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Trap

金曜日

 合板でできた丸いテーブルの上に、小さなものが色とりどりに散らばっている。例えば、青リンゴ味のフーセンガム、舐めると味と色が変わるキャンディ、不思議な形のアルミパックに包まれたマーブルチョコレート、青い色の棒状のゼリー。そのほかにも、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのようにこまごまとしたものが白いテーブルいっぱいに散らかっている。それらは総称して駄菓子と呼ばれるものだ。よく見ると、食べ終わった抜け殻も混じって転がっている。今この瞬間にまたひとつ抜け殻が増えた。色の白い指が、コーラタブレットの抜け殻をテーブルの中央にぽいと置いた。口の中にしゅわしゅわと広がる甘い泡は、だいぶ小さくなって、もう終わりに近づいている。周りを見渡すと、人々が右へ左へと、水槽を泳ぐ魚のように回遊しているのがわかる。距離の中央でそれぞれの人々が交差する割合は十五秒に一度ほどだ。彼女は特にやることが無かったので、数えていた。特筆すべきことは特にないが、強いて言えば、平日の夕方だけあって、休日よりもそのインターバルは長いということだけだった。地方都市の平日のショッピングセンターなんてこんなものだ。
 このショッピングセンターに、竹本絵理花はよく足を運ぶ。といっても、純粋な休日に来ることはそこまで多く無い。ものすごく混むからだ。片田舎で休日のショッピングセンターの立ち位置は、ちょっとしたテーマパークのそれに近い。だからどちらかといえば、今日のように平日、学校の放課後に暇を持て余してくることのほうが多かった。
 エリカは同地区内にある私立女子高の制服のままだったが、態度が堂々としているせいか、それとも周囲のカラフルさにすっかりまぎれ込んでしまっているのか、不思議とあまり目立たなかった。だいたい私立の割に、放課後の寄り道を注意されるような校則の厳しい学校ではない。さらに言えば、制服のまま平日にショッピングセンターで買い食いをしていたところで、何か具体的な悪ささえしていなければわざわざ口をはさんでくる人間はそんなにいないのだった。
 急ごしらえみたいなデザインの白いテーブルの下で、エリカは足を組み替える。冷房が少し涼しい。ハイソックスを履いているのでそこまで寒くは無いのだが、やはり休日と違い客数が少ない分だけ、室温をダイレクトに感じるらしい。
 エリカはフードコートの端、売り場通路に面した場所に陣取っていた。ここに来てから、時間にして一時間ほどになる。どうせこれから夕飯だという意識があってあまり腹に溜まるものは入れたくなかったので、席からすぐそばのテナントの駄菓子屋で駄菓子を数百円分買って食べていた。
 他の席を見てみると、広いフードコートエリアの数えるほどにしか人がいない。若い家族が二組、カップルが二組、お年寄りがオフ会みたいなのをやっているのが一組、あとは年齢も性別もランダムな一人客が五、六人くらい。ちなみにエリカ自身もそのなかに入っている。やはり真面目に食事らしい食事をしている人はかなり少なく、ほとんどが軽いスナックかドリンクをテーブルに並べていた。
 エリカは腕時計を見る。五時半だ。ガラス張りの一角から、夏の光が容赦なく街に降り注ぐのが見えた。その光があまりに強いものだから、眼下に見える街並みは縁が白っぽく霞んでまぼろしみたいに見える。外に出た瞬間に身体をうわっと襲うであろう暑さに、頭の奥が痛くなった。黒いおかっぱ髪をうしろ手でひとつにまとめ、すぐに手を離す。夏服の制服のセーラー襟の上で、切り揃えられた髪が、さらりと衝撃に揺れた。どこかに行こうか。もう帰ろうか。先程から何分か置きに浮かぶ考えだったが、件の暑さのことと、気だるい気持ちとが合わさって、エリカの脚を床に貼り付けたままにしていた。
 テーブルの上を改めて眺めてみれば、いつの間にか駄菓子の本体よりも抜け殻のほうの割合が多くなっている。店で詰めてもらったビニール袋を逆さにして残りすべての菓子を出してしまうと、空っぽになったそれにこまごまとしたごみをまとめた。白いビニール袋には、駄菓子屋のロゴが濃い緑色の文字で入っている。そんなところがいかにもチェーンの店らしく、エリカはつまらなくて溜め息をついた。テナントの駄菓子屋は過ぎ去った時代のノスタルジーを売りにしているらしく、あえて店構えや陳列の仕方も「それっぽく」気を配っている。けれどエリカと彼女と同年代以降の人間は、幼いころにもう駄菓子屋という職業がほぼ消え去っていたため、そこに感じるのはあくまでも「懐かしい感じがする、気がする」という程度の水増しされたノスタルジアでしかない。だからきっと、ロゴ入りのビニール袋なんて小さな違和感みたいなものが鼻につくのだろう、とエリカは分析する。例えばそれは、遊園地に行って、帰りのゲートで手を振ってくれたきぐるみの背中のチャックが開いているようなもの。雑なファンシーである。そんなことをつらつらと考えていたものだから「こんにちは」とどこからか声をかけられたことを、エリカは瞬時に自分に対するものだと判断ができなかった。
「こんにちは。ちょっと、ここ座るね」
 そんな声が聞こえるとすぐ、良いも悪いも言う前に、気が付いたら目の前に誰かが座っていた。急に景色が変わった視界にエリカは頭の対処が遅れたが、すぐに気を取り直す。
 見知らぬ若い男性だ。学校の関係者かと一瞬身構えたけれど、その顔はエリカの全く知らないものだった。
 黒いエプロンに、赤っぽい暗い色の地の柄物のシャツを着ている。人を選ぶ服装だと思ったが、特に違和感を覚えないないあたり、きっと選ばれた人間なのだろう。男性にしては比較的肌の色が白い。黒い髪を短くさっぱりとした感じに切っていて、フレームレスの眼鏡をかけている。その下の表情は、たった今何か良いことでもあったかのように、楽しげに微笑んでいる。
「何か、用でしょうか」
 何をどう言ったものか迷ったが、とりあえず口から押し出せた言葉はそれだった。男性はその言葉を待っていたように、ほとんど続けざまにエリカに言葉を返す。
「良かった、会話してくれそうで。一回話しかけて軽くいなされたからどうなる事かと思ったよ。えーとね、今時間あるよね。もしよかったらこれ食べない?ちょっとした、うん、なんていうか誤差みたいなのがあって、店でちょっと余ってるんだよね」
 男性はそう言うと、テーブルの上を滑らすようにして白いビニール袋をエリカに差しだした。エリカは訝しげに目の前の顔を見る。男性はゆっくりとまばたきをしながら、一つ頷いた。エリカはおそるおそる差し出された袋を手にとって、中を見る。駄菓子が入っていた。拍子抜けして袋を見直すと、先程買い物をした駄菓子屋の袋と同じ袋だった。なんだ、と思って息をつくと、男性が「食べようよ」といって袋を持ち上げる仕草をする。ほとんど何もない平原になっていたテーブルの上は、また小さな駄菓子に占領されることになった。エリカが駄菓子を袋から出すと、男性は待っていましたと言わんばかりに手を伸ばしてちいさなサラミスティックのパッケージを剥いた。エリカにくれたというわりには行動が素早い。エリカもなんだか妙に気が急いて、慌ててとりあえず一番近くにあったソーダラムネの瓶を手にとって食べ始めた。
「良いんですか?こんなにいっぱいもらっても」
「いーのいーの。さっき言った通り、ちょっとミスで過発注しちゃってね。きみにあげなくても誰かほかの人にあげるつもりだったよ。店長権限でさ」
 一心不乱とまではいかなくても、エリカのほうも見ずにほとんど無心で駄菓子を食べるこの男性は、どうやら駄菓子屋の店長らしい。新手のナンパか勧誘か、とエリカは訝る。ちなみに、これまでにナンパはされたことがない。たとえ勧誘だったにしても、黒っぽいエプロンの真ん中に白抜きされた「駄菓子のびいどろ」の文字が目に止まるたび、妙に肩の力が抜けてしまうが。
「お店はいいんですか?」
「あー気にしないでー。ベル置いてきたから。御用の際はチーンってなるやつ。あと優秀なバイトちゃんもいるしね」
 そういえば、エリカがさっきをレジしてもらったのは、茶髪の若い女性だった。軽くてだるそうな見た目の割に、ずいぶん丁寧な(少なくとも目の前の男性よりは)接客だったので、ちょっと印象に残っている。どうもあの女性が「バイトちゃん」らしい。というか、バイトの方が真面目そうでいいのだろうか。目の前の男性に対する信用度が一桁からマイナスに下がりかけたところで、男性がエリカに語りかけた。
「きみ、今しあわせかい?」
「は」
 なにか言い返すべきだと思ったが、一言しか出てこなかった。
目の前の男は、テーブルに乗せた手を組み、不自然でない程度ににこにことした笑顔で、エリカを見つめている。言葉を続けて来ないところを見ると、エリカのほうの続きを待っているらしい。つまり、エリカが言葉を返し終えるまでは、次の言葉を言わないつもりだ。だからエリカはしぶしぶと、でも、とりあえず自分が言える言葉を探り、取り出して並べていくことになる。つまりこのように。
「えっと、しあわせ、だとは思います。目立って困ったことは、そんなにないですし」
「それは消去法だね?」
 言った瞬間、即座に突っ込まれた。
 内容よりも男性のその態度みたいなものが、エリカの神経に障る。
「消去法って」
 男は何も言わず、先ほどと同じようにただ口元にほほ笑みを浮かべてエリカを見つめている。どうやら、きちんとした正しい文章を求めているようだった。今どきネットの検索システムでも予測を使って回答を出してくるというのに、この男は何なんだろうか。エリカはそう思いつつ、言い直す。
「消去法って、どういうことですか?」
「だから、君が今言ったそれはすべてを差し引いて行った結果なわけでしょ。例えば……うーんそうだな、自分は今現在大きなケガをしていない。病気もしてない。家族も然り。みんな健康で、元気に生活している。お金にも特に困ってない。だからしあわせだ。とてもハッピィ。そういう不幸の要素を取り除いていった結果の、幸せだということ」
 さて、とでも言いたげに、男は組んでいた手を一度離して、テーブルの上に所在投げに少しさまよわせた。そして諦めたようにまた組み直して、テーブルの上に置いた。
「僕の言う幸せってのはそうじゃなくてね。もっと感覚的な幸せさ。なんていうかな、肌で感じるようなものだね。尋ねられた時、ふわっと体を包み込むような、既に包み込まれているような、そんな感じのもの。理詰めでああでこうでっていう感じじゃあ、ないな」
 その言葉は、具体的なようで一切的を得ていない、とエリカは思った。視線を上げると、男性と目が合った。男性はエリカに微笑む。そこでエリカは初めて、自分が眉間にシワを寄せていることに気がついた。とりあえず、表情を元のように戻す。
「お言葉ですが、幸せであるということって、突き詰めれば、つまり不幸じゃないってことなんじゃないでしょうか。短所の反対が長所みたいに、不幸の反対側が幸せだって解釈でもいいと思います。ていうかそもそも、幸せだって感じることそのものに意義があるのであって、理由なんてそんな、別に何だっていいじゃないですか」
 思ったよりもまくし立てるように話していることに気がついて、エリカははっと口をつぐむ。目の前の男性は興味深そうに目を開いていたが、口元は穏やかな笑みを浮かべたままなものだから、なんだかバツが悪くなった気がして、エリカは目をそらした。
 わずかに声が漏れる音がした。目の前の男がかすかに笑った声だった。神経に障るその雑音みたいなものに、思わずエリカはまた相手の面を見て顔をしかめてしまう。思わずよからぬ言葉が飛び出す前に、目の前で手を軽く振られ、シールドされる。
「いや、ごめんね。気を悪くしないで。僕としてはその意見はとっても素敵だと思うよ。なんていうか、うん、女子高生らしくていい。古臭くいえば、若者らしくていいよね。さっき僕も知ったかみたいにあれこれ言ったけど、それが正しいかなんて、そもそも正しさなんて世の中どこにあるかわからないわけだし、だからさっきの僕と同じことを女子高生に言われたらちょっとチョップしちゃうかもしれない。あ、もちろん例えばの話ね。比喩の話。実際にはしないから、大丈夫」
 水増しみたいな会話だ、とエリカは思った。センテンスと、それに含まれる情報量が反比例している気がする。終始機嫌の良さそうな笑顔も含めて、男性はエリカをそこはかとなく落ち着かない気分にさせた。腕時計をちらりと見る。特に意味の無い行動だった。もう席を立っても良いだろうか。それとも相手から話し始めたのに勝手に切り上げるのは失礼だろうか。どうでもいいだろうか。
「ま、理由が何であろうと関係ないよね。きみが幸せでよかったよ」
 エリカの様子に感じるものがあったのか、男性は椅子を引いて立ち上がる。ぽかんと見つめるエリカにちょっとまってて、と言うと、大股に通路を歩いて、駄菓子屋の方へ戻っていく。
「鈴木ちゃん、あれ出してくんない。そう、あのまとめといたやつ」
 先程レジを打ってくれた店員は鈴木というらしい。ごめんね、お待たせ、と言って席に戻ってきた男の手には、駄菓子屋のロゴマークが入った白いビニール袋が握られていた。
「これお土産。どうせ余っているものだから気にしなくっていいよ。遠慮なく食べて」
「はあ」
 おずおずと差し出した手に握らされたビニール袋は、握った瞬間急に重力を持ってエリカを驚かせた。きっと駄菓子だろうからと思って何も考えていなかったが、思いのほか、重い。
「なんだか重いですけど」
「まあ、ものがモノだからねー」
 ものがモノ、という言葉に引っかかって、エリカは袋の中を隙間からそっとのぞき込む。
中には、数々の駄菓子と、剣玉が入っていた。
「剣玉?」
 剣玉自体今どきあまり見かけないが、それにしてもさらに見かける頻度が低い、昔ながらの木製のものだった。先端に刺さる丸い玉だけ赤く塗ってある。薄い透明のビニール袋でパッケージングされていて、厚紙で出来たヘッダーラベルには、今ではあまり見かけ無いタイプの絵柄でピンク色のネコ(うさぎかもしれない)が剣玉で遊ぶ様子が描かれている。正真正銘のノスタルジアだった。商品倉庫のデッドストックかなにかだろうか。
「そう、剣玉。これ結構使えるからさ、持っていきなよ」
 男は何でもない風に言って、エリカに促す。使えるというのは、暇つぶしになるよ、ということなのだろうか。よくわからなかったが、せっかくくれたのだ、エリカはありがたく頂戴することにする。
「ありがとうございます。剣玉ってやったことないけど、やってみます。お菓子もごちそうさまでした」
 椅子から立って、頭を下げる。男性の顔は、変わらずに楽しげな微笑みを浮かべていた。だがエリカはその表情に少しだけ違和感を感じる。そして、瞳だけが笑っていないことに気がつく。怒っているとか、そういった感情ではない。どこかエリカではない、違うものを見つめているような目をしていた。例えばそれは、朝焼けの空を見てそれによく似た夕焼けを思い出す時のような、そんなふうな瞳だった。けれどもそれはほんの一瞬で消え去り、すぐに満面の微笑みに戻る。
「気が向いたらまた来るといいよ。いつでも待ってる」
 男性は両手を広げて言う。そのまま会話を締めようとして、少し慌てた様子で付け足した。
「言うのすっかり忘れてたけど、僕の名前はこれ」
 そう言って、首から提げた名札をエリカの目の高さにちらつかせた。店の名前の下に、ひらがなで「ふなきいさく」と均等割付で書いてある。名前が漢字表記でないのは、店を訪れる年齢層に合わせた配慮のつもりなのだろう。
「ふな・きいさくさん?」
「ふなき・いさく、だよ。きみの名前は?」
 フナキと名乗る男に尋ねられ、名前を言おうとしたその時、エリカの意識に一拍の空白が生まれた。青い空に浮かぶ、小さく真っ白い雲のような、ぽっかりとした空白だ。開きかけた口が止まる。一瞬言葉がつかえて、その後に「エリカです。竹本絵理花」と溢れ出した。
 フナキはほんの少しだけ目を細めたあと「エリカちゃんね。ふうん」と言って、なるほど、と言うようにひとつ頷いた。多分不思議な間を不自然に感じたんだろう、とエリカは思う。なぜなら、あらゆる言葉の中できっと一番使用回数が多いはずの自分の名前を一瞬でも忘れるなんて、エリカ自身不思議でしょうがなかったからだ。
なぜあんなことが起こったのだろう。
「ともかく、エリカちゃんがしあわせだってことが聞けて良かったよ。きみは今のその気持ちを、後生大事にした方が良い。それがゆくゆくはきみを助けることになるんだからね。さよなら、エリカちゃん。僕はエリカちゃんのしあわせを心から祈る」
 フナキはそれだけ一気に言って、手を振ると駄菓子屋の中へ消えていった。
あとにはぽかんとした顔で立ちつくしたままのエリカと、テーブルの上の駄菓子と剣玉だけが残された。
 

