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分析①-定義、区別、分析-

雑観(文章化への目的)

物事ってのは知れば知るほどやっかいで、細かく知れば知るほど「それとそれは似てるようで違うんだよ!!」とイラつくことが増える。基本的に生きづらくなるものだ。
「言語化できそうでできない、でもなんとなく感じてるものがあるんだ」となった時
→でもなんとなくわかってるからいいや を選ぶか
→この感覚を明晰に言語化したい を選ぶか
今回はこの後者を選ぶ変態向けのものとなる。

言語化する、ということは誰かに伝えるために行うことが多い。自分が持っている感覚をどのように言葉にしたら「わかった」と思ってもらえるだろう。そんな風に言葉を推敲する作業が必要となる。
文章はおおまかに2種類ある。
詩、小説などの文学に代表される物語表現を帯びた文か
論文、教科書などの明確に簡潔に書かれた学術的な文か
しかしここでやっかいなのが「コミュニケーションによる言語」というものである。
「共感」に重きを置くと、共感できる伝わる相手が多いことに価値のある文章だと判断されてしまうことがおきる。人に伝えることを意識して書くことはもちろん大事だが、共感の母数をあげるために読者の母数をなるべく多くするための手法はコミュニケーションのためであって、明晰な言語化とはまた異なるものである。自論を伝えるために細かく分析していき言葉にすることと、伝わりやすくするために細かな区分を大雑把に変えるのは違うものである。
ではなぜ言語化するのか。それは誰かに伝えるためならず、自分の思考をクリアにするためでもあるからだ。
分析して書かれた言葉は確かに伝わるようにはなるが、伝わる読者は同様に言語化への念が尽きないものに限定される。著者同様の探究心が読者にも要されることを忘れてはならない。

「米津玄師はすごい!」をなぜすごいのかを事細かく理由の筋道を綺麗にたてたとて結論は「米津玄師はすごい!」に変わりない。分析して明確にしたところで刺激的な新しい何かが生まれるなんてことは少ない。

*そういった分析哲学にはこのような意見もでている。
http://sootyempiric.blogspot.com/2021/05/the-end-of-analytic-philosophy.html

どうせこれが言語化できたところで伝わる人が少ないのはわかってらぁ!!とにかく自分のためにも納得いく言葉を見つけたいんだよおおぉ!!そこに憧れる!!痺れるぅぅ!!

という物事を明確に分析して書きたいという欲求を叶えるために、定義や区別、分析。また、ジレンマ、反例、間接還元法、弁証法的な推論について記そうと思ったものです。誰かのためでもあるが基本的に自分の論を明晰化するためにはどうしたらいいかのためのものとなります。


0.はじめに

物事を明確にする基本的な方法は、それらを異なるカテゴリーに分けること、つまり区別することです。区別するには、しばしば用語を定義する必要があります。というのも、用語は正確な意味を持つことが重要だからです。 言葉を明確にし、正確に伝えるための最も基本的な方法は、言葉やフレーズを定義することです。

ではまず、その定義や区別について考えていきましょう。

1.定義

1.1単語はいつ定義される必要があるのか

単語の意味における無限後退が起こらないために、いつかどこかでストップさせるためにも定義は以下の時に必要となります。
(1)専門的な意味で使われていて、聴衆が想定できない場合
(2)普通の言葉が普通でない意味で使われている場合

専門用語はショートカットのために便利ではありますが、それを全員が知っていると仮定して専門集団外においても多用することは避けた方が良いでしょう。まず読者がその用語を知らないと仮定して定義を説明できなければ、理解しているとは言えません。
また、辞書をみてもひとつの用語にいくつもの意味があることが当たり前のように、この文章において著者のあなたはその言葉をどのような意味で用いているのか定義を示すことも大事になります。
この文章を読むだけで伝わるようにするための説明として上記2つの場合、定義の説明は必要となるでしょう。

