い方にすると、「もっといろんな人と仲良くなりたい」「もっといろんな所に行きたい」なんて思うようになった。

その一方で、誕生日を迎える毎に目標をいくつか立てていたのだが、その目標がどんどん達成できなくなっていくような感じがしていた。

2020年の誕生日に立てた目標は、(その年の夏の時点で全て達成できないだろうなとは思ってたはいたが)年末時点になっても全て達成できなかった。コロナで海外に行くどころか家の外に出られなくなった時期で、何もできず、とても苦しかった。「なぜ生きるのか?」と聞かれても答えられない自分がいた。

そんな時に、菜津紀さんのことを思い出し、YouTubeでこんな動画をみた。

救われたような感覚で見ることができた。菜津紀さんに出会って本当によかった、そう思った瞬間がまた一つ増えた。

これからの人生でとんでもなく苦しい場面に直面することはあるはずが、その度に菜津紀さんのことを思い出すことができれば、と思っている。


どのようなところを尊敬しているか

自分の意志に沿って発信をしているところ。「当たり前のことじゃないか」と思う人もいるかもしれないけれど、「当たり前のことではない」と、私は思う。

私にはそれが得意なことではない。だからこそ、今noteで発信をする練習をしているのだが、その練習をはじめるきっかけとなったのが、こちらの記事。

実を言うと彼女のことも、菜津紀さんを通して知った。彼女は中学3年生の時、国境なき子どもたち(KnK)主催の「友情のレポーター」として、フィリピンで取材を行ったのだそう。それには背景があって、彼女は中学2年生の時、とにかく焦りを感じていて、

 なんとなく「このまま夢を抱き続けるだけで死ぬのかな」と焦る
→死ぬまでにやりたいことリスト、人間像を書き出した
→自分が本来なら到達できるその先に行くには、様々なものに応募して自分の価値を認めてもらわなければ

と思い、その一つとして「友情のレポーター」に応募したのだとか。「友情のレポーター」としての活動を機に、「言語化によって自信を持って決断できる」ということに気づいたのだそう。(これより詳細の話は、以下の記事に譲ります!)

菜津紀さんを通して知った方はこの他にもたくさんいて、その人たちのおかげで自らの見聞を広げることができた、と心の底から思っている。

これからもそんな皆さんからたくさん学ばせていただきます!(菜津紀さんと直接は関係のない方からも、敬意を持って学ばせていただきます!)


終わりに

菜津紀さんとは、対面では2019年の秋/オンラインでも2021年の春以来、お会いできていませんが、菜津紀さんと再びお会いできる日を心から楽しみにしています。もし菜津紀さんにお会いできる時が来たのであれば、その時私はきっと涙が溢れてしまいそうです。学生時代に菜津紀さんとの出会いがなければ、私はどんな人生を歩むことになっていたのだろうと思わずにいられません。

本当にありがとうございます。心からリスペクトしています。

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