 
「なんだったんだろう、あれ」
 心の中でつぶやいたつもりだったが、どうも声に出ていたらしく、そばを通り過ぎた若い男性がエリカのほうを振り返った。
 エリカはあれからどうにも落ち着かない気持ちになって、すぐに席を立った。帰り際に駄菓子屋を通路から覗いてみたけれど、フナキはバックヤードに行ってしまったのか、アルバイトの女性だけが商品の補充をしていた。
地表に残った熱が、薄闇になった今もなお下から沸き上がり、空気をねっとりと重くしている。見えない力にくらりと押し倒されそうになって、エリカは頭を振った。
 制服はツーピースのセーラー服だったが、妙に凝ったデザインで、遠目からはワンピースっぽく見えるように、ご丁寧にスカートにはベルト着用が義務だった。見た目だけなら可愛らしくてなかなか素敵なのだが、暑い夏の日にはうざったくてしょうがないと生徒の間で毎年話の種にされている。それをエリカは今、痛感していた。
 退勤ラッシュの時間になって、道は車で混んでいる。バス停まではもう少しだ。額にじんわりと汗をかく。さっきまでとても涼しいところにいたものだから、熱気が堪えてしょうがない。手に持ったものが重い。通学鞄と、駄菓子屋の店長からもらったビニール袋だ。
 何度思い返しても、エリカにはさっきの出来事の意味がよくわからなかった。顧問が出張に出ていて、部長が夏風邪をこじらせ早退して開店休業状態だった部活をサボり、たまにそうするように学校の近所のショッピングモールで駄菓子を食べて暇を潰していたら、駄菓子屋の店長からわけのわからないことで声をかけられた。そしてちょっと重いお土産をもらった。エリカは、フナキという駄菓子茶の店長から最後に言われた言葉を反芻する。
 僕は、エリカちゃんのしあわせを祈る。
 たった今会ったばかりの、見ず知らずの人間からしあわせを祈られてもなあ。とエリカは思う。そこに嫌味や悪意はないっぽいので気持ち悪いとまでは思わなかったが、それでも奇妙な体験には変わりなかった。夏の夕闇に淀む熱気に浮かされた幻覚のように思えた。そっちの方が、むしろ信じやすい。それでも手から伝わるビニール袋のしっかりとした重さが、その出来事が夢でも幻覚でもなかったことをはっきりと物語っていた。
 道路を走る車だけでなく、道行く人々も、エリカがきたときよりも確実に数を増やしていた。目につくのは学生の姿だ。部活を終えて家への道のりを急ぐもの、友達と連れ立ってこれから件のショッピングモールへ遊びに行くもの、その様子は様々だ。中には、エリカと同じ制服を着た女子高生の姿もあった。すれ違ったその学生は、友達と高い声で笑いながら夕暮れの霞の向こうへ小さくなっていく。背中には、テニスか何か、ラケットのケースを背負っている。その道具の存在に気が付いて、エリカは彼女から目を逸らす。通りの向こうから、学ランを着た男子学生が群れを成して自転車でだらだらと走ってくる。そろいのスポーツバッグを無造作にかごに突っ込み、中にはバットのケースを背負っている者もいる。彼らは道いっぱいに広がって走っていたが、歩くエリカの姿を見つけると、誰からともなく一列になって器用に脇をすり抜けていった。彼らからもエリカは目を背ける。もう何も見たくなくなって、結局下を向いた。足元さえ見ていればいい。
 遠く聞こえてくる学生たちの声が、ひどく耳に障った。
 エリカは首を振る。黒い髪が、さらさらと震えた。
 彼らが、彼女らが、エリカに対して何かしたわけでは決してない。問題があるのは、きっと、自分のほうなのだ。
 きっと?ほら、また「きっと」なんていう不確かな言葉を、自分に対して使いたがる。自分は、自分だけはまともでありたい、今の自分は正しい選択の結果であると言いたい思い込み。不確定足らしめる言葉を曖昧に使って、いざとなったら手のひらを返してそこに逃げ込めるようにしておくのだ。なんて卑怯で姑息なことだろう。
 エリカの視界には、一定の歩幅で歩みを進める一揃いの黒いローファーと、たまに端のほうに学生鞄と、フナキからもらった白いビニール袋が身体の動きに合わせてちらちらと見える。
 数か月前には、そこに四角い木製の鞄が見えていた。大きめの形で、全体はくすんだ茶色。持ち手の部分だけが、皮でできている。少し傷があり、ところどころ油っぽく汚れたその鞄には、使い込まれた油絵の道具が入っていた。      
 エリカはまた首を振った。どうして思い出してしまったのだろう。思い出したところで、つまらないことだ。
 一つ息をついて次の一歩を踏み出す。しかし意識的に歩幅を大きくした歩みは、再び急に止まった。
 足元に、革製の何かが落ちていた。エリカは反射的に顔をあげて、後ろを振り返る。相変わらずあたりに人通りは多かったが、不思議とエリカの近くには人がいなかった。さっき集団で通りすぎていった男子学生たちがふと頭に浮かんだが、それにしては渋すぎる風合いだ。
 ちょっと迷ってから、とりあえず拾ってみる。手に取ると、皮の質感が手にぴたりと張り付いた。それはシンプルな形のケースだった。簡単に二つ折りになっていて、留め具のようなものはついていない。開いてみると、カード類が両側に並んでいた。上のほうが開くようになっていて、紙幣の端が見えた。財布だった。思わず、エリカは身構えてしまう。思えば、道端でこんなにしっかりした財布を拾ったことなんて今まで一度もない。
 改めてカード類を見れば、エリカもよく利用するスーパーのポイントカードや、自動車の免許証、クレジットカードのようなものまで見える。拾い上げた時まではどちらかといえば興味のほうが勝っていたのだが、今となっては「手に取ってしまった」という気持ちのほうが強かった。財布自体の雰囲気から察するに、落としたのはおそらく年配の男性だろう。エリカにはこの状況を「ラッキィ」と喜んでしまうようなあくどさはない。となると、どうしたらいいか。
 携帯端末で検索画面を開きながら、同時に首を伸ばしてあたりを見回してみる。指が検索バーに文字を落とし込むよりも早く、今歩いてきた道の向こう側、ショッピングセンターの裏側のほうに、交番という標識を見つけた。エリカはため息をついた。普段利用しないと、案外気が付きにくいものだ。そのまま腕時計を見る。バスの時間まではまだ余裕があった。
 またひとつため息をついて、エリカは、元来た道をとぼとぼと戻っていった。
 
