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国際夜行列車を逃した時の話&ブダペストからクラクフへ国際昼行列車で行く話

はじめに—ドナウの真珠にお別れを

 「さようなら、ブダペスト。」
 6月も終わりに差し掛かろうとしていたある日、私はブダ地区にある王宮の丘からドナウ川の向こうに広がるペスト地区を眺めていた。イヤホンから流れる曲はモルダウ——それはチェコの曲だろうと思われるかもしれないが、この街にも素晴らしいほどによく合う——で、ブダペストに滞在している間ドナウ川の岸を歩きながら幾度となく聴いたものだった。

丘の上から国会議事堂を

 私はブダペストを世界一美しい街だと思っている。この街に出会ったのは3年前、ウクライナ西部の都市リヴィウに短期留学をしていた時のことだ。
 当時、週末の休みには旅行に行くことが定例となっており、他の学生たちはキエフやウクライナ東部の街に行こうと楽しげに計画を立てていたのをよく覚えている。しかし私はキエフにはリヴィウに来る前に既に寄っていたし、ロシア・ベラルーシと違って幸いにもビザが不要なこの国の「特権」を活かして隣国あたりに旅立とうと考えていた。
 そこで候補に挙がったのが隣国ハンガリーの首都・ブダペストであった。調べてみるとリヴィウからブダペスト、ブダペストからリヴィウともにちょうどいい時間に列車が出ている。週末旅行でも十分問題なく実行できそうだと判断し、売り切れてしまう前にとすぐさま駅に向かい切符を確保した。

キエフ発、リヴィウ・ブダペスト経由のウィーン行き国際列車

 つまるところ、最初はさほど深い思い入れがあってこの街を旅先に選んだわけではなかったのだ。旅行先としてちょうどいい場所にあり、名前もよく耳にするからという理由だけだった。

ブダペスト東駅に到着した国際列車

 しかしその呑気な考えはブダペスト東駅に到着したその瞬間に打ち破られることになる。プラットホームに降り立った時に出迎えられた美しいドーム屋根の下で、この街にどこまでも広がる美しさの片鱗を感じさせられた。

鎖橋を渡りながら

 実際、ブダペストの街はどこを切り取っても美しかった。ドナウ川の岸に出れば国会議事堂、鎖橋、そして王宮の麓から丘に登ればその姿が一層際立って仕上がるように思えた。「ドナウの真珠」という別名がこの街にはあるが、果たして本当に「真珠」という言葉で済ましていいのかと考えさせられるほどの魅力が街じゅうに溢れていた。かくして私は完全にこの街の虜になってしまったのである。

夜にライトアップされた国会議事堂は殊更美しい

 そしてこの度この美しい街に3年ぶりに降り立ち、6日ほどかけて街を彷徨い続けた。流石にここまでこの街に「沈没」する必要はなかったのではないかと思うこともあったが、やはり街を離れる時というものは寂しいものである。王宮のテラスで飲んだアペロール・スプリッツのアルコールが程よく体に回り、一層深い感傷に包まれた。
 しかしいつまでも丘の上にいるわけにはいかない。ワルシャワに戻る国際列車が出るまで残り2時間ほど、そろそろ宿に戻って荷物を回収する時だ。

サバッチャーグ(自由)橋は緑色の鉄骨造りが特徴的で、無骨ながらも芸術性は高い

 丘を降りてトラムに乗り、ザバッチャーグ橋を渡って宿へと向かう。ここは夜になると鉄骨に登って座り込む若者たちが大量発生するのだが、リベットが痛くないのだろうかと見るたびに思ってしまう。ただ落ち着いた雰囲気ながらも眺めと橋自体の造形が良いので、私も気に入っていた。

地下鉄3号線の工事運休を知らせる看板

 宿で荷物を回収し、ブダペスト西駅へ向かう。普段ならば地下鉄3号線に乗って1本なのだが、3号線が大規模工事で運休中であったので地下鉄4号線とトラムを乗り継ぐこととした。しかし、大幹線である地下鉄路線を長期間止めて工事とはなかなか思い切ったことをするものだ。重いスーツケースを持っているということもあって、手間の増え方は段違いである。

ブダペスト西駅 地味ながらもガラス張りの壁面が特徴的で美しい

 満員のトラムに揺られ、ようやっとブダペスト西駅に辿り着く。排気ガスが溜る街中心部の空気は決して清潔なものではないはずだが、広い世界へと解放された時の空気の美味さは格別だった。さあ、ワルシャワに戻ろう。スーツケースを引きずりながら、私はプラットホームに向かって歩み始めた。