1.2W.V.quine「経験主義の2つのドグマ」分析的命題と綜合的命題

(1)分析的命題 言葉の意味によって真となる命題
(2)綜合的命題 経験的事実によって真となる命題
この区別には理論的な正当性がないという主張をクワインは「経験主義の2つのドグマ」においてする。

クワイン「2つのドグマ」(分析哲学に初めて触れた時の文のため稚拙です)


1.3 3種の定義 記述的定義、規定的定義、精確な定義

定義の一般的な目的は、単語または語句の意味を明確にすること
定義にも以下のように様々なやり方がある。
(1)単語または語句の実際の使用を記述すること(記述的定義)
(2)単語または語句の実際の使用をより正確にすること(精確な定義)
(3)新しい単語を発明すること、または既存の単語に技術的な定義を与えること(規約的定義)

2(Precising definition-wiki)
definition(1,3)


20世紀の哲学者たちは、形式論理学のある発展に触発され、多くの名詞が述語式から抽象化され、述語式自体がより明快な違いを示していることに気づくようになりました。
知識を「xはpを知っています」と定義したり、
「xは、次の場合に限り、そのpを知っている。
(1)pが真であること。
(2)xはpを信じていること。
(3)pが正当であるというxの信念」といった定義の示し方が生まれる。

1.4-1内包的定義と外延的定義

概念を説明するにあたって、概念の集合の内にあるもの、外にあるもので示すやり方があります。内包と外延に関するWikipedia内には以下のように書かれています。

内包はある記号(言葉)が意義とする、対象に共通な性質のことであり、外延は記号の指す具体対象のことを指す[1]。また、外延と内包は各々、概念の外側か内側かという意味合いを持っている[2]。例えば「芸術」という言葉は、「自己表現」「人間活動」などの属性を内包とするのにたいして、「演劇」「音楽」「絵画」「彫刻」「文学」などの非属性を外延として指す[1]。
すなわち「芸術」を内包的定義で表すと「芸術とはさまざまな方法で自己表現を行い、美的な価値を創出する人間活動」のようになり、外延的定義は「芸術とは演劇、音楽、絵画、彫刻、文学などのこと」となる。外延的定義ではすべての例をあげることは大抵困難なので、などのような言葉を用いて具体例を途中で打ちきることが多い(内包と外延-wiki)

さて、この内包的定義にもまた種類が2つあります。属と差異によるものです。

1.4-2ポルピュリオスの木 特異的差異、属人的定義

古代ギリシャや西洋中世のに知の伝統によれば、すべての現実は階層的に秩序づけられています。そして、この種は、何らかの違い(特定の違い)によって他の種類(別の種)と区別され、より一般的な種類のもの(属)に属することによって決定されます。したがって、すべての現実は、さまざまな特定の違いによって、属と種に分類することができます。この考えに基づく現実の古典的な分割の一部を、新プラトン主義の哲学者ポルピュリオスの名をとって「ポルピュリオスの樹」と呼んでいます。

ポルピュリオス(Porphyry, Introduction (or Isagoge) to the logical Categories of Aristotle (1853) vol. 2. pp.609-633.)

ポルピュリオス(wiki)

ポルピュリオス『エイサゴーゲー』はアリストテレス『カテゴリー論(範疇論)』の手引き

これにならった古典的な人間の定義を示すとこのようになります。
人間という種は、動物という属と、理性的であるという特異的な違いから構成されている。

属は既存の定義に当てはめることです。必ずしも属は1つとはならず、複数の属をもつ語もあります。(属はカテゴリといった方が馴染み深いかもしれません。)
差異はその属では表されない新しい定義となります。

哲学者は真善美といった抽象的な後を考えることが多く、従来は真理、美、善を定義しようとしてきました。しかし、抽象的な名詞から始めると、しばしば陳腐な定義や不明瞭な定義になってしまいます。
1.3で記したように、20世紀の哲学者たちは、形式論理学のある発展に触発され、多くの名詞が述語式から抽象化され、述語式自体がより明快な差異を示していることに気づき述語式で差異を示すようになります。例えば「三角形」であれば「3つの直線の境界辺を持つ」のように。