 ショッピングセンターの裏手は、建物とのあいだに大きな道路を一本はさみ、あとは建売の住宅街になっていた。売り切っていないのかまた新しく建てたものなのか、売り出し中ののぼりが立っている家もある。
 交番は、住宅街のはずれに、羊の群れを見守る犬のように建っていた。建物をよく見て見ると、まだ比較的新しい。住宅街の建設とともに建設されたのだろう。牧羊犬のように感じた印象は、あながち間違いではないのかもしれない。卵色の壁に真っ白い引き戸がついて、一見するとちょっとした自宅カフェのようにも見える。けれど戸の上では掲げられたくるくると回る赤いランプが、きわめて実務的な威圧を放っていた。その上に、ひらがなで「こうばん」とアーチ状に書いてある。
 すぐ前まで来て、エリカはやはり怖気づいた。交番に足を運んだことなんて無い。手に持った財布をその辺に放って引き返してしまおうかと割と真剣に考えたが、交番の前でうろうろして何もせずに引き返したら、それこそただの不審者だ。外に向けられた防犯カメラなんて、見るものが気が付かないだけでもちろんあるだろう。なんといっても、交番はそういうところなのだ。思い切って、エリカはガラス戸の白い縁に手をかけ、引いた。
 中にいたのは、三十代くらいの男の警官だった。大きな事務机に座って、日誌のようなものを広げている。エリカが何か言う前に、向こうのほうから「こんにちは」と声をかけてきた。そこには、少し不思議そうな響きが混じっていた。
「あの、近くで、財布を拾って」
 警官が机を離れてこちらにやってくる間に、エリカは答える。思ったよりも緊張して、たどたどしい言い方になってしまったが、相手にはそれで十分だったらしく、警官は戸口で「どうぞ」とエリカを手で中に促した。
 示されたパイプ椅子に座ると、扇風機の風がやってきて、エリカの髪を揺らした。スチールの事務机も、壁の高いところで首を振る扇風機も、そんなに新しいものには見えなかった。どうやら、建物だけをそっくり周りの雰囲気に合わせて建て替えしたものらしい。エリカは机の上に拾った革の財布を乗せて待っていた。警官は、机の端に乗せたレターケースを開けて、ごそごそと書類を引っ張り出している。目当てのものはすぐに見つかったらしく、一枚の紙を手に「お待たせしました」と机を挟んでエリカの正面に座った。
「お茶とか出なくてごめんね」
 そう言われてエリカは「はあ」と気の抜けた返事をしたが、それが彼なりのジョークみたいなものだということに気が付いて、少し笑った。おかげでいくらか緊張も弱まってくれた。もしかしたら、それが彼の狙いだったのかもしれない。
 拾った財布を手渡すと、どこで拾ったものか、何時頃に拾ったものかを尋ねられ、幾分緊張が解けたおかげか、エリカは質問によどみなく答えることができた。警官はエリカが言った言葉を、熱心にプリント用紙に書き込んでいる。それらは「わざわざ座る必要があったのだろうか」というくらい手早く、あっけなく終わった。
「申し遅れましたが、私は塚と言います。あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」
 塚と名乗った警官からそう聞かれて、エリカは一瞬言葉が出てこなかった。
 まただ。さっきフナキから名前を聞かれたときと同じ、意識の空白が、エリカの頭をさっとよぎった。しかし塚警官はそれを単なる緊張からくる余白だと思ってくれたらしく、エリカと目を合わせると、にっこりとほほ笑んだ。
「竹本絵理花です」
「はい、竹本さんですね。ではお手数ですが、こちらの書類にご署名と、ご住所電話番号の記入をお願いします」
 塚警官はそういうと、今まで自分がボールペンで字を書きこんでいた書類をエリカのほうに差し出した。エリカが記すべき部分は、シャープペンシルで丸く囲ってある。そういえば、今日は名前を訊かれる日だ。エリカは丁寧に記入しながら、そう思った。一日でこんなに名前を聞かれるのは、入学式かクラス替えの時くらいじゃないだろうか。
 書き終わって書類を返すと、塚警官書類をさっと目確認してから、塚警官は「ご協力ありがとうございました」と頭を下げた。席を立つエリカの後ろについて、玄関まで見送ってくれるようだった。
「その制服は私立の女子高だね。ここの近所の。今は部活の帰りかな、何部に入ってるの?」
「書道部です」
 エリカは答えた。
「そっか。俺は美術部だったんだ、高校の時。漫画家になりたくってさ。それが今じゃ警察官だ。全く、人生なんて分からないもんだよ。そういえばきみの学校の美術部は結構盛んだったね。高文祭で結構入賞者も出てて。懐かしいな、今もそうなの?」
「……どうなのかな。すみません、ちょっと他の部のことはわからなくて」
 エリカが謝ると、塚警官は引きとめてごめん、気をつけて帰ってと軽く笑った。エリカの言葉の端に生まれた空白には、特に気にも留めていないようだった。
 エリカはバス停へ向けて歩き出す。出来る限り頭の中を真っ白に塗り潰して、機械的に足だけを動かす。
 美術部のことなんて、絵のことなんて、もう、思い出したくなかったから。
 

 
 バス停を降りると、まっすぐ家に帰った。夕飯時だったが、通りはまだ明るさを名残惜しむ人々が歩いている。今日は金曜日だから、両親はどちらも仕事を定時で上がってもう家にいるはずだった。エリカの父は市内の銀行で融資関連の営業職を務めている。母は基本的に専業主婦だったが、昔美大に通っていた経験を活かして、インテリアコーディネートの事務所で週に何日かパートタイマーをしていた。どちらも最近忙しいという話は特に聞いていない。おそらく、のんびりとした週末になるだろう。
 住宅街に入ると、急にあたりから人が消えて静かになる。街灯の明かりがほの暗い空に白く光っている。交番に寄っていたせいでいつもより少し遅い時間だったが、両親はエリカの携帯端末に特に何の連絡も寄越さなかった。あたりがまだだいぶ明るいから、そこまで気にしてはいないのだろう。きっと「やれやれ今週も終わった」なんて言って二人でビールでも開けているのだ。エリカはそう思いながら、公園の脇の道を抜けて、突きあたりの角を右に折れた。手前の家から数えて四軒目、濃い茶色のドアの住宅がエリカの家だった。一応郵便受けを確認してから、ポーチをあがって、ドアノブを回した。
 ドアは開かなかった。
 あれ、と思ったが、とりあえずもう一度回してみる。開かない。エリカの家では、まだ帰宅していない家族がいる場合、必ずその家族の帰宅時間に合わせてドアの鍵は外すようにしている。急用ができて家を空けなければならないとき――例えば夕食の食材がうっかり切れていて買いに行っている――でもない限り、エリカが帰ってくる時間に、鍵が閉まっていることはないはずなのだが。
 ポーチを降りて、そのまま道路ぎりぎりまで後ずさる。夏の薄闇に、家の明かりがぼんやりと滲んで見えた。明かりは、正面から見る限り、リビングと、二階のエリカの部屋の二か所に点いている。
 ――なんだ、やっぱりみんないるんじゃない。
 きっと母がエリカの部屋に仕上がった洗濯物でも届けにいっているのだ。それにしても、父もリビングにいるのなら、誰かが玄関のドア開けようとしたことぐらい、気づいてもよさそうなものだが。
 うちの家族はもっと防犯に気を付けたほうがいいんじゃないかな。そんなことを思いながら、どこかほっとした気持ちで、エリカは再び玄関に向かった。ただし今度手を伸ばすのはドアではなく、すぐ横にあるインターホンだ。間の抜けたような電子音のチャイムの後に、ぷつんと接続される音が鳴るとすぐ、呼び出し口に「はーい」と母が出た。
「ただいま。ドアのカギ、閉まってたよ」
 開けてちょうだい。そう言おうとして、接続の向こう側で、母が息を飲む音が聞こえた。
 次の瞬間、数秒の沈黙があたりを支配する。ねっとりとした質感の沈黙だった。
「……あの、どちら様ですか?」
 不意を突かれた言葉に、エリカは一瞬誰かに首をひっつかまれたような気がした。
 私の声が聞こえなかったんだろうか。もしかしたら、インターホンのマイクがちょっと壊れているのかもしれない。
「エリカだよ。お母さん、娘の声を忘れたの?」
 また沈黙。
「あの、エリカはもう帰宅しておりますが。あなた、どちら様ですか?」
 次に言おうとしていた言葉が、全て宙に消えた。
 私が、もうすでに家に帰ってきている?
 エリカは、自分の部屋に点いていた灯りのことを思い出した。そして反射的に自分の手のひらを見た。ドアノブを握っている手だ。そこにあるのは、どう見ても、何度見ても自分の手だった。
 エリカは声を出さずに笑う。母はきっと、何か勘違いをしているのだ。普段はわりと理路整然とした人物なのだが、たまにちょっと変な思い込みをすることがある。
「お母さんこそ何か勘違いしてるんじゃない?家の人じゃない人を簡単に家に入れるのは、防犯上よくないと思うよ」
 そこでまたひとしきりの沈黙があった。
 冗談のつもりの言葉は、虚しく宙に彷徨って、行き場をなくして漂っている。鍵穴から、沈黙の冷たい空気が染みだしてくるのがわかった。
「……少々お待ちいただけますか」
 最後の声は、空気に紛れて薄く消えていった。パタパタという音が聞こえる。廊下を小走りに進むスリッパの音。
「エリカ!エリカ、ちょっと――」
 遠くに投げかける声に、エリカは心臓がはねた。確認しているのだ。そこに、その部屋にはたしかに帰ってきたはずの自分の娘が、エリカがいるはずだということを。
 ほんの少し、時が止まった様な固い沈黙があった。
「はーい」
 遠くから、声が聞こえた。
 間延びした、いかにも学校から帰ってきてのんびりとくつろいでいたというような声。
 聞いたことのない声だった。しかし、これは自分の声だ、とエリカは確信した。そこには、自分の声を録音か何かで聞いた時の、あの居心地の悪いような感じがあった。
 ぱたぱたとまたスリッパの音。今度はさっきより、音も足取りも軽い。それは階段を下り、エリカのいる玄関へと向かってくる。
「お母さん、何?」
「ちょっとお客さんが来ているんだけれど。それで――」
「了解了解、あとは私がなんとかしておくから」
 誰かがそう言うと、足音が一人分少々の迷いを含んだようにたたらを踏んで、そして歩き出す。遠くなっていく。
 エリカはドアの前から立ち去ろうと思った。頭の中で、何かベルのようなものがけたたましく鳴り響いていた。逃げなければ。帰らなければ。でもどこへ?
 ドアの一部、磨りガラスの部分に、さっとくすんだ色が見えた。海のような青をくすませた色。エリカは自分の制服のスカートの色を見た。同じ色だ。
 急に息苦しくなる。空気を吸ってはいるが、半分も肺に入っていない。
「エリカちゃん、こんばんは」
 
 ドアの向こうから聞こえた声は、エリカの声と全く同じだった。
 ドアノブが回る。
 同時に、エリカは弾けたようにドアの前から飛び出した。
 
 いつの間にかあたりはすっかり暗くなっていた。夏の夜はまだ眠るのには早いようで、住宅街を抜けると、まだ道には大人たちの姿がちらほらと見える。身体にまとわりつく風はぬるい。エリカは夕闇の街を歩いた。身体は風邪をひいた時のようにふわふわとして、現実感が無い。
 とりあえず、もう家に帰るわけには行かない。少なくとも、今日のところは。
 エリカは頭の中で状況を整理した。脚はいつもの彼女からすると倍ほど速いスピードで、道を進んでいる。とにかく一刻も早く、一メートルでも遠く、自分の家から離れたかった。
 さっき家にいたのは、自分の部屋にいたのは、誰なのだろう。母親と、何の違和感もなく話をしていたのは。いや、きっとあれは私だ。そうでなければ、家族が知らない人間を家に入れるわけがない。じゃあここにいて、今これを考えて「私」から逃げ出してきた人物は一体誰?私は「私」じゃないの?
 エリカは胸に手を当てた。制服の硬い生地の上からでも、早鐘のように打つ心臓の動きがわかる。それは生きている、人間であるという証拠だった。
夏の夜はいつまでも昼間の余韻を引きずって、楽しげに煌めいている。まるでお祭りの日みたいに。エリカだってもし何事も無かったら、夏の宵がもたらす熱を孕んだ不思議な予感に酩酊していたことだろう。エリカは、通り過ぎる人々を見ると、まるで自分が別の次元からうっかり迷い込んでしまった異物みたいに思えた。夏の夜の素敵な感覚は、というよりもこの世界の素敵なものすべて、私のところからはもう消え去ってしまったのかもしれない。そう思うと、エリカはなんだか泣きたくなった。小さい頃に遊びに行った遊園地のミラーハウスのことを思い出した。一緒に行った従姉妹達は正しい順路から抜け出て、はしゃいで彼女のことを呼んでいるのに、エリカはすっかり迷い込んでしまって、たくさんの偽物の自分がが映る中ひとりぼっちで、しまいには悲しくなって泣き出してしまった。その時に感じたのと似た無力感と脱力感が、エリカの体内を熱になって渦巻いていた。
 なにかの間違いかもしれない。そう思った。思うように努めた。それがどのような種類の間違いかはよくわからないが、とにかく、さっき起こったことはなにかの間違いだったのだ。
 エリカはぶるぶると頭を振ると、ゆっくり大きく頷き、ひとつ深呼吸をする。すると、だいぶ体に現実感が戻ってきた気がした。あてもなく歩いていた足を一旦止め、後ろに向き直る。そして、来た道をもう一度、辿り始めた。
 もう一度家に戻ってみよう。とりあえず、今のところはその選択肢しかない。
 エリカは人々の間をすり抜け、湿気に満ちた熱の中を歩く。足取りはしっかりとしたものだった。今度は大丈夫。そんな不思議な予感が、エリカの心を強くした。賑やかな通りを横に逸れ、角を曲がる。細かな道を二、三回折れ、緑色のフェンスが張り巡らされた公園に出る。公園の向こう側、住宅の間にある細い道を抜ければ、エリカの家のすぐ近くに出る。エリカは公園を斜めに突っ切っていくことにした。急いでいるときによく使う近道だった。住宅街にあって結構人の多い公園だったが、流石に時間が時間だからか、今は人けもなくしんと静まり返っていた。
 フェンスの入り口をくぐろうとしたその時、道路に人影が見えた。ゆっくりとこちらに歩いてくる。影になっていて、ぼやけた輪郭しかつかめない。エリカは足をとめた。目を凝らすと、徐々に人影の容貌が浮かび上がってくる。背はそんなに高くない。長い髪。女性だ。女の子。あたりの景色に沈んでわかりにくいが、黒い髪の毛をしている。歩幅に合わせて揺れるスカートの裾。それは一見ワンピースのような、くすんだ青の色の、私立の女子高の制服。それが赤い色で汚れている。真っ赤な色。色の濃い赤。それはまるで、血のような。
 エリカには、それが誰だか、もうわかってしまった。
 出来ることなら、もう見たくない。顔なんて、確かめたくない。けれど、エリカの瞳は、ほとんど自動的に、近づいてくる少女の顔に焦点を合わせていた。見ないわけにはいかなかった。
 