存在しないもの

 「さて」
 そんな一言が出た。発車まで残り45分ほど、ブダペスト西駅の発車標を眺める。乗車をするのは19時40分発のワルシャワ・プラハ・ベルリン行きEN476列車であるはずなのだが、どこをどう見てもそれらしき列車の記載がないのだ。
 似たようなことはあった。その日からほんの1週間前、クラクフ中央駅の発車標では切符の記載時刻よりも15分ほど遅く、しかも1両たりとも連結されていない「Graz Hauptbahnhof(グラーツ中央)」の表示でブダペスト・プラハ行きの列車が案内されていたのだ。列車番号だけは正しかったのでなんとかなったが、もはや初見殺しどころの騒ぎではない。

グラーツ中央行き、もといこれはプラハ行きのチェコ国鉄客車だ

 ところで、今はどうだろうか。並ぶ地名はどれもハンガリー国内から抜け出せそうもないものばかり、列車番号はどこをどう見ても擦りすらしていない。一旦時計と切符を見てみるが、どちらも間違いはない。発車まで残り40分と十分に余裕があるはずなのに、どういうことなのか。少しずつ、じわりじわりと血の気が引いていくような心地がした。

列車の経路変更を知らせるモニター

 ふと番線ごとにある列車案内モニターに毒々しい掲示があることに気が付いた。何となく嫌な予感がするが、覗いてみると「復旧工事による国際列車の経路変更」との文字がある。国際列車といえば国際列車、今まさしく自分が乗ろうとしているEN476とて国際列車である。どうか自分には無関係であってくれと願ったのも束の間、虚しくもモニターに「EN476/477」の記載を発見してしまったのだ。
 なるほど、要約すると6月20日(私がブダペストに到着した2日後/このモニターを見ている3日前)からブダペスト西駅発の国際列車は復旧工事(何か災害でもあったのだろうか?)のためブダペスト東駅発に変更の上、運転経路も変わるらしい。西駅から東駅までは15分程度で移動可能で、余裕はかなり無くなるものの発車まで残り40分となれば十分乗車可能なはずだった。

変更された発車時刻が案内されたモニター

 ここでモニター表示が切り替わる。どうやらこちらの画面ではご丁寧に時刻変更まで案内してくれているようだ。なるほど、EN476列車はブダペスト東駅19時01分、所定の発車時刻よりも40分ほど切り上げられての出発となるらしい。現在時刻は19時ちょうど現在位置はブダペスト西駅、ここから東駅までは15分あまり。なるほど、なるほど。
 その時の私は意外と冷静だった。実際のところ、モニターの毒々しい表示を発見した時からある程度の覚悟は決まっていたのだと思う。数々の疑問や怒りが湧き出てくる前に、まず以下の事実だけは冷静に理解することができた。

 「自分は国際夜行列車に乗り遅れた」という事実である。

奔走、ブダペスト

 つまるところ、怒っても暴れても服を全部脱ぎ捨てて叫んでも何も変わらないのである。もしかするとこのような蛮行を全て実行すればハンガリー政府当局に今夜の宿泊施設を御用意していただけるかもしれないが、支払う対価があまりにも大きすぎるので選択肢としては却下せざるをえない。
 一方で、この先こなさなければならないルート修正のことをまともに考えると気が狂いそうだった。これからポーランドに戻るための切符購入、もし今夜中の出発が無理ならば今夜の宿探し、明日中にワルシャワに到達できるか否か、不可能ならば宿のキャンセル申請……あまりにも重要な列車を乗り逃がしたという事実を受け入れつつ、この作業を速やかに淡々とこなすのは非常に難易度が高い。
 ひとまずルート検索である。ワルシャワに直接行くことは一旦諦めてまずはクラクフまで辿り着けるかを調べることとしたが、結果としてはこちらもある程度予想した通り、明日の朝発にせざるをえないようだ。宿はついさっきまで5泊もしていたホステルに幸いにも空室があったため、そちらに向かえば良いだろう。

