0826経験と分析③-言語的定義、直示的定義-

経験に基づく思考か、分析に基づく思考か、この2つの思考法をおうためにはじめた実証主義と論理実証主義の勉強。こうやって勉強していくと言語なしには生まれない、経験なしには生まれない、といった細かい部分の対立が起きているように感じる。

「論理実証主義」
この主義を主張するものは「あらゆる哲学を終焉させる哲学」を発見したと確信していた。

論理実証主義の言語哲学を形作るものは、
原名の意味とはその検証条件であるとする「意味の検証理論」、
ならびに、
数学的言明や論理的言明はトートロジーに過ぎないとする説である。

〇強いテーゼと弱いテーゼ
「論理実証主義」には「検証可能性」という言葉が頻繁に出現する。
「有意味である命題は、検証可能でなければならない」というテーゼを適用
「強いテーゼ(意味の検証理論、検証原理)」
命題の意味は、その検証方法である。
「弱いテーゼ(検証可能性のテーゼ)」
命題が有意味であるためには、検証可能でなくてはならない。

シュリックは強いテーゼに対し
「文の意味を述べるということは、その文が使用される際に従われるべき規則を述べることに帰着する。そして、それは、その文が検証される(あるいは反証される)仕方を述べることと同じである。命題の意味とは、その検証の方法である。」という
文の理解とは何に存するかの考察によるもの。
コミュニケーションの可能性にかかわるものとし、
『算術の基礎』フレーゲの議論、ウィトゲンシュタイン「私的言語の議論」
反実在論者の「発現の議論」、の系譜の中に位置を占めている。

〇文の理解とは何に存するのか。
シュリックは、
文の理解とは、そこに現れている語の理解を前提する。
文の意味を述べるためには、そこに現れている語の意味を述べることができなくてはならない。
とする。

〇言語的定義と直示的定義
語の意味を述べるとは
→その語の用法を定義すること。その語がどのような状況のもとで使用されるべきかの指示を与えること。その語が用いられる際に従われるべき規則を与えることでもある。
これは、問題となっている語を他の語で説明するという「言語的定義」によってなされる。
しかし、そうした説明は使われる語が既に理解されていてはじめて可能となる。
他の語の理解を前提しない仕方で語の説明を与える方法としては
直示的定義」以外にない。
青色の物をさしながら「あお」と言い子供に語を教えるのが「直示的定義」
すなわち、意味の理解は、最終的には直示的定義に訴える以外になく、そのことは「経験」「検証の可能性」に訴えるということを意味する

「言語的定義」はわれわれを、ある語から他の語へと差し向けるだけ
対し
「直示的定義」は語と言語外の実在との直接的結合を手にすることができる
ように思われる。
しかし、直示的定義の理解には、すでに多くの事柄が知られていなければならない。「あお」と言われたときに、それを指しているものが「形」ではなく「色」であることを知っていなければならない。また「ライオン」と「あお」では、見るものが実物かどうかが変わる。

「経験主義的意味論」では、言語の習得・理解は、われわれの経験中に見いだされる要素だけから由来するものでなくてはならない。
ヒュームにおいては、われわれの観念(イデア)はすべて、単純観念とそれらから構成される複合観念のどちらかであり、単純観念は、それに先立つ印象のコピーであるとされる。
「経験主義的意味論」では、意味の習得理解の単位が個々の語に求められている。
しかし、直示的定義の成功は、すでにある程度発達した言語的能力を前提とする。言語的理解の単位を語に求めるのではなく、文全体を単位とするものであることが重要である。ひとつの文の理解は、他の多くの文の理解を伴っていなければならない。

クレイグは、「直示的定義の理解にとって、決定的な役割を果たすものは、学習者の経験ではなく、学習者の「信念」である。」とし、「信念」という概念をあらたに持ち出す。


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