榎本と諭吉とやせ我慢の説

「秀吉はいつ知ったか」というさまざまな歴史上人物の人生の過ちや謎などを調べて考察したエッセイなんですが、その一章に「その後の叛将、榎本武揚」というのがありました。
これがもう個人的にはすごい愉快に読んだので、感想と紹介をかねてメモを残します。
あくまで作中の話をもとに語っているので、もちろんそれにも諸説はあるでしょうが、個人の好き勝手な感想ということでお取り頂ければ幸いです。本当に好き勝手いってますが、批判のつもりは一切ないので何卒。でも苦情は受けますのでどうぞよしなに。

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この章は、著者が榎本武揚と福沢諭吉の心情とすれ違いを考察した短編である。
本章の冒頭は、こう始まる。

「榎本武揚はまさしく英才であった」

少年時代に昌平黌に学び、青年時に海軍伝習所を出て留学までしたことは、現代でいえば東大を出て、防衛大学を出て、さらに一流外資系企業で海外赴任をするに等しいと著者は榎本の才を賞賛している。
たしかに、当時国内において留学経験者というのは少なからず存在したが、あそこまで語学に長け、近代科学や法律において精通してい人間は、おそらく榎本武揚の他にいなかったのではないだろうかと思う。
けれどもその自負とアグレッシブすぎる行動力とフロンティアスピリッツの三拍子が揃ってしまったがゆえに、彼は帰国後、大政奉還により路頭に迷った幕臣やその家族たちのために、北へと向かうことになったのだ。
そして最終的には五稜郭にたてこもり、歴然とした戦力差の元で官軍と果敢に戦い、徳川の侍として最期の意地を見せたわけである。
その生き様が敵軍参謀の黒田清隆の心を打ち、後の助命活動にもつながった。
本来であれば処刑確実だった榎本は、明治の世でも生き延びる道を歩むことになるのだ。
明治の官僚として新しい道を歩み始めた彼は、その後海軍中将・駐在公使・逓信大臣や農商務大臣を務めあげ、確かな実績を残していく。
華々しい経歴を持つ一方で快男児だった榎本を、著者はまさに男の中の男だと述べる一方で、しかし彼は明治になって大きなミスをしたという。
ここからが、この短編に興味をもったところだ。

この章では、あの福沢諭吉が書いた「やせ我慢の説」にまつわる裏話が考察されている。
「やせ我慢の説」というのは、諭吉が明治34年に出した、榎本と勝海舟に対する有名な批判文である。
福沢諭吉といえば、すぐれた教育者でありまた文豪だ。時を経てなお、紙幣になるような人だ。古典や純文学はほとんど読んでこなかったわたしでも、学問のすすめくらいは聞いたことがある。この当時であっても、彼が国民に与える影響力というのは想像に難くない。
そんな諭吉が出したこの「やせ我慢」は、後生まで榎本の市民イメージに大きく影響した。
「国家も個人もやせ我慢が大切である」と語るこの説の中で、諭吉は榎本に対し「武士の意地をみせ五稜郭で戦ったまではあっぱれだが、その後がいけない。のうのうと安寧を得て、新しい世で官僚として生きるなど恥ずかしくないのか。きみに従い殉死した者たちのことを思えば、当然坊主になって死者たちの菩提を弔うか、さもなくば世間の耳目から隠れてひっそりと生きるべきであろう」というのである。(勝海舟への批判文は割愛)
ちなみに諭吉はこれを世間に公表する前一度当人たちに見せているが、
勝は「うるせぇぇぇ~~~~俺の生き方を他人がとやかく言うんじゃねえやい!!!公表なりなんなり好きにしやがれべらんめえ!!」そして榎本は「たいへん多忙により、そのうち返事を書きます」と各々対応した。
(なお、榎本においては表向きぶっきらぼうに対応してるが、実際のところ手紙を見て激おこだったいう説が本書で語られている。たしかに日記に夜な夜な南京虫へのままならぬ殺意を書き連ねる男だ。あながち間違いでもないかもしれない)
この「やせ我慢の説」の存在をはじめて知った時は、わたしも少なからず腹をたてた。
事情も知らない当事者外の人間が何をいうのかという気持ちを抱いた。
けれど、諭吉も諭吉なりにこのやせ我慢の書を書く理由があったのだ。