 それはエリカだった。
 エリカとまったく同じ格好で、制服を赤に汚して、髪の長い、竹本絵理花がそこにいた。
 
 エリカは叫ぼうとしたが、声が出なかった。駆けだそうにも、身体が地面につなぎとめられたように動かない。
 逃げろ、逃げなければ。
 わかっているはずなのに、反射的に飛び出すべきなのに、足が凍っている。
 もう一人のエリカが、だんだんこちらへ近づいてくる。ゆっくりと、一歩、二歩。
 その表情は、薄く笑っている。
 一歩、二歩、三歩目。
 アスファルトを強く蹴って、彼女は走りだした。わき目も振らず、エリカに一直線に向かって。
 エリカも逃げ出そうとした。けれど、足に力を入れようとすればするほど、膝から力が抜けていってうまく動けない。あと何メートルかで、もう一人のエリカと接触する。
 あと少し。あと何秒か――――
 
 その時、どこかで鈴が鳴った。
 高く澄んだ音が、静まり返った住宅街に反響する。
 
 その音が耳に届いた瞬間、エリカは身体のこわばりが消えた。反射的に、後ろに駆けだした。なにも考えず、身体の動くままに駆け抜ける。それでも、もう一人のエリカとの距離は広がらない。彼女はスピードを上げて、エリカのことを追ってくる。
 それなら。エリカは思い切り身体に力を込めて、その場でストップした。息を止めて無理やりぐるりと回転して、もう一人のエリカに向かって真正面から突き進んでいく。
 それは予想外の行動だったらしく、もう一人のエリカの反応が一瞬遅れた。慌てたように身体の舵を取るもう一人のエリカ、その横を突っ切るとき、エリカは彼女から強い油のにおいを感じた。むせかえるような重い香りが、彼女から滲んでいる。油絵具の匂いだった。そしてエリカは気がつく。    制服を汚している赤色は、油絵具なのだ。
 もう一人のエリカの長い髪の毛が、すれ違う空気の衝撃に舞って、エリカのむき出しの頬に触れる。エリカは恐怖の片隅に、懐かしさの断片を感じた。
 油絵具のにおいと、長かった髪の毛。それは、かつてエリカが手放したものだったからだ。
 エリカはスピードを上げた。後ろで同じように走ってくる足音がする。彼女もまた、スピードを上げている。
 振り返ってはいけない。捕まってはいけない。エリカは、本能的にそう思った。どこでもいいから、どこかにいかなくては。
 行く手に細い路地が見えた。迷いもなく、そこに飛び込む。
 大通りのネオンサインを目指してめちゃくちゃに道を進むうちに、いつしか油のにおいは消えてなくなっていった。
 
 
 
 
 

土曜日


 ぼやけた淡いオレンジがだんだんと強くなり、いつしか強い光に変わった。
 エリカは眩しさに目を開ける。電灯の光だった。あたりをぐるりと見回すと、カラフルな光の粒のようなものが部屋の壁一面にちらちらと舞っている。そばにあった大きなモニターからは、最新のヒット曲の情報が途切れなく流れている。そこでエリカはようやく昨日の出来事を思い出した。頭の奥にぼんやりとした痛みを感じた。きっと慣れないところで変な寝方をしたせいだろう。カラオケ店の固いソファの上で、エリカは大きく伸びをした。
 もう一人のエリカの追跡を振り切って、にぎやかな大通りに出たエリカは、とりあえず今晩寝泊まりするところを確保しなければならなかった。家に戻れない以上は、どこか探すしかなかった。財布には、一晩くらいならどうにかなるくらいの金額は入っていた。どうしても足りなくなれば、ATMからおろしても良い。終夜営業のファミレスやハンバーガーショップも考えたが、ひどく疲れていたから、できれば横になれるところが良かった。そこで思いついたのがカラオケ店だった。たまたま一部屋開いていたところに滑り込むことが出来た。金曜の夜だったから部屋はほとんど埋まっていたが、たまたま一部屋開いていたところに滑り込むことが出来た。
 腕時計を見ると、朝の九時を少し過ぎたあたりだった。両手で目を擦って、ついでに頬に手を当てる。それはいつもと違って、皮膚がこわばってむくんでいるように感じられた。エリカはため息をつく。携帯端末を点けた。誰からも連絡は入っていない。画面下の帯に、ニュースサイトの見出しが流れた。来月に控えた市長選挙の候補者が出そろったという内容だった。女子高校生がもう一人の自分に追いかけられてカラオケ店に身を潜めている、というニュースはどこにもない。エリカはしばらくカラフルな天井を見つめていたが、やがてゆっくりと起き上がった。ここでじっとしていても、どうしようもない。
 部屋から出て、廊下を少し進んだ先にあるドリンクバーから熱いコーヒーをもらい、部屋に戻る。ふうふうとすすりながら一応ルームサービスのメニューを見てみたが、全くと言っていいほど食欲がわかなかった。母に電話してみようかと思ったが、昨日インターホン越しに聞いた「どちら様ですか?」という声が、まだエリカの心に氷の楔のように突き刺さっていた。父についても、それは同じだ。もしお母さんとお父さんが昨日と同じように私のことを認識してくれなかったら、きっと私は立ち直れない。エリカはそう思った。
 ふと思いついて、エリカは学校の事務局の番号をダイヤルした。今日は第二土曜日で、昼までの講習がある日だった。コール音が数回鳴って、女性の声が電話を取った。エリカはあらかじめ考えていた言葉を言う。
「あの、一年B組の竹本絵理花の家の者ですが、今日うちの子は出席しておりますでしょうか」
「はい、確認いたしますので少々お待ち下さい――もしもし、お待たせしました。はい、竹本さんは出席になってますね。名簿のデータに、ちゃんとチェックがありますよ。どうかなさいましたか?」
「いえ、その、今日家を出るときにちょっと具合が悪そうだったものですから、心配になって。わかりました、ありがとうございます」
 エリカは通話を切った。やっぱりとは思ったが、どうやらもう一人のエリカは素知らぬ顔をして講習に出ているらしい。エリカはため息をついて髪をかきあげた。切りそろえた髪が、指の隙間からさらさらと落ちておかっぱの直線を描く。そういえば、あの私は髪が長かった。学校の人たちは、友人は、妙に思わないだろうか。その考えにうっすらとした期待を持ったが、考えてみれば、両親さえ何の違和感もなく受け入れていたのだ。学校の人たちなんていわんをや、だろう。
 エリカは、もう一人の自分が今ここにいる自分とすり替わっている、という事態を認め始めていた。というか、認めたくなんてなかったが、実際体験したことなのだからどうしようもない。認めるとか認めないとか、もうそういう次元の話ではないのだ。だからとりあえずひとまずは、この異常な事態をそっくりそのまま受け入れることにする。しかしエリカには、どうしてもひっかかることがあった。彼女はそれを、コーヒーカップの縁でつぶやく。
「あれが私の偽物だとして。どうして、髪が長いんだろう」
 エリカは熱いコーヒーをすすった。白く昇る湯気のなかに、絵具の香りを嗅いだ気がした。
 
 エリカは高校に入学したあたりまで、髪が今よりも長かった。背中に届く程のロングヘアだ。小さいころから長い髪が好きで、短くしたことは無かった。
 けれど、春を少し過ぎたころ、エリカは初めて髪を切った。長い髪と一緒に自分を形作っていたもうひとつ、絵を描くのをやめたからだった。
 今までの自分と、同じではいられないと思ったから。
 あれは、過去の私なんだ。髪が長くて、絵を描くのを止める前の私。そうすればあの絵具のにおいも説明がつく。でもだとしたら、どうして過去の私が私を追いかけたりしたんだろう?私に一体、何の用があるんだろう。あの制服にべったり汚していた赤い油絵具は、私に昔の自分を思い出させるため……?
 エリカは首を振った。そんなことをして、一体何になるというんだろう。そういえば確か、昔の映画にそんな話があった気がする。父の好きな洋画だ。でも昨日の「自分」の様子からして、映画のような、そんな心温まる展開ではないのだろう。
 考えていたところで、多分どうしようもないことだった。エリカはとりあえずカラオケ店から出ることにした。ここにずっといたところで、徒に料金がかさむだけだ。
 テーブルの上の、手もつけなかったカラオケセットと伝票を掴んで、部屋を出ようとして、鞄を忘れていたことに気がつく。慌てて取りに戻ると、白いビニール袋がそばにあるのに気がついた。フナキと言う男から貰った剣玉のことをすっかり忘れていた。
 そう言えばあの人、なんだか気になるようなことばかり言っていたっけ。
そう思うと、エリカはどうしてもフナキに会わなければならないような気がしてきた。どうせどこにも行き場所なんてないんだ。試しに行ってみても良いだろう。それに、たしかいつでも歓迎みたいなことを言っていたわけだし。
 腕時計で時間を確認すると、ショッピングセンターの専門店街の開店時間まであと少しだった。バスに乗っているうちに、定刻になるだろう。
 今度こそエリカは荷物をすべて持って、カラフルな小部屋を後にした。
 

 
 土曜日のショッピングセンターはありとあらゆる人々でごった返している。まだ開店から間のない時間であることを考慮しても、それでも十分に混雑している。特に夏の間は、いくらかでも陽射しが弱い早い時間帯に、人びとは何とかして用事を済ませたいと思う。
 フードコートの通路寄りの席で、制服姿の少女が一人座っている。周囲の席にあまり人はいない。さすがに、まだ何かを腹に入れるには早い時間帯なのだ。フードコートのすぐそばのテナントから、黒いエプロンをした眼鏡の男がひょこひょこと歩いてくる。男は自分の視線の先に思い描いていた姿を見つけると「おーい」と言って手を振った。彼女が顔を上げたのを合図のようにして、同じテーブルの椅子を引いて昨日のように正面に座る。
「昨日の今日でさっそく来てくれたんだね、エリカちゃん。今日は学校はお休みなのかな?土曜日だけど、講習とか、部活とかは」
「えっと、お休みってわけじゃあないんですけど」
「じゃあ自主休校というわけだね。洒落こんでるねえ。あ、別に責めてる訳じゃあないよ。勉強なんて、入り用だと思ったときに初めてやればいいのさ。そのくらいがちょうどいい。ところでせっかく会いに来てくれたわけだけど、今日の議題は何だい?」
 フナキは昨日と変わらないにこやかな顔で、彼女に尋ねる。
「えっと、特に……まあなんてこともないんですけど。フナキさんが、いつでも来ていいよっていってたから」
 そう言うと、制服のスカートのひだをいじるようにして、はにかんでみせる。フナキはその仕草に何か思うところあったのか「ふうん」と小さく鼻を鳴らした。
「てっきり僕は何か聞きたいことがあって来たのかと思ったんだけど、違うわけだ?」
「えっと、聞きたいことはありました。ううん、あったはずでした。でもなんだかここに座ったら急に忘れちゃって……きっとたいしたことじゃなかったんですね」
 そう言うと、エリカはちいさな紙コップから一口水を飲んだ。フードコートの中央に設置されたウォーターサーバーから汲んできた水だった。
「そっかあ。じゃ、しょーがないね。うん、そういう時もあるよ。ど忘れね、僕もたまにある。ていうかしょっちゅうあって、バイトの鈴木ちゃんによく怒られてる。ま、聞きたいことを思い出したらまたおいで。ほんとはもっときみと話してたいんだけどさ、ちょっと昼までに発注作業をやっちゃいたくって」
 フナキがそう言って立ち上がると、エリカも続けて立ちあがった。
「ゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、フナキさんと会ってお話するのだけが目的でしたから。お忙しいのに、お呼び立てしてすみません」
「いいってことさ。僕に会いたいときは、また店に電話ちょうだい」
 生真面目に頭を下げるエリカに、フナキは軽い様子で手を振った。そのまま店に戻りかけて、足を止める。
「ところでエリカちゃん、きみ素敵な黒髪だよね。結構長いけど、イメチェンしたりしないの」
 フナキのその言葉に、エリカは笑顔を向けた。
肩にかかった髪を、手で撫でる。背中まで届く長い髪が、手の動きに合わせてさらりと揺れた。
「気に入ってるんです、ロングヘア。小さいころからずっと同じ髪型なんですよ」
「そっか。似合ってるよ、それ」
「ありがとうございます」
 フナキはもう一度軽く手を上げた。エリカはそれに会釈で応える。
 二人は通路に出て、それぞれの方向に歩き出した。
 テーブルの上には、紙コップからこぼれた水滴だけが残った。
 