ブダペスト東駅へ もちろん今更辿り着いたところで列車はない

 どうにもならない。明日が来ることを待つしかない。それ以上でもそれ以下でもなかった。となれば切符を購入するついでに、ブダペスト東駅の美しい夜景でも拝もうかと私は歩みを始めた。
 ツッコミが遅れてしまったが、そもそもどうしてこうなったのか、という問題を考えてみる。経路変更は8月20日以降、しかも「復旧作業」のためとなれば私が切符を購入した時点では予見できなかった事象が発生したということだろう、そこは仕方がない。1番の問題は、発駅を変更した上で40分も発車時刻を切り上げてしまったことだ。これはいくらなんでもないだろう。よりにもよって個室寝台を予約した切符は払い戻し不可のプロモーションチケットで、乗り逃した時点で400ズウォティ(約12000円)は紙切れである。どちらにせよ、ポーランド国鉄発券のものをハンガリーで払い戻すのは無理があるだろうが。
 しかし同時に、自身に対する後悔の念も湧き上がってくるのである。東駅に行く機会は8月20日以降もあったので、そこでもう少ししっかりと確認をしていれば。何気なくでも西駅に立ち寄って電光掲示板を確認していれば。所定発車時刻1時間半前に駅に着いていれば。全てに対する過信がなければ……。ただ、こればかりはいくら悔やんでも仕方がないことだ。今はキッパリと諦めて、ポーランドに戻らないといけない。

 このように文章上では冷静に処理を済ませているように見えるが、実際のところはかなり狼狽していた。クラクフにいる友人に電話に突然をかけて、大笑いしながら状況を説明しつつ、トラムに乗れば良いものを重たいスーツケースを引きながら街を歩いた。全くもって冷静ではない。そんな私に友人は「まあ、400ズウォティ払って一生語ることができるネタができたと思えば良いのでは?」というありがたい(本当にありがたいかどうかはさておき、一理ある)お言葉をかけてくれ、翌夕にクラクフ中央駅まで迎えにきてくれることになった。こうでもしていないと気が紛れないとはいえ、まったくもって迷惑な人間だと自分でも思う。いや、一番迷惑なのはハンガリー国鉄だが。

 そうこうしているうちに地下鉄駅まで辿り着いたので地下鉄に乗り込み、ブダペスト東駅までやって来た。当然ながらワルシャワに向かう寝台列車の姿はそこにはないが、明日朝の列車の切符ならまだあるはずだ。と言っても、わざわざ東駅まで来たのはやはり逃した国際列車に対する未練があったからなのかもしれない。とにかく国際列車発売窓口まで急ぐ。

心は荒んでいても、このガラス張り壁面は美しい

 ちょうど閉まりかけだった国際列車発売窓口に駆け込む。ここからクラクフに向かう列車などたったの2本しかない(むしろこの距離で昼行と夜行の両方が揃っているのは手厚いくらいだろう)ので、ここでは「明日の朝、クラコフまで」と伝えるだけで切符が出てくる。その分切符代が飛んで行くことは財布が痛むが、購入難易度が低いこと自体はありがたい限りだ。
 明日の切符を得たとなれば、次は宿の確保である。歩き疲れたので一旦まずは駅のベンチに腰掛ける。ついさっきまで滞在していたホステルはベッドの空き自体は確認できていたので、あとは淡々と確保を済ませるのみであった。
 そうすると私が座っているベンチに物乞いたちがやってきて、「金をくれ」と曰うではないか。ふざけるな、こっちは国際列車が理不尽に消失したせいで400ズウォティを吹っ飛ばしているんだ。休んでいるところを邪魔された怒りも込めて「おれはな、列車を逃して宿もなくて金もないんだよ、残念ながら。じゃあね。」と言いながら立ち去ろうとしたところ、彼らは大人しく引き下がってくれた。どうやら理解のある物乞いくんたちだったらしい。理解があるならこの雰囲気を察してそもそも声をかけるんじゃないよというのは無理のある話だろうか。

 とにかく何もかも疲れた。美しいドナウ川の夜景をもう一晩見られるという喜びも、そもそも実際に見に行こうという気力すらもなく宿へ向かうこととした。明日の朝は早い、さあ今夜はさっさと眠ってしまおう。そんなことを考えていた。

ブダペスト発プシェミシル/テレスポル行き

ブダペスト東駅の朝

 翌朝、私は無事に定刻1時間前にブダペスト東駅に到着した。思えば昨晩は最悪であった。宿に着いたらバッチリ「さっきまでいたよね?」と受付けで突っ込まれてしまい、苦笑いしながら事情を説明することになったのだ。これに関しては大層哀れまれたのでまあ良いとして、ベッドについてシャワーを浴びて帰ってくると上段ベッドの酔っ払いが私のベッドにこともあろうかGEROを吐くという大事故が起きてしまっていた。どうしてよりにもよってホステルで寝GEROをやらかすのかという気持ちでいっぱいである。GEROというものは異臭がするゆえドミトリーじゅうで大騒ぎになり、私は再び荷物をまとめてベッドを変えるハメになった。もちろん、GEROと寝るのはまっぴらごめんであるからこの対応自体は非常に素晴らしくありがたいものだった。
 GERO!GERO!GERO!とカエルでもないのに連呼することはそろそろおしまいにして、話を列車旅に戻そう(戻すといってもGEROのことではない)。今回乗車することになった列車はブラチスラヴァ・カトヴィツェ・クラクフ経由プシェミシル行きIC115列車クラコヴィア号で、途中のチェコ領内ボフミーンまでカトヴィツェ・ワルシャワ経由のEC130列車テレスポル行きと併結して運転される。ボフミーンではプラハからやってきたプシェミシル/テレスポル行きと客車の入れ替えを行い、それぞれ1本のプシェミシル行き/テレスポル行きを仕立てるという複雑な仕組みだ。それにしても、かたやウクライナ国境の街、かたやベラルーシ国境の街まで向かう国際併結列車とはなんともロマンチックではないだろうか。