実はこのやせ我慢の説、書かれたのは発表の10年も前だったという。
ある日、諭吉が観光で興津を訪れた際、偶然とある寺に建ててある石碑を見た。
石碑は、戊辰戦争で榎本艦隊が蝦夷に向かう最中、嵐で遭難し悲惨な末路をたどった咸臨丸の犠牲者たちを弔う石碑だった。
なんとこの咸臨丸、諭吉がはじめてアメリカへ渡った時に乗った船だったらしい。つまり、諭吉にとっても思い入れがあったのだ。
万感たる思いでその石碑を見た諭吉は、ふと裏側にある文字が書いてあることに気付いた。石碑には、こう書いてあった。
「人の食を食む者は、人のことに死す 榎本武揚」
諭吉は、憤怒した。
もちろん、榎本は純粋に犠牲者たちを悼んで石碑を刻んだのだが、その時の諭吉からすれば、
「今まで徳川としての禄をもらい、ついぞ死に損なったものが何を言うか ケッッッ」
という思いであったらしい。そうして、あのやせ我慢の説を書いたのだそうだ。
しかし、なにも彼はこの石碑だけであのような書を書いたわけではないと、著者は考察する。たしかに、諭吉が最初から榎本に対し悪い印象をもっていたのかといえば、決してそんなことはなかったのだ。
むしろ、かなりの貢献をしていたと思う。

さかのぼって明治二年。辰ノ口牢獄にはいった榎本を彼の家族がひどく心配していると聞いた諭吉は、ひそかに彼が健在であることを彼の家族に知らせてやり、あれこれと牢獄への差し入れを行っただけでなく、榎本の母にかわって新政府軍への助命嘆願を代筆するまで行った。
福沢諭吉といえば、立派な文豪だ。いうまでもなく文才がある。そんな文豪が、息子を思う母になりきりその嘆き苦しみを熱く熱く綴ったとなれば、その内容たるや推して知るべし。当然、全官軍は涙したに違いない。たぶん、結構な効果があったと思う。ちょっと読んでみたい。
ともあれ、諭吉は黒田と一緒に、榎本たちの助命に奔走したのだ。