 
「席をはずしてるって、そんな」
 エリカはバス停のそばに設置されたベンチで、そうつぶやいた。カラオケ店を後にして、ショッピングセンター行きのバスを見つけて乗り込んだはいいが、万一フナキが今日休みを取っていたりしても困る。そう思ってショッピングセンターについてから、バス停のベンチに座ってフナキのいる駄菓子屋に電話をかけてみた。電話口には女性が出て(きっと鈴木というアルバイトだろう)「店長はただ今席をはずしております」と答えた。休みではないのが救いだったが、どういった要件をすませているのか、いつごろ会いに行くべきなのか予想が立たない。
 ひとまずは、もう少ししたらまた訪ねてみようと軽く見積もって、エリカはとりあえず今何をするべきかベンチで考えていた。
 見上げた空は、雲ひとつない青空だった。太陽が白く強い光を放っている。今日も一日暑くなりそうだった。エリカは制服の襟元を緩めて風を入れた。
 今日は家に戻れるだろうか。もし戻れないのだったら、今日は必ず汗を流せるようなところに泊まろう。エリカは髪の長い自分が講習を終えて、何気ない顔で自宅に帰るところを想像した。土曜日の家では、母が昼食を作って、父が車の手入れをして、それぞれにエリカの帰りを待っている。開いたドアの向こうにもう一人のエリカが吸い込まれていくところまで考えて、やめた。
 とにかくフナキに会って話をしよう、とエリカは思った。話はまずそれからだ。
 エリカのほかにバス停を利用する客は見当たらなかった。目の前の駐車場にはびっしりと車が並んでいる。週末の客層は主に家族連れだから、バスよりも自家用車のほうが混み合うのだ。エリカはビニール袋から少し残っていた駄菓子を取り出して食べた。以前は時間があるとつい携帯端末をいじっていたものだったが、昨日からはそれを止めていた。単にバッテリーを長持ちさせるためでもあったし、それ以上に、エリカの携帯端末からは、電話帳の情報や文字メッセージの履歴に至るまで、エリカ個人にまつわるほとんど全ての情報が消え失せていたからだ。残っているのは、害のないネットのブックマークやゲームのアプリケーションくらいのものだった。どんどん私が消えかけているんだ、とエリカは思った。それらの情報は今、もう一人のエリカの持つ端末にあるに違いない。
 エリカは学生鞄を開いた。中から何冊かの教科書と、今日提出するはずだったレポートを取り出す。教科書とレポートには、きちんと「竹本絵理花」と書いてあった。自分の名前だ。その文字を見ると、エリカは幾分ほっとすることが出来た。しかしその名前は、あくまでもエリカ自身が書きしるしたものだ。もしも誰かに、例えばそう、もう一人のエリカに「そんなの嘘でしょ。ただ自分で勝手に名前を書いただけじゃない。あなたがエリカだって言うのなら、それを証明してみせてよ」と言われたら、きっと答えに窮することだろう。なぜならエリカがエリカであるというたったひとつの証明は「エリカ以外にエリカと言う存在は存在しない」ということだったからだ。もう一人のエリカがいる以上、そしてそちらのエリカがもう世界に認識されている以上は、その証明は成り立たない。
 エリカは、自分の身体が透明になった気がした。二つの手を開いて、目の前に広げる。そこにあるのは、たしかに自分の手のひらだった。ベンチのそばをショッピングセンターの職員が通りかかって、エリカに「いらっしゃいませ」と挨拶をした。彼らに、世界に、エリカという存在は見えてはいるのだ、もちろん。でも名前を持たないモノを、なんと呼べばいい?何と定義すればいい?自分が自分でないとして、そうしたら、自分を失ってしまった私は一体何だというのか。もう一度、手にしていた教科書を見た。ほっそりした几帳面な字で書いてある「竹本絵理花」という名前。それは見れば見るほど、まるで全然知らない人の名前のように思えた。それは誰だっただろうか。どこにいる人?どうして私は、どうして私が、こんなものを持っているのだろう?
 そのとき、大きな音で電子音が鳴った。驚いて音の源流を捜すと、スカートの上で携帯端末が震えている。着信の知らせだった。非通知だったが、慌てていたために反射的に通話をつなぐ。
「も、もしもし」
「もしもし。竹本絵理花さんですか?」
 女性の声のようだった。ただし電波があまり良くないのか、音声にひどいノイズが混じって、声が上手く聞き取れない。
「えっと、はい、いえ――」
「え、違うんですか?あなた、竹本絵理花さんじゃないんですか?」
「いえ、その、はい、エリカです。私、竹本絵理花です」
「ああ良かった、あなた竹本絵理花さんなのね。どうもありがとう」
 通話口の向こうで鈴が鳴る小さな音がして、急に通話は切れた。あとには切断を示す信号音が、音の暗闇の中でどこまでも響いていた。耳障りなノイズが消え去って、エリカの頭の中は静寂に包まれた。
エリカは通話を切ると、ぽかんとベンチの背にもたれかかった。
 何だったんだろう、今の電話は。私かどうか確認するだけして切れてしまった。電話の向こうの人は、私に何を求めていたんだろう?おかげで名前を思い出したわけだけれど。
 そこでふと、エリカは自分が自分であるという意識を手放しかけていることに気がついた。慌てて大きく首を振る。
 手の中で、また端末が大きく震えた。さっきの人かもしれない。そう思って、エリカはすばやく通話をつないだ。
「もしもし、こちら竹本絵理花さんの携帯でよろしいですか」
 若い男性の声だった。その声は、どこかで聞き覚えがある。
「×××交番の塚と申します。昨日はありがとうございました。その件で、竹本さんにお伝えしたいことがあり、お電話させていただきました。失礼ですが、竹本さん今どちらにおられますか?」
「えっと、交番の近くの、ショッピングセンターです」
「そうですか。それでしたら、お忙しいところ大変恐縮なのですが、こちらまで来ていただくことはできますでしょうか」
「できると思います」
「御足労おかけして申し訳ありません。お待ちしております」
 それだけ言うと、電話はすぐに切れた。昨日一度会っただけの人物だったが、自分の少しでも知っている人間から電話がかかってきたということに、エリカは何となく安心した。それは、なんだかとても久しぶりな感覚だった。エリカは腕時計を見る。先ほど駄菓子屋に電話した時から、二十分ばかりの時間が経過していた。
 今店を訪ねていったところで、フナキが戻ってきているかどうかは分からない。きっともう少し時間を置いた方がいいだろう。
 エリカはそう考えた。そして、携帯端末を仕舞ってスクールバッグをよいしょと持ち上げると、交番に向かって歩き出した。
 

 
「お忙しいところすみません」
 エリカが交番の側まで来ると、塚警官は外で箒を持って玄関の掃除をしていた。陽当たりの良い立地のおかげで、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。風景の中にエリカの顔を見つけると、掃除道具を置いてきっちりと頭を下げた。
「こんにちは。忙しくはないので、大丈夫です」
「いえいえ、お手間を取らせてすみません。さあ、とりあえず中へどうぞ」
 促されて交番の中へ入ると、昨日と同じく、扇風機がぬるい空気をかき混ぜていた。強い日差しを遮るブラインドは半分まで閉められて、あと半分は開いたままになっている。外の様子を観察するためなのか、交番に来る人が拒絶を感じないようにという配慮だろうか。
 昨日のようにパイプ椅子を引いて座る。すると、また昨日と同じように、塚警官がエリカの正面に座った。ただひとつ違うところは、その手に白い紙袋を持っているところだった。
「さて、本日来ていただきましたのは、昨日竹本さんがこちらに届けていただいたお財布のことについてです」
 もちろん覚えていらっしゃいますね?と言うように、塚警官はエリカの目をのぞき込んだ。エリカは、昨日起こったあれやこれやで正直すっかり頭から飛んでいた。電話が来てようやく、頭にそんな事があったかなあと朧気な記憶として思い出した程度だったが、それを話してもしょうがない。なので、ええもちろん、というふうに、ひとつだけ大きく頷いた。
「それについて、ちょっと進展がありまして。そのご連絡だったのです。お財布は、持ち主の方が引取りにきました。昨日の夜のことです。昨日竹本さんが帰ってから持ち主の方と連絡が取れました。それで、仕事が終わってからということで、夜に引取りに来られたのです。個人情報なので持ち主の方について詳しい事はお教え出来ませんが、竹本さんの事をとても感謝しておられましたよ。よろしく伝えて欲しいとの事でした」
 机の上で指を組んで、塚警官は言った。エリカは「良かったです」と返した。そう言われるとなんだかほっとした気持ちになる。そのために呼び出されたのか、と一瞬思うが、そのくらいで交番まで呼び出すものだろうか?とも思う。塚警官は一拍間を置いて、机の上に先ほど手にしていた白い紙袋を乗せた。そんなに大きくはない。ちょっとした小物を買った時に入れてもらう様な大きさの袋だった。
「これは?」 
「お礼だそうです、落とし主の方から。もしよかったら拾ってくれた方に渡してくれないかと仰ったので、お預かりしました」
 エリカはその白い袋を改めて眺めてみた。ロゴマークも何もない、全くの無地だ。        
「これ、私がいただいてもいいんですか?」
 エリカがそう聞くと、塚警官はにこりと大きく笑顔になって「もちろんです」と答えた。
「ほかならぬ持ち主の方が、そうおっしゃっていったのですから。クッキーのようですよ。こういう仕事ですから本人の了解をいただいて少し袋をのぞかせていただきましたが、どうもそのようです」
 エリカは袋を手に取って、中をそっと覗いてみた。そこには、確かに有名メーカーのロゴが入った大きなクッキー缶がおさめられていた。
「というわけです。制服だけど、これから部活ですか?部活のみんなと一緒にいただくといいんじゃないかな」
 そう言われて、エリカは今日が土曜日だったことを思い出した。そもそもそれを考えてここまで出てきたはずなのに、なぜだかすっかり忘れていた。確かに、土曜日に制服を着ていれば、学校に行くのだと思われても無理はない。
「ありがとうございます。開けてみるのが楽しみです」
 エリカはそういって、紙袋を手に立ち上がった。紙袋は、思ったよりも随分と重い。そういえば昨日もこんなことがあったな、とエリカは通学バッグの中に仕舞った剣玉のことを考えた。
 気を付けて、と言って見送ってくれた塚警官に頭を下げて、エリカは歩き出した。今度こそ駄菓子屋に行ってみよう、と思った。今なら、フナキも戻ってきているかもしれない。