プシェミシル行きの発車標

 そう、実は今日中にワルシャワに辿り着くことは実は全く不可能な話ではなかったのだ。クラクフ経由のプシェミシル行きではなく、ワルシャワ経由のテレスポル行きに乗り込めばよかっただけの話である。しかし、ここでクラクフ行きを選んでしまったのも何かの縁。ワルシャワよりもクラクフの方が圧倒的に居心地が良いと私は感じているので、これはこれでよかったのだ。

 プシェミシル行きの客車を探して乗り込む。客車のドアに掲げてある行先表示のパネルがどれもテレスポル行きしかなかった時は少し焦ったが、作業員が表示を取り替え始めたところでようやくプシェミシル行きの文字が現れ、無事クラクフまで連れて行ってくれるようだということがわかった。コンパートメントにはハンガリー人カップルの先客がおり、話を聞いてみると彼らもクラクフまで乗車するとのことだった。

ようやっとハンガリーを離れることができた

 列車は定刻でブダペスト東駅を発車した。大好きなブダペストを離れるという感傷的な気持ちよりも、無事に旅立つことができたという安心感の方が皮肉にも圧倒的に大きかった。
 さて、私は座席昼行列車というものに対してずっと苦手意識を抱いていた。夜行列車と違って横になることができず、基本的にずっと起きて景色と向き合うことになる。もちろん、夜行列車では見られない景色を楽しむことができるのは素晴らしいことかもしれないが、それにしても9時間もボックス椅子の上で一体何をしろというのか。それゆえ私は基本的に長距離移動は夜行寝台列車を選んでいた。そのほうが総合的に見てよっぽど楽なはずだ。

食堂車 丸い天井に間接照明が瀟洒な雰囲気を漂わせる

 しかしこの列車には昼行列車ならではの非常に魅力的な設備が連結されていた。それが食堂車だ。終点まで11時間も昼間を走るとなれば欠かせない設備だが、長距離昼行列車の食堂車など日本では寝台列車以上に味わうことが難しいもの。暇つぶしとしても、これは行くしかない。

メニューの冒頭はモーニングのラインナップになっている

 ブダペストを発ってから3時間ほど。ちょうどスロバキアの首都・ブラチスラヴァを過ぎた頃に昼時を迎えたので食堂車に向かった。まだまだ空席が目立つ時間であったので好きな席にゆったりと座ることができる。しばらくするとホールスタッフがやってきたので、ボロネーゼを注文した。するとすぐにスタッフがとんぼ返りして「パスタは30分くらいかかるが、それでも大丈夫か」ということを尋ねにきた。粉から麺を作るのだろうか。何にせよまだ6時間近くかかるのだから、1時間でもかかってくれて問題ない。ここは自座席よりもよほど心地が良いのでなるべくここにいたかったのだ。そうはいっても何もなしに30分待つのも手持ち無沙汰なので、先に紅茶を注文する。

奥の木々を越えるとオーストリアがある

 列車はオーストリアとの国境すれすれの場所を走る。ブラチスラヴァ自体、スロバキアのかなり西部に位置しているのだ。携帯の電波がオーストリアの通信キャリアのものを拾ってしまい、なかなか安定しない。

紅茶は雰囲気も相まってかなり美味であった

 紅茶はすぐにやって来た。たっぷり入ったレモン汁と蜂蜜のパックがついてくるのがかなり嬉しい。何より草原を走る国際列車で飲む紅茶など、美味しくないわけがないのである。

食堂車の窓から眺める草原

 列車は草原の中を進む。昼間の食堂車など、2014年に乗ったトワイライトエクスプレスぶりではないか。懐かしく美しいあの日の思い出を追体験することができたのは本当に嬉しく、昨晩夜行列車を乗り逃したぶんの不幸がかなり報われたような心地になった。

チェコとスロバキアを隔てる川

 パスタが到着するよりも先に、列車はチェコ領内に入った。といってもかつて1つの国であった所以もあってか、大して景色が変化することはない。チェコ側国境のブルジェツラフ駅の先でポーランド国鉄の客車とすれ違い、少しずつポーランドが近くなって来たことを実感する。

