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【ルックバック-藤本タツキ】線と背中、言葉と行動。[感想]

とある人に「この漫画を読んでほしい。君の感想が聞きたい。」と言われたため感想を書くことにした。

私がまずこの漫画を読んで思ったことは、「線と背中」そして「言葉と行動」である。
ここでは
「線」
「背中」
「言葉と行動」
「タイトル」
の4点に着目して感想を述べていくとする。
まずは線について話そうと思う。

①線-1番印象に残り続けたコマ-

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私が1番印象に残り続けたコマ。それはこの、10p目に登場するこの1コマ目。
「京本の絵と並ぶと 藤野の絵ってフツーだなぁ!」(10p,1コマ目より)
同セリフのコマは数ページ前にも出てくる。ここで気になるのはこの線の描き方である。数ページ前の男児はくっきりとした線で描かれているのに対し、このコマでは初めてぼやかした線と見て取れるような人物が描かれている。過去の回想だろうか、頭の中で主人公が描く映像だろうか。

「天才」「すごい」と言われていた主人公が、初めて自分より上手いものがいることを思い知らされる瞬間である。井の中の蛙が大海を知らされる、悔しさや挫折とも読み取れるような、主人公が見えていた一つの世界の崩壊である。その転機がひとつ、ここではなかったのではないだろうかと思う。この男児のセリフが2回繰り返し登場していることからも、主人公はこのセリフがやけに頭に残り続け、振り返ってしまったのだろう。
「あぁ…悔しい、悔しい悔しい悔しい。なんであんなやつが?私より上手いやつが?なんで、なんでなんで…」男児のセリフを思い出しながらもむごむごとする気持ちを味わいながら帰ったのではないだろうか。
だがしかし、この男児のセリフがあったことによって、主人公は「5分くらいで描いた」という斜に構えた「漫画を書くこと」への向き合い方から一変、「とにかく描く、時間をかける」という真摯な向き合い方に変わるのである。来る日も来る日もくる日も描き続けた。勉強するために買った絵の書籍は一つふたつとどんどんと増えていく。その少女の向き合い方の背中が淡々とこの漫画では描かれている。

②背中-語るものと語られるもの,その深度-

この漫画を語るならば外せないであろう「背中」というワード。この漫画では何度も何度も背中が描かれる。そしてタイトルも「ルックバック」。「ルックバック」にある「Back」という英語は「背中」を表す。

これだけ全面的に描かれているからか、どのように落とし所をつけるか。というのが非常に難しかった。今でもまだ気持ちのいい落とし所は見つかっていない。
まずこのタイトルの「ルックバック」。作中に出てくる主人公が不登校の子に放った「背中をみろ」。この「背中を見る」。果たして誰が誰の背中を見るのだろう、とものすごく難しく思えてしまった。
主人公が、その子の「背中を見る」。ことなのか
主人公が、主人公の「背中を見させる」。ことなのか。
主人公が背中を見る側なのか見られる側なのか、主客のどちらになるのだろうとどちらだと腑に落ちるのか分からなかったのだ。そこで3つ目の選択肢として出たのはカズオイシグロの物語のような「unreliable narrator(信頼できない語り手)」なのではないか、というものであった。

物語を読み進めれば読み進めるほど、特に終盤はこの部分は空想なのか実際起きたことなのか、どちらとも取れない描き方がなされている。それは物語の描き方自体がこの「unreliable narrator」視点で描かれているからなのではないのだろうか、と腑に落ちたのだ。

そしてこの漫画においては、誰かの言葉と行動により人生の選択が変わる未来が多く描かれている。

③言葉と行動-人を動かすものはどちらか-

誰かの言葉と行動によりあらゆる選択が変わっていく、良い影響、悪い影響を受けるのは言葉なのか行動なのか。この漫画では「行動」を見ることによる「語るもの」ではなく「語られたもの」での変化が良い影響を与えるものとして主に描かれているような気がした。

ここでいう「語るもの」「語られるもの」というのは、「言葉」はその人が放った言葉そのものを「語るもの」とみなし、「行動」はその人が行った行動から推測される思いを「語られるもの」としている。ゆえに、誰かに言われた「言葉」は受け取るものとしては受動的であり、誰かが行っていたことから推測される「思い」は受け取るものの解釈に委ねられる能動性を帯びたものだと考える。キャッチボールに例えるならば、「語るもの」は決まったボールの形が投げられるものに対し、「語られるもの」は受け取る人一人一人でそのボールの形は全く違うものになるし、人によってはボールすらないこともあるということである。