内包的定義についていくつか説明をしましたが外延的定義については細かい説明は省きます。

概念の古典理論(encyclopedia of philosophy)

直示的定義(英)   
               (日)
私的言語論
拡張定義
クリプキ可能世界論の固定指示子(英)
                                             (日)

直示的定義

可能世界

次に、対立すると思われるものをどのように定義していくのかを考え、定義についての項は終わります。(分析の項でも似たような話はでてきます😭カンガエルコトオオスギィ)

1.5-1矛盾ペアの定義

哲学者は、真理/虚実、客観性/主観性など、矛盾していてほしい言葉のペアを定義する必要があることがよくあります。

主観と客観なんかはよく議論されています。
簡単な方法としては、
一方の用語を定義した後、もう一方の用語を単に最初の用語ではないすべてのものとして定義することです。

"xは主観的である "とは、"xはPの直接の経験によってPのみが判断できるような人Pが存在する "ということ。
"x is objective "とは、"x is not subjective "という意味。

中世の哲学者はこのように区別を行っていました。が、区別には良い区別と悪い区別があります。対象の区別を行う際には相反する用語のペアを用いることが必要です。

1.5-2ボルヘス「ジョン・ウィルキンスの分析的言語」

不適切な区別としてボルヘスが「ジョン・ウィルキンスの分析的言語」というエッセイで報告しているとされるものがあります。以下のようなものです。

中国の無名の百科事典では、動物を次のように区別している。
"(a)皇帝に属するもの
(b)防腐処理されたもの
(c)調教されたもの
(d)子豚
(e)人魚
(f)素晴らしいもの
(g)野良犬
(h)この分類に含まれるもの
(i)狂ったように震えるもの
(j)無数のもの
(k)非常に細いラクダの毛の筆で描かれたもの
(l)その他
(m)花瓶を割ったばかりのもの
(n)遠くから見るとハエに似ているもの”
(Other Inquisitions, 1937-1952, tr.Ruth Simms, New York:Washing-ton Square Books, 1965, p. 108).

THE ANALYTICAL LANGUAGE OF JOHN WILKINS

真性の文字と哲学的言語にむけての試論(wiki)
真正文字


1.5-3不適切か適切か疑わしい区別

赤と青、犬と動物のように、適切でない区別があることは容易にわかりますが、そうでないものもあります。
男性と女性について考えてみましょう。
適切なように見えますが、そうではありません。両性具有者は、男性と女性の両方の特徴を持っています。彼らはどちらか一方でもなく、もう一方でもないのです。少数派であるがゆえに、我々は彼らのことを忘れがちになります。

不適切なのに適切なものとされやすい区別として有名な例は、感覚与件と物質です。
影などは、感覚与件でも物質でもありません。
(J.L.オースティン、Sense and Sensibilia, ed.G. J. Warnock, New York:Oxford University Press, 1964, pp.55-61)

もう一つは、出現/現実の区別。
影、鏡像、虹などの出現はその現実であり、また、意識を構成する、あるいは意識の一部である出現もその現実となり区別は難しいものとなります。

2.区別

2.1例示/特徴づけの区別

区別の仕方は例を挙げる方法と特徴づけする方法があります。

一つ目は、読者がその区別が何に由来するのかを理解できるだけの例を挙げることで、区別をする示し方。
例による特徴付けの欠点は、分割の原理が何であるかが明らかでない場合があることです。
例だけに頼っていると、著者が2つの異なる区別を混同してしまう可能性があります。

一方特徴付けは、用語を区別するための原理や性質を明確にすることができるので、理論的には「特徴付け」の方が優れた方法であると言えます。

ひとつ、例を見てみましょう。
労働を「疎外された労働」と「解放されていない労働」に特徴づけによる区別をします。

労働には「疎外された労働」と「解放されていない労働」の2種類があります。
労働者が自分の仕事を完全にコントロールできない場合や、その恩恵を十分に受けられない場合、労働は疎外されています。
疎外されていない場合、労働は解放されていません。 