 
 土曜日のショッピングセンターはありとあらゆる人々でごった返している。開店からいくらかの時間が経過して、ピークとはまだまだ言えないまでも、混雑しているとは十分に言える状況だった。特に夏の間は、いくらかでも陽射しが弱い早い時間帯に、人びとは何とかして用事を済ませたいと思うものだ。流れていく人の波を見ながら、エリカはそう思った。
 入ってすぐのエスカレーターを使って、階層を順に上がっていく。三階に着いて、中央に向かって歩いていった。子供服の店や雑貨のテナントを通り過ぎて、駄菓子屋の看板が見えてくる。そこはいつもの週末の混雑はまだ始まっていなかったが、それでも小さい子供が親を連れだって、何人か買い物をしていた。
 レジをのぞくと、昨日フナキが「鈴木ちゃん」と呼んでいた女性が立って作業をしている。
「すみません、店長のフナキさんはいらっしゃいますか」
「少し前から席をはずしております。そろそろ戻ってくると思いますが……」
 鈴木はちらりと腕時計を見た。きっと、フナキが出て行ってからそれなりに時間が過ぎたと思っているのだろう。どうしたものかとエリカがレジで思案していると、通路の向こうから歩いてきたフナキに声をかけられた。
「おーエリカちゃんじゃないか。そろそろ来ると思ってたよ。さ、ちょっとお話をしよう。鈴木ちゃん、もうちょっとお店、よろしくー」
 おいでおいでと手を振るフナキに、エリカは鈴木の顔をちらりと見た。すると「気にしないでください」と一言だけ返される。クールな表情とは別に、その言い方は優しかった。エリカは彼女に頭を下げると、フナキが呼ぶほうへ速足で歩いて行った。
 フナキに手で示されるままに、エリカはフードコートのテーブル席に着く。そこには昨日と同じ光景が広がっていた。ただ違う点があるとすれば、空間に対する人数の多さの違いだった。今日は通路を行き交う人が多い。
「ところでエリカちゃん、それはなんだい?手に持ってる、白い袋は」とフナキが尋ねた。
「えっと、クッキーです。昨日帰り道でお財布を拾って、交番に届けたら、持ち主が見つかったってさっき連絡があって。それでその人から、お礼のクッキーだっていただきました」
「さっき?ふうん」
 少し興味深げに袋を眺めてから、まあいいやとでも言うように視線をぱっと離して、フナキはエリカに向き直った。
「それで。エリカちゃんは本日僕に何のお話があるのかな。見たところ、ちょっと疲れているみたいだけれど」
 そう言われて、エリカは反射的に頬に手をやった。カラオケ店で目を覚ました時ほどこわばってはいなかったが、それでも何となく、普段とは違う感触がした。
 エリカはフナキにこれまでのことを正直に言ったものかどうか迷った。どうして自分は昨日たまたま出会ったばかりの人物に、こんな妙なことを打ち明けようとしているのか、とも思った。けれど、現時点では、話せそうな人物は他にいない。
「変なことがあったんです。昨日、ここから帰るときに」
 エリカは顔を上げて、フナキの目を見る。
「変な話はだいたい好きだよ」
 フナキがテーブルの上で軽く手を広げてそう言ったので、エリカは言葉を続けることにした。
「自分に会ったんです。昔の自分に会いました。昨日の夜、家に帰ったら、昔の自分が先に帰ってたんです」 
 小馬鹿にされるか相手にされないか、どちらかではないかとエリカは踏んでいたが、不思議と、フナキは特にそういったふうもない。
「じゃあ宿はどうしたんだい?もしかして過去の自分と同衾したわけ?」 
「カラオケに泊まりました」
「お金は?」
「一晩過ごすくらいは持っていましたから。足りなくても、ATMで下ろせますし」
 フナキは「なるほどね」と言うと、どこから出したのか、テーブルの上に駄菓子をばら蒔いた。
「昨日のは全部食べた?」と聞かれて、エリカは頷く。
「そう、じゃあ遠慮なくお食べ」と言うやいなや、フナキは先に自分から手を伸ばした。
「ところでそのクッキーとかいうやつ、気になるね。ちょっと開けてみようよ」
「今ですか?」
「そう今」
 フナキは小さなサラミ棒のパッケージを剥きながら言う。エリカは少し迷ったが、駄菓子をご馳走になった手前断りにくかった。どうせ少し重たかったのだ、今フナキにおすそ分けしても、いや、むしろした方が軽くなるし都合がいいだろう。
 エリカは袋に手を入れて、クッキーの缶を引っ張り出した。円形の缶は、手にするとなおいっそう重たく感じられた。缶をテーブルの上に出すと、蓋の縁に爪を引っ掛けて開けた。
 なかには、札束がひとつ入っていた。一万円札の束だった。
 エリカは状況が一瞬よく分からなかった。目を疑うとか、そういう事さえなかった。今起こっていることが本当に何がなんだか、分からなかったのだ。
「なかなか洒落たクッキーじゃん。素敵だね!」
 フナキの楽しそうな声にようやくはっと息を飲んで、エリカは慌てて缶の蓋を閉めた。そして、今度は端を少しだけ持ち上げて、ほんの少しなかが見えるようにして、隙間からそっとのぞき込んだ。しかしそこにあったのはクッキーではなく、やはり札束だった。気のせいや見間違いではない。よく見ると、札束の下に紙が一枚挟まっていた。指を差し込んで引っ張り出すと「財布を拾ってくれた方へ」と書かれたメモが出てきた。そこには、財布を無くして非常に困っていた、これは拾ってくれた行為に対して自分からの感謝の気持ちであるから、何も言わずに受け取って欲しい、と万年筆のしっかりとした筆跡で書き付けてあった。
「良かったじゃないか。これでしばらく宿のお金について悩まなくっても良くなった」
 フナキのその声を聞き終わる前に、エリカは勢いよく席を立ち上がった。
「おや、どうしたの」
「返しに行くんです。交番に」
「どうして?」
「どうしてって……こんなの有り得ない。おかしいから。いくらお礼でも、こんなに、受け取れません。ていうか、これ明らかに変です」
「きっと受け取ってもらえないと思うけどなあ」
 フナキの言葉に、エリカは出しかけていた足を止める。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味さ」」
 フナキは相変わらず博愛主義を絵に描いたような爽やかな笑みを浮かべて、エリカを見ている。エリカはため息をひとつついて、一度立ち上がった席にもう一度腰を落ち着けた。
「昨日から気になってたんですけど、あなたは……フナキさんは、いったい何が言いたいんですか?何か知っているんですか?」
 フナキはテーブルの上で長い指を組み合わせて、エリカを見る。口元にはまだ微笑みが浮かんだままだったが、底の知れない視線は、エリカを何となく落ち着かない気持ちにさせた。フナキはエリカの言いようのない感情をすくい取るかのように話し始めた。
「ねえ、エリカちゃんは、過去に戻りたいって思った事はあるかい。いやこういう聞き方は狡いな。過去に戻りたいって思ったこと、あるよね。あるはずだ。……うん、大丈夫、何も言わなくていい。君の意識の表層がどう繕ったところで、キミが今更どう言ったところで、もうそれは事実になっちゃったんだよ。ていうかむしろ、エリカちゃんのその意識の取り繕いが、今回の事態を出現させたんだ。今の現実は、キミのせいだ。種明かしは、事の顛末は、つまりそういうことなんだ」
 フナキはエリカを真っ直ぐに見つめている。エリカは、周りの雑音が、薄いベールを隔てたようにいつの間にか遠くに感じられた。目の前のこの男性が何を言っているのか、わからない。
「ひとつずつ説明しよう。いいかい、人間には時間という概念がある。それは大きくわけて三つ。現在、過去、未来だ。過去は過ぎ去ってしまったものだし、未来はこれから行くところだ。だから実際に人間が生きているのは、現在だけということになる。百も承知で当然の話さ。ここまでは分かるね?
 さて、生き物にとって一番大切にすべき時間ってのは、そう、現在だ。だってさっき言ったように生きているのは現在しかない訳だから、当たり前だよね。現在の行動だけが、未来を決定していく。例を挙げるなら、そうだな、お腹がいっぱいだと言う幸福な未来を手にしたいなら、現在においしく食事を取らなきゃならない。でも夕飯作るのがめんどくさいな、かと言って店に買いに行くのもちょっとな、なんて思っていたら、もちろんお腹は膨れないよね。そして時間が経って、つまり未来になって、やっぱりお腹空いた、でももう寝る時間だしあの時ちゃんと食べておけばよかったーってなる。なんで自分はあの時食事をしなかったんだろう?どうしてだろう?なんて思ったところで、それはもうどうしようもないわけだ。言っちゃなんだけど全くの無駄でしかない。
 そうなんだけど、人間はその辺結構狡いからね、たまに「もしも過去に戻れたら」なんてことをつい考えちゃうわけ。ああ、あのとききちんと食事をとっていたなら、今頃幸福な気持ちでベッドにもぐりこんでいたのかも。そういえばこないだから無性にパスタが食べたいと思ってたんだっけ、コンビニに買いに行けばよかったなあ……とかね。過去になんて、戻れる訳ないのにね。いや、戻れないからこそそう思うのかな。戻れないからこそ、そこに夢を見る。あの時ああしていれば、現在はもっと変わっていたのかも、なんてね。それはひとつのロマンだ。死人に口なし、それと同じさ」
 フナキはキャンディの包み紙をちぎって、口に入れる。ソーダ味だ。パッケージの一部が黒く塗りつぶされている。クジ付きらしい。フナキはパッケージを器用に破いてひっくり返すと「ハズレ」と言ってテーブルの上に投げ捨てた。
「さて。過去を振り返ること自体は問題じゃない。過去の上に現在、未来が成り立っている以上、過去を無視しては生きられない。温故知新なんて言葉もある訳だしね。過去を知り未来を知る。うん、良い言葉だよ。
だけど、過去を振り返りすぎる人間も、たまーにいるんだよね。振り返ってばかりで、そこから先に進もうとしない。現在の自分の力じゃなくって、過去の自分にばっかし焦点をあてるんだよ。あのときああしていれば良かったのにってね。後ろを見てばっかりだ。過去の自分に夢を見て、羨ましがる。現在の自分を蔑ろにして。
 そんな人間はやがて、ひとつのポイントにたどり着く。そう、現実から逃げ出したくなるのさ。認めないんだ。こんなのは俺の現実じゃない!本物の現実は、どこかにあったはずだ!ってね。無いものばかりを追いかける。無いからこそ、追いかける。現実から逃げ出して。……と、そこまではいいんだけどね」
 いや、良くもないか?とすぐに呟きながら、フナキは口の中で大きなソーダキャンディを転がした。声が少しくぐもって聞こえる。
「だいたいの奴は過去と現実を勝手にメリーゴーランドしてるだけで済むんだけど、たまに、ほんとたまーになんだけど、真剣に過去との入れ替わりを考えすぎちゃって、過去の自分が図々しくも出張って来ちゃう事があるんだ。「ほんならウチが行きましょか」ってさ。もうわかったね。それが、今の君。エリカちゃんなんだ」
 フナキはテーブルの上の指をエリカの方に滑らせて、とんとん、と叩く。
「私、ですか?」エリカは言う。
「そうそう。そういうこと。キミは現実を投げ出して、過去に耽溺している。どうせ心当たり、あるんだろ?」 
 最後はほとんどぶっきらぼうに、吐き捨てるようにフナキは言った。爽やかな微笑みはなんとか崩すまいとしているようだったが、その努力が表情からあからさまに感じられて、エリカは逆に怯んだ。
 過去を振り返ること。過去の自分に、すがること。フナキが言うように、エリカには心当たりが、ない訳では無い。しかし、それをどうして昨日ここであったばかりの他人に責められなければならないのか。
 とにかく、エリカは話題の矛先を違う方向に押しのける。
「過去の自分が出張ってくるって、どういう事ですか?」
「過去っていうのは、無視された、というか叶えられなかった選択肢の積み重なりで構成されてるんだ。魚の卵の孵化と同じだよね。何億個と卵を産んで、そこから未来を目指して現実を泳いでいくのは一握りだ。孵らなかった残りの卵は、もうそこでおしまい。進み続ける未来において、過去の遺物として取り残される。
 そこでね。過去の遺物たちは、本当は過去の遺物になんかなりたくなかったのさ。そりゃそうだよね、誰だって、現実っていう表舞台に立って自分の足で歩いていきたいと思う。自分だって活躍したい、むしろ自分だったらもっとうまくやれるはず、とか思ってね。だから、この世のどこかで、おとなしく息を潜めて、虎視眈々と狙っているんだよ。表の人間が迎えた未来に満足出来ず、ああもうこの現実は嫌だ!って言い出す瞬間をね。現実に対する意欲が希薄になった時、そいつらはふっと現われる。そして背後からひっそり忍び寄って、いつの間にか寝首を掻っ切る。そして「本人」になる。後には、過去の自分に取って代わられた現実だけが残る。その現実から振り落とされたエリカちゃんは、どこぞの狭間の世界へ消えていく。そういう訳さ」
 フナキはそう言うと、わかったかな?とでも言いたげに、エリカの方に手を広げた。表情は、もうそれまでと同じ、爽やかな好青年のそれに戻っている。
「そんな事、急に言われても信じられません」とエリカは言った。
「昨日君が会った彼女は、エリカちゃんの勘違いだったとでも言うのかい」
「そう、それでいいです。私の見間違いでした。そういう事も、あるんだと思います」
「ふうん。僕はそれでもいいっちゃ良いけど。僕のいうことが信じられない?」
「だって……フナキさんは、どうしてその、もう一人の自分の存在のことを知っているんですか」
 疑問を疑問で返すのは反則だ。それは分かっていたことだったが、エリカはどうしても尋ねずにはいられなかった。この男性は、結局、何者なのだろう。そんなエリカにフナキは気を悪くした風もなく、笑って答える。
「種明かしをするとね。僕も昔、会ったことがあるんだよ。もう一人の、過去から来た「舟木伊作」にね。だからホントのことを言えば、僕だってエリカちゃんのことを鼻で笑えないんだ。脛の傷が疼くからね。でもだからこそ、僕は、同じ状況の君を見過ごせない」
 フナキは小さなジュースのポリチューブを手に取った。器用に前歯で先端を齧って、飲み始める。
「僕は昔もう一人の僕に出会って、命からがらこの現実に勝ち残った。その辺の詳しい背景は省かせてもらうね、悪いけど。僕にも一端の羞恥心てものがあるからさ。まあとにかく、結論として、なんだかんだで僕は僕のままで現実に留まったんだ。