まず初めにも載せた印象的なコマの男児のセリフにより主人公は芸事への向き合い方を変えた。
確実に、男児の「言葉」により選択する道を変えた。これは悔しさを原動にした負のエネルギーによる活動力である。

その次に、主人公が不登校の子とタッグを組み漫画を描く時に「描くのって楽しくないし…」のようなセリフを述べ「なんで描くの?」と尋ねられているシーンがある。その後に主人公が描いたネームの漫画を不登校の子に渡し、その不登校の子が読みふけり主人公が作った漫画に対しキラキラとした目を見せる「行動」を見せる。互いに語らない。でも語られているシーンではないだろうか。漫画を描く理由は、そうやって楽しんで読んでくれているものを見た時、主人公の中で様々な思いが語られるのだろう。それが行動し続ける原動力となる。他でもこのようなシーンはいくつか描かれている。何も語らずとも語られている、そんなセリフなきシーンがいくつも登場する。そこで何が語られているかは読者それぞれに依拠する。

「背中を見ろ」という言葉は、何を語られているかわからない、語られていることを感じる、私が持つ姿勢から勇気をもらえ、という「語られるもの」の一種のような気がした。
この「背中で語る」ことは、「行動」とはまた違う。積み上げられたその人の歴史により深度が増す語られ方なのではないかと思う。その人のことをどれだけ知ってるかでその背中で語られるものは大きく変わる。たとえ同じ背中であったとしてもだ。

④『ルックバック』タイトルと最後のコマ

『ルックバック』直訳すれば思い返すことである。
この漫画では主人公自身が過去を振り返ることをしながら、作者自身の過去の振り返りも散りばめられている。これは作者自身の「ルックバック」も含まれているのだと感じた。
また、タイトルとはじめのページのdon’t、最後のページのin angerを組み合わせて「don’t look back in anger」という繋ぎ合わせのメッセージも入れられている。


この「ルックバック」とはどういう意味なのだろう、どういうメッセージとして受け取ればいいのだろう。初めの方にも語った通りどのように受け取ればいいのかわからなかった。

背中を見ろ?背中を見せろ?過去を振り返れ?過去を振り返るな?
なんだか散りばめられすぎてどれをとっていいのか分からない。ただ、振り返るなとは言われていない気がした。振り返らず背中で見せろということではなくて、逆に語られる背中はその歴史を知っているからこそ語られるものであって、作者自身も振り返っているのだから、そういう悔しい思いも振り返ってもいいんだって思えた。

ただ、「今」語られる背中を見せろってことなのかな、と思った。
その背中の深度を増すにはその過去の悔しさも、過去を振り返ることも手段として、「行うな」ではなく、「行っていい」というように思えた。
作者自身もこの作品を出すことでそうやって語られる背中を振り返りながら見せてるんじゃないかって。背中を見せつけられてるんじゃないか、と感じた。

表紙の絵も後ろを読者に見せ、度々主人公の背中が見せられる。ページをめくるごとにその背中で語られるものはその者の歴史を知ってるからこそ、最後のコマの背中は特にいろいろな思いが想起させられたのではないのだろうか。最後のコマの背中から感じ取れるものは読者により変わるから主人公が何を言いたいだとか作者が何を伝えたいだとか一義的に決めてしまうのはナンセンスなのだと思う。読者それぞれが感じた思いがそれが全てなのだと。

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以上がざっと漫画をひと読みして順をもって思ったことである。まだまだ他にも思う感想はあるのでそれは余談としていくつか下記に晒そうと思う。

▷現実か空想か-線とunreliable narrator-

不登校の子は事件の被害者として唐突に終わりを告げられる。主人公はそれを自分が加害に関与してしまったのだと自分の過去を自責する。

その後に自分が選んでいたかもしれない道を想像し出す。自分が漫画の道に行かなかったら?自分があそこで不登校の子を部屋から出さなければ?あそこで漫画を描かなければ?
unreliable narrator視点で語られている物語のため、果たしてどの部分が真実で真実でないのか断定はできない。ただ、事件の犯人と思われる者の線の描き方は明らかにボヤボヤとしていた。これは主人公がしっかりとみた現実ではなく想像の範囲であるからこそそのように描かれているのだと断定づけられる。
このボヤボヤとした描かれ方は過去の振り返りも使われるため、果たしてこれが過去の真実なのか、空想なのか、という判断は難しい。実際に起きたことはなんなのか、難しい。