また、次のように両方の方法を組み合わせることが望ましい場合もあります。 

労働には「疎外された労働」と「解放されていない労働」の2種類がある。
疎外された労働とは、労働者が自分の仕事を完全にコントロールできない場合や、その恩恵を十分に受けられない場合であり、例えば、農民、自動車労働者、官僚などの労働がそうである。
また、自営業者や詩人、政治家のように、労働が疎外されていない場合には、労働は疎外されていない。

時々、人は区別をつけようとして失敗することがありますが、それは実際には違いを特定できないからです。
それがa distinction without a differenceの意味するものです。違いがなければ、区別もないし、区別しようとしたり、区別しているように見えたりするだけなわけです。

2.2 a distinction without a difference

違いのない区別を見てみます。

イギリスでは、国王の肉体と政治的肉体を区別する伝統がありました。イングランド内戦の反乱軍は、チャールズ・スチュアートという人物と戦うことで、政治的な王であるチャールズ1世を解放しようとしていると主張していました。
王党派の人々は、自分たちの王の身体と自然の身体を区別するという主張は、違いのない区別だと考えていました。


核実験を再開したフランスのある国防大臣は、自国の核実験再開を擁護するために、事実上、次のように述べた。「フランス政府は核爆弾の実験をしていない。爆弾と爆発する装置は区別しなければならない。フランス政府は爆発する核爆弾を実験しているのであって、爆弾ではない」。
大臣は、違いのない区別をしようとしていると揶揄された。しかし、実験は続けられました。

区別が区別になってない、区別にしようとしているものは見逃さない方がいいかもしれません。


3.分析

3.1定義との違い

定義は、明確に言葉の意味を与えるものです。
対して分析は、明確に概念の必要条件と十分条件を与えるものです。
言葉は概念を表現するので、定義は分析の言語的対応物となります。定義について述べたことの多くは、分析にも当てはまります。

3.2analysandum/analysand

analysandumとは、理解されていない何かがあるために、説明し明確にする必要がある概念のことです。
analysandは、analysandumを部分的に分解したり、他の概念との関係を特定することによって、analysandumを説明し、明確にする分析の部分です。 

被分析項(Analysandum )
分析項(Analysand )

分析とは、analysandumで表現された概念に対する必要条件と十分条件をAnalysandの中で特定しようとするものです。必要条件とは、Analysandが弱すぎることを避けるために含まなければならない条件のことです。

必要条件:Fであるための必要条件は、Fであるために必ず満たさなければならない条件。
十分条件:Fであるための十分条件は、もしその条件を満たすならば必ずFであるような条件。
必要十分条件:Fであるために必要かつ十分な条件は、Fであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ずFでなければならないという条件である。
必要かつ連言的に十分な条件:概念Fについて、Fであるために必要かつ連言的に十分な条件は、それらのすべてを満足することがFであるのに十分であるような一連の必要条件。


人間は生物でなければならないので、生物であることは人間であるための必要条件である。しかし、生物であることは十分条件ではない。犬は生物ですが、人間ではない。
十分条件とは、分析項の概念が満たされることを保証するのに十分な条件のことです。


1,000万ドルのMicrosoftの株を持っていることは、お金持ちであるための十分条件です。しかし、それは必要条件ではありません。なぜならば、人はそれだけのMicrosoftの株を持っていなくてもお金持ちになることができるからです。1万ポンドの金を持っていることも、お金持ちになるための十分条件です。

3.3独身であること

 何かが独身者であるのは、次のような場合だけです。
 (1)未婚であること。 (2)大人だから。 (3)男性であること。

 これはかなり良い分析ですが、十分とは言えません。
人間だけが独身である以上、4つ目の条件 (4)それは人間である。を加える必要があります。
しかし、まだ交尾していない若い大人のアザラシも独身と呼ばれています。こういった2つの理由から、4つ目の条件を追加するかどうかをここで議論する必要はなくなります。