絶品!ボロネーゼ

 ここでようやっとボロネーゼがやって来た。列車食堂にも関わらず生野菜も載っており、なかなか健康にも配慮された仕様だ。
 ひと口食べてみると甘味と旨味とたっぷりの挽肉が詰まったソースが、モチモチさとコシが両立した麺に絡んで非常に美味なのだ。本当に30分かけて製麺していたのではないかと思えるほどの素晴らしさである。とても厨房に制約のある食堂車で作られたものであるとは思えないクオリティの高さであった。
 この後紅茶をおかわりしてのんびりとしているうちに、徐々に食堂車が混雑してきたため飲み終わり次第早々と退散をした。いやはや、国際列車を喪失するのはもう二度とごめんだが、この食堂車はまた味わいたいものだ。

 コンパートメントに戻ってみるといつの間にか座席がぎっちりと埋まっていた。もう少し食堂車に居たかったと思いつつ、人々の隙間を通って自分の座席ににゅるりと滑り込んだ。列車は工事徐行のため、気がついたら1時間近い遅れをもって運転している。まったく、困ったものだ。急いでいないとはいえ、あんまりにも所要時間が伸びるのは嬉しいことではない。

ボフミーン駅にて

 結局、ポーランド国境手前のボフミーン駅に到着した時には1時間遅れになっていた。乗客のほとんどが下車し、再びコンパートメントには私とハンガリー人のカップルだけが残った。ここでしばらく停車時間があるため、ホームに降りて久々の外気を取り込むことにする。どことなく馴染みがあるような無いような不思議な響きを感じるチェコ語を耳にしながら、ホームをぶらぶらと散歩する。
 30分ほど停車したところでプシェミシル行きの客車が動き出し、引上線に入る。ここで客車の入換をして、プラハからやって来たプシェミシル行きの客車にくっつけると作業完了だ。横を見るとプラハからやって来たテレスポル行きの客車が、ブダペストからのテレスポル行き客車に連結を行うべく同じように入換されている様子がわかる。

 ここから車掌がポーランド国鉄の担当となる。ポーランド語がわかる訳ではないが、少なくともハンガリー語よりは耳に馴染みある言葉なのでほんのりと安心感を覚えた。連結作業が終わると15分ほど発車となり、最後の国境越えを目指す。残念ながら遅れはまったく回復されていなかった。

 国境のオーデル川を越えるとポーランドはシロンスク県に入る。ポーランド側の国境駅は一見規模が大きいようには見えないが、カトヴィツェが近づくにつれ徐々に多数の乗客が乗り込んできた。私のいたコンパートメントにも乗客がやってくるが、座席が全て埋まるほどではなかった。

カトヴィツェ駅 向こうにはチェコ国鉄の客車がいる

 シロンスクの県都・カトヴィツェに到着するとあとはクラクフまでラストスパートである。遅れはこの時点で90分近くまで膨れ上がっていたが、ここまで来てくれたらあと少しだろう。しかし、これが終点のプシェミシルに着く頃には何分遅れになっているのだろうか、あまり考えたくないものだ。

クラクフ中央駅にて

 そして18時34分、所定時刻からきっかり90分遅れて列車はクラクフ中央駅に到着した。始発駅ブダペスト東から10時間半以上の長旅であった。本当に、この列車を乗り通すのはもう勘弁である。

昼にパスタを食べて、夜にピザを食べるイタリアンな日であった

 ホーム上で友人と合流する。友人には「何でまたクラクフに帰って来たんだ」呆れられたが、「苦情ならハンガリー国鉄に言ってくれ」と返すほかない。いや、半分はワルシャワ経由テレスポル行きの列車に乗り込まなかった私の判断でもあるのだが、クラクフの居心地が良いことに免じて許してほしいものだ。 
 呆れられはしたものの友人は大変優しく、「お見舞い」としてピザをご馳走してくれた。400ズウォティ+αを吹っ飛ばして一生語ることができるネタと昼行列車の食堂車体験と美味しいピザを得ることができたのなら、まあ良かろう。

クラクフのシンボル 聖マリア聖堂

 友人と解散し、夜の中央広場を散歩する。もう戻ってくることはないと思っていた街に戻ってきた不思議な巡り合わせを感じつつ、この美しい古都の夜空を見上げる。散々な目に遭ったが、結果的に悪くない体験ができたと思えるようになったことは何より幸いかもしれない。

 兎にも角にも、大切な列車の運行情報にはくれぐれもご注意を!

(おわり)


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