ヒトはなぜか禁欲が好きだし、だから同じ禁欲をしない人を殺したくなる。そう、彼の自殺もね。


「こんにちは!八百屋です!トマトよかったら買って頂けませんか?」
東京北区の路上。7月。13:30。天頂から注ぐ日光がジリジリ。
白い軍手に、重そうなワゴン。中には多分、冷やされたトマト。
通行人から断られ続けたでろう汗だくの彼の笑顔は引きつっており、うつ病の人の何歩か手前の人相だ。
これは多分、「修行」とか「洗礼」と呼ばれるような何かだろう。
「会社名を伺ってもよろしいでしょうか」
というセリフが喉元まで出かかり、結局、やめる。
まだ右も左もわからん20歳そこそこの若者にこんなことをさせる経営者に電話をかけてクレームを入れ、今すぐこんなバカらしいことをやめさせてやりたい。
こういうのを見るたびにいつもそう思うのだが、やらずに終わる。
なぜか?それは彼自身の信仰への暴力になりうるから。
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・毎朝オフィスに社員で集まって「朝礼」を行い、社是ってやつをみんなで音読すること。
・野球部が、部員全員で頭をまるボウズにすること。
・豚肉を食べない、あるいは酒などの薬物を摂取しないこと。
・女らしくあるいは男らしく振る舞って会場や指輪に高い金を払い、友人家族の前で永遠の愛を誓い、親に対して家の存続を約束すること。
私たちは実に、禁欲好きである。素直で自然な欲求を我慢するという困難を、自ら求める。
あたかも、礼拝の前に水で手足を清めたり、山に籠もって修行するかのように、なぜかその困難は私たちに安心を与えてくれる。自分にかける特別な暗示のようなまじないのような、お清めのような。
なぜなら私たちは動物ではないのであり、理性によって怠惰や欲を制御できる一人前の〇〇人だから。
こういった儀礼を通して、私たちは社員として、部員として、何々教徒として、妻や夫として、正式な存在となる。
そう信じることによって、自分の生きるよりどころを見いだせる。実にいい意味で文化的で、人間らしい。
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が、悲劇的な出会いは至る所に転がっている。
丸ボウズの野球部員がもし、金髪パーマのサッカー部やバンド部に出会ってしまったら、「チャラい」と言いたくなるだろう。
毎日スーツで朝礼をしている中小工場のサラリーマンが、フルフレックスでリモートの柄シャツスタートアップの若者を見たら、「社会人としての基礎を」と説教したくなるだろう。
戒律によって食べたことのない食べ物や飲み物を目の前で飲食されたら、腹が立つだろう。
いい夫・いい父であるために学歴肩書き年収を獲得し、あるいはいい妻・いい母であるために美容を磨き料理の腕を磨いたマジョリティ男女がりゅうちぇるやセクシュアルマイノリティを見たら、ネットで叩きたくなるだろう……..?!
私たちの信仰を無視したから。私たちのしてきた我慢を、その人たちは経験しないから。私たちの努力が、無駄に思えてしまうから。
そんな奴、いなくなってくれたらいいのに….
何を信じたっていい。何を拠り所に生きたっていい。すべては尊いものだ。
しかし、自分の信じるものを誰かが信じないという事実を拒否すること。
これは決して超えてはいけない一線だ。
これを人類は何度も超えてしまい、ヨーロッパでは宗教戦争による人口激減を何度も経験した。
(日本も経験しているのだが、歴史では詳しく教わらない)
自分のした我慢を他人がしないことを許せないのなら、自分もやめればいい。自分の我慢は全て、自分で選んだことだ。
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ソクラテスはアテナイ市民の多数決によって死刑にされた。
彼らが信じているものに対して、疑いを立てたからだ。
それから2500年。人類はまだ同じ過ちを繰り返している。
私たちが信じているものに対して、違う答えを出して見せた。そういう点でりゅうちぇるとソクラテスには共通するものがある。
明日、私たちは無意識に、誰かの信じるものを否定してしまうかもしれない。
あるいは明日私たちは誰かに、自分の信じるものを否定されてしまうかもしれない。
あるいは、否定する気がないのに、そう感じ、感じさせてしまうかもしれない。
誰しもが他人事ではない、そんな今を私たちは生きている。
八百屋の彼はいつの日か、同じような「洗礼」をさらに若い世代に対して強いるだろうか。
それは、よいことなのだろうか。部外者がそれを批判することは正しいのだろうか。
わからねえ。

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