ポエムを嘲笑る僕たちの心性の出所

以前もツイッターにちょっとつぶやいた話になる。

「歌詞ツイわろすw」「ちょっと見て、めちゃくちゃポエム書いてるんだけどこいつww」と笑われる姿をよく見かける。し、僕も普通になぜか馬鹿にしてしまう。「なにこいつ、やばいやろ」と思ってしまう。

と同時にものすんごい恐怖心を覚える。この僕のnoteだってポエムの塊みたいなものだ。もし裏で知り合いに「こいつのnote、正直めっちゃポエミーやな、あほみたい」と言われていると想像するだけで恥ずかしさで憤死しそうになる(くれぐれも絶対にやめてほしい)。

それでも僕らは同時にポエミーなものに魅かれる。西野カナ、Bump、RADWIMPS、amazarashi。極論だが、これらもポエムに曲がついただけだ。

もちろん音楽にするとまたいろいろと変わってくるのだとは思うが、やはり歌詞にも魅かれてこれらのアーティストに触れている方も多いのではないか。

ポエムに対しての拒絶反応は、色々な説明の仕方ができるんだろう。
他人の自己愛に対する過敏な自己愛の拒絶反応だったり、もっと簡単に言えば自分の優位性を担保するための他者を馬鹿にする好機であったりするわけであろう。

それはポエムを書いている人の人柄、状況にももちろん影響すると思う。大体僕が馬鹿にしてしまう時も、ポエムをつぶやいているという事実ではなくその人自身を嘲笑したいという気持ちが表れているだろう。

しかし僕たちはポエムに魅かれるし、なんならポエミーになる。「どうしてこんな人生なんだろ、俺」。これすらも見方によっては立派なポエムだ。

僕がここで言いたいのはだからポエムに寛容になろうぜということではない。多分文化上なかなか難しい部分もあるだろう。
けれど、僕たちの中にはポエムを嘲る側面もあれば、ポエムを崇拝する側面がある。それを認識することはとても大事なように思う。

そして、願わくば……さっきと違うことを言ってしまうが、やっぱりみんなもっとポエミーになってもいいと思う。元々そういう、ポエムを読みたい心性はみんな持ってるのではないかと思うし。

みんなもっとポエミーになって自由に表現できる世界になれば幸福度は上がると思う。ポエムは自由度が高い。
そこでは総理大臣を殺そうが、核爆弾を打ち上げようが、何をしてもいい。異界であり、メタファーであり、ファジーな世界だからこそ許されるものもあるし、表現できるものもあるし、そして、なにより僕たちは”僕たち”を生きることができるのだ、と個人的には思う。

どうでもいいけど、ポエミーとイッツミー(マーリオ)で韻を踏める。

#エッセイ #cakesコンテスト

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