3.4「Sはpを知っている」

知識については定義の部分でも話しましたが度々よく出るものです。人は、何かを知っていると言っていても、実際には知っていると言っていることが嘘であることがあります。
このことは、真ではない何かを知ることが可能であることを示しているわけではありません。単に、人々が自分の知っていると思っていることが間違っていることがあるということを示しているのです。

私たちの知識の分析は、知識を信念に同化させるものでもあります。上記で示したような定義であれば、知識は信念の一種です。これはもっと議論の余地があります。知識と信念は異なる心理状態であるという結論を出す強力な議論もあります。これが正しいかどうかはここでは議論しません。
定義で示した条件(3)を適切な条件にするためには、何かを信じることが正当化されるとはどういうことかを明示する必要となります。

3.53つの欠陥

(1)循環的であること、(2)強すぎること、(3)弱すぎること、によって欠陥が生じる可能性があります。

3.5-1循環的であること

分析は、被分析項(Analytandum)またはそのキーワードが分析項(Analytans)の中にある場合、循環的なものとなります。
例えば、「凍結」を分析しようとする場合、分析項として「液体が凍結するときに起こる何か」を提案するのは間違いです。
問題は明らかで、もし誰かが「凍結」が何であるかを知らないために「凍結」の分析を必要としているのであれば、「凍結は液体に起こる何かである」と教えても意味がありません。
なぜなら、分析項には凍結という概念が含まれているので、分析項を理解する前にそれを理解しなければならないからである。このような分析の考え方は、哲学的分析の対象が理解であることを前提としています。
すべての哲学者がこのような考え方をしているわけではなく、対象が還元であると考える哲学者もいます。還元主義の背景にある考え方は、科学理論と同様に、ある哲学理論は、現実を説明するために必要な対象の種類が少ない方が他の理論よりも優れているというものです。
このようにして、従来の哲学では一元論と二元論が好まれてきました(実体を必要以上に増やしてはならないという原則は、それを主張した14世紀のイギリスの哲学者オッカムにちなんで「オッカムの剃刀」と呼ばれています)。

「2+2=4」なんてのも、これらは数に関するある事実があるからこそ成り立つように思われます。しかし、数の概念、足し算の概念、素数であることの概念などを、完全に物理的な物体の特性の観点から分析する方法を見つけることができれば、数が存在するという仮定は不要になります。
なぜなら、「2+2=4」は、実際には物理的な物体についての記述を大幅に省略したものに過ぎないと言えるからです。同様に、還元的唯物論者は、物質でできているとは思えない様々な種類のもの、特に心が、実際には物質的な言葉で分析できることを示そうとします。 ある場合には、還元は複数の段階を経て行われます。例えば、トマス・ホッブズは、すべての現象を物質的な粒子の運動に還元することを提案しました。ホッブズは、政府を人間の行動で分析し、人間の行動を手足や内臓の運動で分析し、最後にそれらを物質的粒子の運動で分析しようとしました。

3.5-2強すぎる、弱すぎること

分析が強すぎるというのは、分析されている概念の例を挙げることができても、それが被分析項で規定されている条件をすべて満たさない場合に限られます。
逆に、分析が弱すぎるというのは、被分析項で規定されている条件をすべて満たすが、被分析項の例ではないものを説明することができる場合に限られます。

例えば、独身の分析を考えてみましょう。 
何かが独身者であるのは、次のような場合だけです。
 (1)未婚であること。 (2)男性であること。 (3)人間であること。 なぜなら、子どもは3つの条件をすべて満たしていますが、彼らを独身者としてカウントしていないからです。 
ここで、独身のより強い分析を考えてみましょう。
 何かが独身者であるのは、次のような場合だけです。
 (1)未婚であること。 (2)男性であること。 (3)人間であること。 (4) 大人であること。 (5) テニスをすること。
この分析は強すぎます。テニスをしない独身者を見つけるのは簡単なので、条件(5)を満たしません。


次回余裕があればジレンマ以降について記していきます。

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