ゴリラに異常な憧れを示す人間たちの心性

先日の記事で「数奇」ではなく「奇特」が正解でした、と言っていたのだが、どうやらそれすらも間違っていたらしい。どちらかというと「数寄者」のほうが正しいそうだ。
「奇特」というのは奇妙とか風変りという意味で間違われやすいらしい。人に対しては、「とりわけ優れた」という意味でしか使われない。
僕の間違いを訂正したつもりだった人ですら間違っていたというわけだ。
それはそれでうれしいような悲しいような。

なので、結局僕の記事を読む人は「数奇」でも「奇特」でもなく、ただの「物好き」という言葉に収まってしまうらしい。みんな、かっこいい言葉を使おうとするときは必ず調べてから使うんだぞ。

だがしかし、僕はこれからもわざわざかっこいい言葉の意味を調べてから使うということはほとんどないだろう。それは僕の中の理性的な部分よりも僕の「ゴリラ性」が上回ってしまうからだ。

http://diary.uedakeita.net/entry/2016/09/22/055419
「なんでもゴリラにするのやめて!」|真顔日記

突然だが、皆さんはこのブログ記事をご存じだろうか。お馴染み上田啓太さんのブログだ。

上田啓太さんはこの記事の中で、自分はゴリラへの歪んだ憧れを持っているため、なんでもゴリラ化してしまうと述べている。
ゴリラに歪んだ憧れを持っている上田啓太さん、そして上田啓太さんに歪んだ憧れを持っている僕という構造。まるでマトリョシカのようだ。

そういえば僕の後輩の一人にも、ゴリラに熱い愛情を注いでいる女の子がいた。ラインスタンプもゴリラ。イケメンゴリラ(略してイケゴリラ)について長々と語ってくれるらしい。しかし、当人はゴリラとはかけ離れたような見た目をしているんだが……(はちゃめちゃにかわいい女の子だ)。

僕自身には彼らほどのゴリラへの愛情や憧れはない。しかし、やはりどこか魅かれる部分があることは確かだ。それは同じ霊長類としての仲間だからという理由だけなのだろうか……?

少なくとも僕の中では違う。いや違うというのもまた正確ではない。仲間であるというより、僕らの中の「ゴリラ性」そのものがその憧れを掻き立てているのだ。

上田啓太さんは「なんでもゴリラ」にしてはいけないと自分で自分を戒めている。「なんでもゴリラ」では確かにいけない。しかし、人間の中のゴリラ性自体は否定されるべきではないと僕は考える。

先ほども述べたように、僕の言語感覚ですら「ゴリラ性」を帯びている部分がある。いくら「調べなければいけない」と前頭葉で理解できていても、やはり強い言葉を使ってしまう。

「それはゴリラ性じゃない。お前が考えなしなだけだろ。ゴリラに謝れ」という一言が飛んできそうだ。確かにそれもまた正論であるかもしれない。一方で、やはりこれは僕のゴリラ性の顕現であると言いたい。これは、考えなしというより、力強さを秘めているからだ。

僕も上田啓太さんの同居人(杉松)のように、牛乳のパックの開け口などどちらが開く方か確認せずに開けることもあるし、マジックカットがついているドレッシングのビニールを強引にこじ開けようとすることだってあるし、どうやって開けばいいかわからないお菓子の箱は、破ってでも解体する。

人から見れば衝動性とレッテルを貼られ、馬鹿にされることもある。しかし、これは間違いなくゴリラ性だ。ゴリラにとって人間が決めたルールやマジックカットなんて関係ない。力こそすべて。Power is Allだ。

少し話はそれるような気もするのだが、以前友人たちとの談笑の中で「ADHD傾向のゴリラはADHDなのか?」という生産性があるようでない話をしていたことがある。
結論は「ADHDどころか、むしろ強く、行動力のあるゴリラだ」というところに落ち着いた。

つまり、「ゴリラ性」、言い換えれば「ADHD性」とも言えるかもしれない。ゴリラ社会ではそんなものはDisorderにならない。むしろ自由だ。

つまるところ、そういうゴリラの自由な部分を僕らは羨望するのだろう。
こんな何もかもが人間化し、ゴリラ性がどんどん抑圧され、むしろ問題であるとされるこんな世の中じゃ

poison...

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