 それから少しして、ある日駅のベンチに座って人と待ち合わせをしていた時だった。よく晴れた平日の朝だった。出勤ラッシュの人波のなかに、妙に周囲から浮いて見える人を見つけたんだ。いい歳のサラリーマンだった。あれ、なんだろうと思ってなんとなく目を離せずにいたら、その後をまるで尾けているみたいに、その人とほとんど同じ見た目の人が通り過ぎていったんだ。そいつは、手にカッターナイフを持っていた。
 僕は思わず危ない!って叫んだ。でもそこにいた何人かが不思議そうに振り向いただけで、そのおじさんは、何にも気づかず駅のホームに消えていった。自分の分身を引き連れたままにね。僕はその時思ったんだ。これは、あの時の僕と同じだぞってさ。直感的にそう感じたんだ。
 それからも、頻繁にではないけれど、そういう事がたびたびあった。年齢も性別も関係なく、過去の自分に追われている人たちがいた。どうやら、僕は自分がその体験をしたことによって、そういう人たちを見分ける才能っていうか、どうもそういうのがくっついちゃったみたいなんだよね。だから昨日、ここのテーブル席にエリカちゃんがぼんやり座っているのをたまたま見た時も一目でピンと来たんだ。おや!このお嬢さんは「あれ」だぞって。だから声を掛けた。僕に具体的に何が出来る訳じゃないけど、追っ手に気づかせてあげるくらいは出来るからさ。老婆心てやつだ」
「それが、あの、幸せかどうかっていう質問だった訳ですか」
「そうそう。目の前の現実を幸せだときちんと認識していれば、過去の自分なんかが入るスキはなくなっちゃうからね。それって、一番大事なことなんだよ」
 そう言って、フナキはプラスチックの椅子の背もたれに大儀そうに凭れた。大きくひとつ、息をつく。エリカも軽く椅子に凭れた。フードコートは賑わいを増して、通路を行き交う人々もその数をさらに増やしている。賑やかな店内放送が流れている。子どもを呼ぶ両親の声が聞こえる。誰かが誰かに囁く声。足音。そんな当たり前の光景が、エリカにはぐるぐると自分の周りを巡っている影絵のように感じた。自分だけが、その流れに乗れないまま、取り残されている。
「現実は、常にそれを求める者によって形を変える。柔らかいクッションが、座る姿勢によって形を変えるみたいにね。ほらデジャヴとかジャメビュなんてのがあるでしょ。それも実は、現実が変化していく過程の一つなんだよ。とりあえずは脳の錯覚だっていう風になっているけどね。
 例えばエリカちゃんが貰った百万円。それがそうだよ。キミはそのお金を駆使して、もう一人のエリカちゃんから逃げることが出来る。それこそがやつらの狙いなわけだよ。そうして時間を稼ぐとともに、徐々に現実から本体を遠ざけていく。要は罠さ。君は今、それをおかしいことだって思う気力がまだあった。でもその気力まで吸い取られてる人間は、容易に引っかかる。特にお金が絡んでくるとね。エリカちゃんも、これに限らずだけど、これからつい意識が現実から飛んじゃう事があるかもしれない」
 エリカはそう言われて、さっきのバス停での事を思い出した。確かにあの時、エリカが竹本絵理花であるという意識が、いつの間にか体の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。誰かから電話がかかって来なければ、竹本絵理花という意識は、現実の狭間の泥に沈んでしまっていたかも知れない。そう言えば、あの電話の相手は誰だったのだろう。
「フナキさん、さっき私に電話しましたか?」とエリカは聞いてみた。
「電話?ううん、エリカちゃんに電話はしなかったよ。ただし、エリカちゃんから電話はかかってきたけれどね」
「え?私が電話した時、フナキさんは今席を外してるって。鈴木さんがそう言って……」
 まさか。あることに気がついて、エリカは言葉に詰まる。
「そ。君が予想しているとおりさ。もう一人のエリカちゃんから、僕に電話がかかってきたんだ。結構いい根性しているよねえ、彼女。それとも、あれがもともとのエリカちゃんの性格なのかな」
「会ったんですか、もう一人の私に」
「うん。さすがの僕も電話越しの声だけじゃ判断がつかなくってね。本当にエリカちゃんだと思って、会ったんだ。会ったら一目でわかったよ。だって髪が長いんだもの」
 彼女がどうやって昨日出会ったばかりのフナキとエリカの繋がりを掴んだのかはわからない。エリカの知り合いだということで、周りの人間をも、彼女が作る現実に合わせて取り込もうとしたのだろう。事実、両親や学校の人間、そして落とし物の一件までもが新しい現実に合わせて塗り替えられていった。しかしフナキはそういうわけにいかなかったのだ。間違い探しの絵が、一度答えを見つけてしまうと、次からはどう見ても二つの絵の差異が気になってしまうように、根本から答えを知るフナキには、通用しなかった。
「エリカちゃん、髪が長いのも似合っていたけどね。あ、でももちろん今のおかっぱの方が素敵だよ。僕の好みに照らして言えば。昔のエリカちゃんは、髪が長かったんだね」
 フナキにそう言われて、エリカは反射的に襟足を撫でた。さらさらとした黒い髪が、手の甲を滑って、また肩の上に落ちる。
「伸ばしてたんです。長い髪が好きだったから。でも切ったんです。四月、高校に入学してから、すぐに」
「高校デビューって訳じゃ、なさそうだね」
「それなら良かったんですけど」
 エリカは微笑んだつもりだった。しかし頬の筋肉が硬直して、うまく持ち上がらなかった。うまく笑えないというのが、こんなに辛いものだっただろうか。
「違う自分になろうとしたんです。ある日から。絵を描くのを、やめた日から」
エリカは、言葉を続けた。
「私は小さい頃から絵が好きでした。見るのも描くのも好きだったけど、どっちかと言うと、描く方が好きでした。母が美大を出た人で、その影響もあったんだと思います。そういう人だったから、私が絵が好きになった事を随分喜んで、小学校に入る前から、近所でやっている絵画スクールに通わせてくれました。周りは大人の人ばっかりでした。でも、私は臆することなくスクールに通っていました。生徒の人たちはみんないい人たちだったし、私が子供という事もあって、みんな良くしてくれました。何より、絵をきちんと教わって描くのはとても楽しかったんです。
 絵を描く事は、私の何よりの宝物でした。それさえあれば生きていけるような気がしていました。私だけの大切な宝物だったんです。もちろん、当時は小さかったから、そこまできちんと考えた事は無かったですけど」
 エリカは息をついた。こうして誰かと話をするのは、ずいぶん久しぶりだ。
「私は中学に進んでもスクールに通いました。部活には入らずに。小さな学校だったので、部活の数がそれほど多くなかったんです。殆どは運動部でした。部活に入らなくても地域の活動に参加していれば、部活に所属したぶんの内申点は貰えるという事だったので、私は迷わず絵画スクールに通い続けることを選びました。スクールの先生に証明書を出してもらって、週に一度活動報告を学校に提出して、そんな感じで。その頃には、ぼちぼち絵画展で賞も取れるようになってきました。大きな賞では無かったけれど、例え佳作でも、入選でも、それは私にとって大きな励みでした。自分は絵を描いていていいんだなって思ったんです。ここで生きていてもいいんだなって。それは、私が私であることの証明でした」
 自分が思ったよりも長い話をしていることにふと気がついて、エリカはフナキに頭を下げた。
「つまらない話をしてすみません」
「そんなことないよ。先が気になる」
 フナキはそう言うと、先ほど自分が飲んでいたものと同じジュースをエリカに勧めた。エリカはそれを受け取って、先端を歯で毟る。過剰に甘いその味は、こわばった心をほっとさせた。
「進路を選ぶ頃になって、私は今の高校を選びました。先生の話で、ここの美術部が大会で何度か賞を取っている事を聞いたからです。腕試しというか、もう一段階高いところに登ってみたいと思ったんです。私立の学校でしたが、両親を説得して、受験勉強も必死でやりました。一応合格圏内ではあったんですが、それでも。
 私は無事に受かりました。両親はもちろん、絵画スクールの先生や生徒の人達もみんな喜んでくれました。良かったら、時間の隙間にでもまたスクールに通ってくれたら嬉しい、と言ってもらえました。私はスクールを辞めませんでした。今みたいに頻繁には通えなくても、部活と並行してやっていけたらいいと思ったんです。絵を描く事は、私の人生の一部になっていました。
 高校に入学して、部活案内で私は真っ先に美術部に行きました。入部届けも記入して持っていきました。もう確実に入部する気でいたから。部長さんに案内されて、美術室に向かいました。賞を取っているだけあって結構力を入れているみたいで、大きな部屋でした。どうぞって言われて、私は中に入りました。
 ドアを開けると、絵を描いていた部員みんなが、いっせいに私を見ました。大きなキャンパスの向こうから、何人もの目が、私を見ていました。私は怖くなりました。なんてところに来てしまったんだろうって」
「それは睨まれたとか、なぁにコイツぅ?って言う視線だったってことかい?」 
「いえ、違います。普通の視線なんです。私だって、立場が逆だったら、入ってきた人間を見つめるでしょう。反射的なものです。他意は無い。だから、結局私は、ビビったんです」
「場の雰囲気に?」
「と言うか、こんなに絵を描いている人間が、自分の他にもいるんだってことに」
 ふむ、と喉の奥を鳴らして、フナキは腕を組んだ。
「でも、エリカちゃんはもともとスクールに通っていた訳だよね?他にも絵を描いている人の姿を、小さい頃から見てきたんじゃないのかい?」
「それは私も思いました。でも考えてみれば、同世代の子が絵を描いている姿は、そんなに見てこなかったんです。スクールの人も大人ばかりだったし。もちろん周りに絵が好きだという子はいました。けれど、こう言っては何ですが、私ほど熱心に描いている人はいなかった」
 運が良かったのかもしれない、とエリカは思う。きっと生ぬるい、しあわせな環境にいたのだ。井の中のかわず。そういう言葉がある。もしももっと早い段階で広い世界を知っていたなら、もっと早くに絵に見切りを付けていたのかもしれない。
 膨らむだけ膨らんだ自尊心は、一番皮が薄くなった所で、外からの刺激によってパチンと弾けたのだ。
「つまらないプライドの話です」とエリカは言った。
「それは周りの人の絵が自分よりも上手かったから、という事かな?」
「それとは違います。それこそ、今までスクールにいて、自分よりずっとずっとうまい人の絵を長年見てきたわけですし。なんて言うか、自分みたいな人は沢山いるんだなあって思ったんです。絵は自分だけのものだって、絵があるから自分は自分なんだって信じて一心不乱に走ってきたのが、躓いちゃった。自分だけのものだって信じて大切にしてきたものが、いざ周りを見渡してみると、それってどこにでもあって、本当は別にどうってことないものだったんです」
 今から思えば、一心不乱に絵を描いていた時の無敵の感覚はどこから湧いていたんだろう、とエリカは思う。私はこれさえあれば、そう思っていたのは、自分だけでは無かったのに。たったひとつしか存在しないものなんて、この現実にはないと言うのに。
「私はスクールにも行かなくなりました。思えば、当然ですけど、大人の生徒さん達だって、絵を自分の宝物にしていた人たちなんです。別に私だけが特別な人間じゃない。描くことに選ばれた人間じゃない。結局は、私みたいな人なんてどこにでもいたんです。はじめから。なんで今までそれに気が付かなかったんだろう。そう思って、何となく行かなくなりました」
「結局部活はどうしたの?」
「書道部に入りました。美術部の入部体験のあとに書道室に寄って、そのまま入部を決めました。次の日には、髪を切りました。なんていうか、もう違う自分になりたかったんです。いままでの自分とは」
 書道室は美術室の近くにある。部活をしていると、美術部の活動の様子が開け放ったドアから見えることがある。結局そういう環境の部活を選んだ自分自身にも、エリカは歯がゆくて仕方なかった。けれど、そこまで言う必要はない。
「書道部もそれなりに楽しいですよ」
「でも、それなりなんだね」
 フナキは言う。その言葉に、エリカは口を噤んだ。そこに言い返す言葉は、見つからなかった。
「未練がある訳だね、絵を諦めた自分に。なるほど、だから過去が出しゃばってきた訳だ。ふうん、これで理屈は分かった。でもさ、だったらまた絵を描いてみればいいじゃない。「私、一度止めちゃったけど、また絵を描きまぁす!私には、絵が必要なの!」って別に誰に宣言する必要もない訳だし」
 フナキは長い腕を伸ばして、一度大きく伸びをした。
「駄目?」
 エリカは首を振った。おかっぱの髪が、さらさらと揺れて頬をくすぐった。
「ううん、でも、もういいんです。絵の事は。自分でもう、決着が付いたから。フナキさんに今お話して、なんだかんだかかなりスッキリしました。私は、もう絵は描かなくてもいいんです」
「もう一人のエリカちゃんの事はどうするつもり?」
「どうもしません。私がもう過去に未練がないってわかったら、多分消えてくれますよね?例え彼女と刺し違っても、まあそれはそれです。きっと私、そういう運命だったんですよ」
「運命ねえ。便利な言葉を使うよね」
 フナキはふんと鼻で笑うと、再び大きく伸びをした。もう話は終わったというように。
「ま、ね、エリカちゃんがそれでイイってんなら、僕としては何もいうことは無いよ。うん、パーフェクトワールド。完結した世界だから。悪かったね、ずいぶん余分なことを言ったみたいだ」
「そんな事ありません。私も、フナキさんとお話出来て良かった。なんたって私のことですから、きっと私でなんとかできます。ありがとう」
 エリカは立ち上がる。一拍の間を置いてから、フナキもよっこいしょと立ち上がった。
「そうそう、剣玉はまだ持ってる?昨日お菓子と一緒にあげたヤツ」
「鞄に入れてます。もし亀でさえ、まだできないけど」
 エリカは学生鞄を撫でた。そこに、ビニールの袋に包まれて、古めかしい剣玉が仕舞われている。
「もしもし亀よ亀さんよ、どうしてそんなにのろいのか、か。別にほっとけよってカンジだよね。まあいいや、それ、一応まだ大事に持っといてね」
「貴重なものなんですか?」
「別に。なんていうか、護身用だから」
「護身用?」
「剣と玉だからね」
 それだけ言うと、じゃね、とフナキは大きく手を振って歩き出した。
 ぼんやりとそれを見送るエリカと、いくつかの駄菓子の抜け殻が、テーブルに取り残された。
 