しかしながら、これだけいろいろして貰ったにも関わらず、榎本は出獄後諭吉に対して、お礼の挨拶すらまともに行かなかったのだという。
しかも、獄中に諭吉がわざわざ差し入れてくれた科学書を、「レベルが低すぎて読むにあたらない」と突き返しすらした。だいぶめちゃくちゃ失礼である。わたしがもしせっかく貸した本を「レベルが低すぎる」と返されたら、怒りに震え六法全書でも送りつけるかもしれない。いや、彼ならふつうに読めそうですけど六法全書。そんなことまでされてもなお、諭吉は榎本のために奔走した。骨を折った。そのことに対して諭吉は、
「べ、べつにあいつと刎頸の交わりとかそういうんじゃないから! 新政府の態度がちょっと癪にさわったっていうか、あくまで人間ひとりを助けるだけで、榎本だから助けるってわけじゃないし深い意味とかないんだから!」というような趣旨のことを言い、また、妻に対しても、
「彼は今でこそ牢に入っているが、あれでずいぶん何かの役に立つ男に違いない。幕臣だから殿様への忠義も熱い。出所すればきっと新しい政府でもまたよく働くだろう。その時になってもし、やれ昔を忘れて厚かましだの、可笑しいだのという気持ちがほんの少しでもあれば、それは彼が悪いのではなくこちらが卑屈というものだ。そんなことなら私は今日ただいまから、一切の周旋をやめるが、どうだ」
とまで語っている。
ここで、やせ我慢の内容を思いだしてほしい。なにがあったんだ諭吉。言ってることが180度違うぞ諭吉。
諭吉は、なぜあのような文章を書いてしまったのか。
やはり、どう考えてもその後の榎本の対応がいけなかったのだと思う。義理でも良いから顔を立てて、感謝の手紙のひとつも出せばよかったのだ。シベリアからも100通以上家族にお手紙出してたじゃん。手紙好きじゃん。ことごとくお世辞が言えない性格なのか。思ってもないことは書けなかったのか。あくまでわたしの印象であるけれど、榎本は情に脆く一度信用した人間のことは何でも助けるところがあるが、逆にあまり好きではない、あるいは興味のない人間に対してはおそろしく無関心なイメージがある。今回も、そんな感じだったのだろうか。まあ、諭吉さん戊辰に一切関与してないしね。
著者は諭吉の性格を、
「忘恩の人間に対しては、世の常すぎて憎しみを禁じ得ない性格であり」また「自己主張も激しいが、他人のためにその宣伝に一役買うことをいとわない人間であった」
と言っている。確かに、諭吉が自分を慕って頼る相手にはひと肌もふた肌も脱ぐエピソードは多く残っている。
彼もまた、義理人情には熱い男だったのだ。
一方榎本は、プライドこそ高いが自分の功績を書き残すことに甚だ不熱心な人物で、己の宣伝に興味などなかった。そういう些細なすれ違いが、ふたりのあいだに決定的な溝を生んでしまったと著者は結論づけていた。
作中の言葉が印象に残る。
「人生には、相結んだり、または相結ぶべき機縁を持った人間同士が、ほんの僅かなきっかけで生涯背を向け合うこともあるが、福沢と榎本はその最たる例だ」
詮無いことですが、世の中そういうことって多いですよね。逆もまた然りですし。仮にもしここで、榎本が獄中における福沢の恩義に感謝し、あるいはその後も「諭吉さん、諭吉さん」と慕い頼っていたら、きっと彼があのような書を書くこともなかったに違いない。興津での石碑の件はあるにせよ、「ふん、しょうがないな」と可愛がってくれたであろう。
しかし、榎本はことごとくそれをしなかった。
同じように助命に奔走した黒田に対しては、文字通り最期まで恩を返し片腕として働いているというのに、福沢への恩に対するレスポンスはあまりにも薄い。このへんはたぶん単純に、榎本は黒田の性格の方が好きだったのだろうと思う。というか、頭まで剃り上げ、榎本を殺すなら先に自分の首を落とせと豪語し、外国留学先からも絶対に殺すなとしつこく手紙を贈り続け、そして出獄後には真っ先に北海道開拓への誘いを持ちかけてきた男をそうそう無碍にも出来ないだろう。
後年、榎本は自分の長男の嫁に、黒田の娘を迎え入れている。とうとう血縁関係にまでいたってしまった。そうとうの腐れ縁だ。

なにはともあれ、諭吉はそんな榎本に、たぶん相当の不満を抱えていた。それで興津の石碑である。胸の底にしまっていた当時の不満が吹き出てしまったんじゃないかとおもう。
なんだかもう、いろいろあるな人生という感じだ。
著者は、この一連についてシンプルにこう語る。めちゃ笑ったから引用させてほしい。
「榎本はおそらく悪意なく、うっかり福沢諭吉を無視して、黒田清隆と結んでしまった」
うっかり結んでしまった。うっかり。

悪意なく、うっかり無視された福沢諭吉の気持ちを忖度すると、やせ我慢の件もあながち責められない気になってくる。けど、まあ悪意がないなら仕方ないよね。
そんなわけで、榎本の印象というのは諭吉の「やせ我慢」のせいで決して良いものばかりではなかったが、それでも「明治最良の官僚」と呼ばれ、市民葬までされたのだから人望は熱かったのだと思う。

ちなみに、あの時箱館死んでいれば、彼はもっと栄光たる評価を得たのかもしれないと著者はいう。確かにそうかもしれないが、けれどわたしは彼が箱館で死なず生きてくれていてよかったと、心から思う。
こんな面白い人、死なないでよかったどころかあと三世紀くらい生きてほしい。現代で彼のサイン会並びたかった。ああ、せめて彼が明治まで生きてくれて本当によかった。

おかげでいま様々な逸話や書が見れて、こんなにもオタクライフが楽しい。

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