ただ、最後のコマはくっきりした線で描かれている。そして幼少期の部屋と最後の部屋を見てみるとわかるのだが、読者から見て左側に漫画関連の書籍は積み重ねられている。大人になった主人公の部屋の右側には何も置かれていない。主人公がテレビに目を向ける時、漫画関連の書籍は主人公の「背中側」にある。主人公は、漫画の道を進むと決めそれ以外を捨てて選んできたことは真実なのだと描かれているのではないだろうか。その間に起きた出来事が何が真実かは分からないが、主人公の背中、後ろに重ねられてきた歴史は漫画のことばかりで積み上がっていることは確かなのだと最後のコマから深く感じた。
主人公の「今」の背中は漫画ばかりで埋まっている。そんな背中を見せている。右側に何もないことが迷いのなさに思えた。

▷漫画とは-芸事の要素の複雑さ-

漫画とはひとくちに絵のうまさだけではない。

この漫画では主人公は「ストーリーや見せ方の上手さ」
不登校の子は「背景画の上手さ」
の持つものとして描かれている。
初めに主人公は自分より絵の上手い者に敵わないと諦めの意を見せた、だけど漫画に含まれる大事な要素は「絵のうまさ」だけ決まるものではない。

そのように芸事というのは一つの要素の指標では上手い下手を、才能があるないを、向いてる向いてないを、決めれないのだ。そのような芸事の複雑さを2人の漫画に関する才能を持つものを登場させることで描いている。

▷作品とは-言葉と行動に並ぶ、作品の力-

ここでひとつ、注意したいことがある。
私は「語るもの」「語られるもの」として「言葉」と「行動」について述べた。
そしてそこに並ぶものとしてひとつ、「作品」というものがあると思っている。
ここで大事なのは、言葉と行動に対し作品は一つ大きな違いがあるということだ。
言葉にしても行動にしても、受け取る際にそこに言葉を発する者、行動する者、自分と違うものと対峙している。だがしかし、「作品」というものは、同時にそこに人は存在しない。一線を隔てて語られるわけだ。私はこの「作品」の力というものを救いのように感じている。
どう思っているからこの言葉を使っただとか、どう思っているからこういう行動をしただとか、同じ空間に人がいる事によって享受できる言葉と行動は、例え行うものが何も思っていないにせよ、受け取る側はいらぬ推測を無意識にも行ってしまうものなのだ。いろんな可能性を探ってしまっては疲れてしまうものなのだ。
だがしかし、作品というものはそこで読者が感じ取ったものが全てだ、それ以上もそれ以下もない。そこに作者の意図がどうだとか推測しすぎるのはナンセンスなのだ。でなければ、作品の救いは消え失せてしまう。
人間に疲れ切った時の人間に直接関与しない救いがなくなってしまう。
よくいう「作者と作品は切り離す」だとか「フィクションと現実は離して考えろ」というのはこういったことなのだと私は思っている。

最後に

一度読んだだけでこれほどの感想が出てくるのだから話題になるのも頷ける漫画であった。藤本タツキ先生あっぱれ ₍₍ ◝('ω'◝) ⁾⁾ ₍₍ (◟'ω')◟ ⁾⁾素晴らしすぎる。作品の持つ力というものを全開に打ち出した複層性のある漫画であった。

私は落合陽一さんの「実績という言葉が嫌い。今何をやってるかで語れるものでいたい」というような言葉が好きだ。(うろ覚えのため言葉が間違っている可能性は高い)

どれだけ素晴らしい過去を持つものであれ、どれだけ悲しい過去を持つものであれ、今やってることで自分を堂々と語れるものでないと人は人らしく生き生きできないのかもしれない。
過去の惨事はその背中から語られるものをより深くしてくれるものとなるのだろう。そんな「今」の背中を見せることができていれば、人は生きれるのだと。『ルックバック』非常に深い漫画であった。





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