つむじ風を見るとつい手をかざして(舞え…)と思ってしまう

久々ですが、なんとタイトル落ちシリーズです。

皆様も見たことがあるんじゃないだろうか。
公園の落ち葉などが、時々くるくると弧を描いて風に舞っているのを。
あの現象については、どうやらいろいろな言い方をするみたいだ。
だが、個人的にはつむじ風という呼び方が一番しっくりくる。

そして僕の中に、1割くらいではあるのだが『自分がなんらかの能力者だと信じてやまない僕』の存在を感じる。

どうしてもつむじ風を見ると、その僕が表面に出てきてしまう。
つむじ風のところまで走っていき、その上に手をかざして(舞え…)と念じてしまう。そうすることで〈能力者〉である自分を確かに自覚することができる。

今上の文章を見た何人かは、(こいつやべえやつだな)と思ったかもしれない。しかし、こういった心性は男性諸君の中には少なからずあるのではないだろうか。

先日もツイッターで「この寒さの原因、僕の能力(ちから)のせいなんです」とつぶやいてしまった。だってなんか天候や気候を操ることができるって、強大な能力者感があるだろう?そのごっこをしてみたかったのだ。

すると友人Tが「止めてくれ」と頼んできた。この時にはすでにもう僕の理性は『自分がなんらかの能力者だと信じてやまない僕』に奪われているため、「それが…暴走してしまって止められないんだ…」と返答せざるを得なかった。

すると友人Tから飛び出てきたのは「じゃあ殺すしかない」とあまりにも短慮な発言。死後強まる念というのがあるだろう!能力者を簡単に殺してはいけない!

話が少しそれてしまった。これはいわゆる『中二病論』だと言ってしまえばそうなんだろう。要は自分は中二病だって言いたいんでしょ?と。
それでも、僕はこういう「能力者になりたい」という心性はどこから来るものなのかに興味はあるし、さらっと流されがちな論点でもあると思う。

ポエムの話でも出したことと重なるところが大きい。
この「能力者であると信じている自分」は、自分の劣等感や虚栄心を満たすためかもしれないし、幼児期の自己中心性を引きずっているだけかもしれない。ただ、現実の中でこういう遊びをできるということもとても大事なんじゃないかと思う。いささか自己弁護的ではあるが。

僕は太陽の光が雲の切れ間からいい感じで出ていて、神秘的なとき(わかるやろ?)は(天地開闢の時来たれり)と思っているし、エレベーターや自動ドアの前に立つたびに(開け…)と念じている。嘘だ。自動ドアの時は大体声に出してしまう。

こういうことにはまったく意味がないと言う意見もその通りだろう。そんな歳になって何をしてるんだ。ただの妄想、言葉遊びだ。もっともだ。そしてそれでも結構だと思う。

ポエムの話でも述べた通り、ある程度区別がついている範囲でなら、こういう遊びをすることの何が悪いのであろうか?
中二病などと勝手に病いにされているが、僕はむしろ健康的な心の遊びの部分が出ているのではないか思う。

これは残念ながら真面目な話をしている。中二病といってファンタジー的な世界を押し付けるから現実世界にファンタジーをはみ出させてしまう人が出てくるのだ。ゲーム感覚で人を殺してはいけない。

結局言いたいことは、みんなもっと中二病になろう、ということだ。
そこからいろんな想像が広がるし、創造もできる。結局この世の中で新しいことを生み出す人は大体中二病ともいえるわけなのだから。

そんなことを考えながら、今日も僕は落ち葉が舞うつむじ風の上に手をかざし、こう思う。

(切り裂け…)

#エッセイ #cakesコンテスト

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