 
 バスを降りて、住宅街に入る角を曲がる。公園を突っ切って道のりをショートカットする。狭い道を抜けると、すぐに団地の入り口に着いた。
家々はみんな、天気のいい土曜のまひるだというのに、ひっそりと、示し合わせたかのように声を潜めている。それは一見不自然な光景に見えるが、郊外の住宅街ではごくありふれた風景だった。比較的若い核家族の家庭が多く、土曜日は午後まで寝ているか、反対に早起きをして、とっくに遊びに行ってしまっている。団地の住人であるエリカでさえ、たまにふと「今この瞬間この団地には私以外誰もいないんじゃないか」と考え込んでしまう時がある。
 だから、角を曲がった先、家へ繋がる道路の始点に立った時、向こうのほうにひとり誰か立っているのを見た時、一瞬驚いた。その驚きが長く続かなかったのは、その人影の全体像を把握した時に、それが知っている人物だったからだ。
 それは自分だった。エリカだ。昨日の夜、公園のすぐそばで見たのと同じ姿だ。
 黒い長い髪が、鮮やかな夏の風景の中で一点の染みのように目立つ。今日は制服に赤い絵の具はついていない。おろしたばかりのような、眩しい夏の制服。あれだけの絵の具、よくシミが残らなかったな、と感心した。もしかしたらクリーニングに出したのかもしれない。それはそうだ、あんなに盛大に血のような赤で汚れていたら、学校で当然目立ってしまうだろう。
 エリカはまるで独り言でもつぶやくように、ただぼんやりとそういったようなことを考えていた。考える、というのは正しくないかもしれない。ただ頭の中に、断片的なイメージがぷかぷかと浮かんでいただけだ。そういえば、向こう側からゆっくりとやってくるエリカは、講習はどうしたのだろう。朝の出席確認のほかに、講習ごとにも出席を取るはずだ。ほかのことはさほどでもないのに、妙に出席率にだけは厳しい学校だ。適当なごまかしで、さぼれることはないと思うのだけれど。
 エリカの断片的な思考が、連続した夏の景色をかしゃんかしゃんとシャッターを切るようにコマ送りする。におい立つような緑に萌える木々が、団地を吹き抜けるぬるい風に音もなく揺れる。一際高い木から、ちいさな鳥が一鳴きして飛び立った。穏やかな風景だった。目の眩みそうなありふれた風景の中を、一歩一歩、コマ送りでもう一人のエリカが近づいてくる。無限に分断される意識の、まるでフィルムを追いかけるように、それは向こうからやってくる。かしゃん。かしゃん。フィルムが進むように。ゆっくりと。そんなに急いているようには見えない。それは自信なのだろうか。もう逃がさない、一撃で仕留められる、と。仕留めると言えば、そうだ。彼女は、偽の、今からきっと「本物」になるエリカは、彼女の姿をただぼんやりと道端で見つめているエリカを、この現実から消し去ろうとしているのだ。そうして自分が、現実となる。
 眼を射るような白さのブラウスから伸びる腕には、包丁が握られている。魚を切り落とすような、頑丈な作りの実務的な包丁だ。包丁だって、まさか自分が生きている人間を殺傷するために用いられるだろうとは思っていなかったに違いない。もしもエリカが包丁だったら、例えば今この現実から消え失せて、来世が魚切り包丁になったとしたら、間違ってもそんな用途には使って欲しくない。
 くすんだ青のスカートに、ぎらつく刃のコントラストが、不思議と美しい。けれどそれは穏やかな夏の午後の風景には一切溶け込んでおらず、風景の全体を眺めると、その部分だけ切り取られたかのように、くっきりと浮いて見える。それはまるで景色自身がその存在を拒絶しているかのようだった。風が通り過ぎて、山際のこんもりとした緑が揺れる。ざわざわと、なにか警告のように。陽の光が、揺れる濃い緑の葉に適切に降り注ぎ、きらきらとしたモザイクを作って空中に散らす。
 もうひとりのエリカのローファーが乾ききった石畳を踏みしめる音が、一定のリズムで耳に入る。長い髪の毛が、邪魔そうに踊る。ワンピースに見えるツーピースの制服、揺れるスカーフ。その上の口元は、笑っている。にっこりと弧を描く唇。いつかの、学校からの帰り道に見上げた三日月のようだ。一歩、一歩。砂を噛んだ音が聞こえる。それは自分の足元からだった。エリカのローファーが、少しだけ後ろに下がって、石畳を踏み付ける。いつの間にか強く握りしめていた手が、汗まみれになっていた。もう少し、今度は反対の足が後ずさる。距離を取ろうとしている。エリカは、まるで現国の朗読でもするかのように、今この事態を文章に変換して、頭の中で読み上げていた。どういう状況なのかをきちんと把握しておきたいのかもしれない。自分が、今目の前の自分になろうとしているものの手によって殺されようとしている、この状況を。
 背中を汗のようなものがさっと走る。日照りの暑さからくるものとは別の何かを感じた。……怖いのかな。エリカは考えた。怖い。そう、たしかに怖い。エリカは心の中で頷いた後、一歩一歩近づいてくるエリカを見つめる。包丁を見つめる。エリカは、エリカを見ても、特に怖いとは思わなかった。そこには、ただひたすらに自分は殺されるのだという実感だけが、透明なグラスの底に溜まるおりのようにただ静かにあった。恐怖を感じたのは、包丁を見てからだった。太陽の光を強く反射させる、刃先。その恐怖は圧倒的だった。ビルの上から飛び降りた者は、地面で砕ける前にその途中で恐怖によって既に死亡すると聞く。それに近かった。手をかけられる前に、恐怖で死んでしまえるかもしれない。
 そこまで考えて、エリカは、自分自身の心の底にあるものを見た気がした。私は、別に死ぬのが怖い訳では無いんだ。死ぬのが、殺されるのが、怖いわけじゃない。まして、自分が別の自分に取って代わられるなんて、塵ほども気にしてなんかいない。怖いと思っているのは、包丁に切り裂かれる時の痛みだとか、そういうのだ。
 気がついて、ふと視線を包丁から引き離し、空中に遊ばせてみる。まぶたをとろりと半分落として、風景をぼんやりとにじませてみる。すると、一気にこわばっていた身体が楽になった。ふっと、力が自然に抜けていった。これが証拠だ。私が怖がっているのは、刃物「だけ」なんだ。つまり、この現実から消えること自体は、死ぬこと自体は、ぜんぜん怖がっていない。
 滲んだ世界をぼんやり眺めていると、気持ちが穏やかになった。どんどんエリカとの距離は縮まっているが、今はもうなんとも思わなかった。
 自分が殺されてもいいと思っているなんて、それが本心だったなんて、エリカはもちろん驚いた。しかしそれ以上に、どうしてもああ、やっぱりなと思った。むしろそんな納得の方が大きすぎて、小さな驚きは霞んでいるみたいだった。どうしてだろう?いつからそんなふうになってしまったのだろう。
 真夏の風景に、薄暗い室内の風景がザッピングする。こわれたテレビみたいに。薄暗い室内は、高校の美術室だ。初めて入った時の、油絵具の独特の粘り気のある匂い。足を踏み入れたその時の、中にいた全員が一気に自分を見つめた瞬間。怯んでしまったのだ。視線にではない。独特の空気にではない。それは、おそらく自分の中の大事な何かが、普遍的なものになってしまうことへの恐怖だ。大切にずっと持っていた何かが、自分だけのものだと思っていた何かが、白日にさらされる恐怖。思い出のアルバムが、光の下でいつか近いうちにボロボロになって色あせてしまうことへの恐怖。だから、あの日から遠ざかったのだ。大切なものを守るために。また、自分だけの、大切な宝物にするために。
 でももうそれは、手垢にまみれた陳腐なものにしかもう見えなかった。それは、白日の元に晒されたのだ。しっかりと封を解かれて。もう、前と同じように輝いては見えなかった。白日の元で見たそれは、手垢にまみれた何の変哲のない、きたないものでしかなかった。
 そのようにしてエリカは、大切だったものを蹴飛ばして、逃げ出した。サイコロは既に振られてしまったのだ。
 エリカは逃げる。逃げたいと思う。この現実から。例え自分が、いなくなってしまっても。
 目の前で刃物を携えて笑う竹本絵理花は、向こう岸へ渡ろうとしている時に差し出される船のようなもの。船に身を任せてしまえば、あとにしたもののことなんて、考えなくっても構わないのだ。それは、今のエリカには、少し楽しそうに見える。
 陽炎のように、風景が揺らぐ。一歩一歩近づいてくる彼女の身体が揺れて、本当に楽しそうに見える。本当に楽しいんだろうな、とエリカは思う。羨ましいな。ああいうふうに楽しそうに、生きていられたら。そう考えると、ほんの少しだけ、現実から消えるのが惜しい気がした。
 あと数メートルの距離までたどり着いたもうひとりのエリカは、一度前触れもなく立ち止まる。そして何も言わずに、口元だけで満面の笑みを浮かべる。それはエリカ本人が見たことないほど、口角を大きく吊り上げて。そして一瞬の間を置いて、駆け出す。一直線に、周りの風景を切り捨てて。
 一定のリズムで道を蹴る音が、誰もいない住宅街の通りに響く。その音を聞いて、エリカは体育の授業の校庭マラソンを思い出した。乾いたグラウンドをスニーカーが蹴り上げる音。細かい砂埃が煙のように撒きあがる。急ぐことも慌てることもない、一定のきちんとしたリズム。制服のスカートが、人工的な風をはらんで揺れる。向けられた切っ先は、銀色に白い光を反射して、エリカの目を射った。まぶしさに、眼球の奥が痛んだ。それでも、身体は動かなかった。具体的なイメージなんて浮かばない。ただ、エリカともう一人のエリカは、刺すものと刺されるものとしてそこに存在していた。
 笑うエリカが、包丁を握る手の力を強めたのがわかる。あと少しだ。
 彼女は、本当に楽しそうに笑う。これ以上にうれしいことはないというように。そりゃあそうなんだろうな、とエリカは思った。彼女は、現実を手に入れるのだ。望んでいたものを。エリカはふと、近づいてくる彼女の背景、何の変哲もない風景に目が行った。穏やかな夏の昼下がりだ。家々の窓は、こうも日照りだというのに、二階までぴったりと閉じられている。住人が不在なら、それもしょうがないか。そう思いかけて、考え直す。フナキが言っていたではないか。現実が揺らぎ始めているのだと。現実は、現実をあきらめたエリカから、新しい住人である別のエリカに合わせて、シフトしていっているのだと。それは簡単に言えば、この現実はもう一人のエリカの味方をしている、ということだ。例えば、出席にだけは厳しい学校をさぼっても、別段問題なさそうなことだとか。夏の暑い昼下がりに、どこの家も都合よく出払っている上に、窓さえ開いていないことだとか。さっきから、人も、車も、自転車さえ通らない。そういうことなのだ。
 エリカは目を閉じた。瞼の上に、太陽の光が降り注いだ。そのあたたかさは、最後に与えられた祝福のように思えた。ぬるい風が、頬の細かい産毛を撫でていく。乾ききった土の匂い。エリカは、目を閉じているにもかかわらず、今のこの風景のことを素敵だと思った。それは、生まれてきてから全く初めての体験だった。肌全体で、体そのもので、風景を感じることができた。エリカはいつの間にか微笑んでいた。この風景の中で、この現実の中で生きてきて、エリカは間違いなく、幸せだった。
 
 駆けてくる音が一層大きくなる。けれど、もうそれはエリカには現実から切り離された出来事のように思えた。いや、切り離されているのは、出来事ではなく、自分なのだ。
 
 そのとき、予期していなかった感覚がエリカを襲った。
 鼻先を、鋭い速さでふわふわとした感触がかすめていった。
 
 強烈な痛覚を予測していたから、エリカは面食らった。そして思わず両目を開ける。
 二歩ほど離れた目の前で、もう一人のエリカが手に包丁を握ったまま、立ち尽くしていた。その口元に、目を閉じる前最後に見た様な笑みは消えて、今は二つの目を大きく見開いて硬直している。エリカは慌てて彼女の視線の先を追った。
 そこにいたのは、キジトラ模様の猫だった。大柄な猫が、太い尻尾を落ち着かなく左右に振って、エリカの前に佇んでいる。虫の居所でも悪いのか、しっぽが威嚇をするように神経質に膨らんでいる。エリカに背を向けて立っているからその表情は伺えないが、あまり刺激してはいけないような雰囲気だった。もうひとりのエリカがほんの少しだけ、後ずさる。居心地の悪い距離なのだ。猫が彼女の方へ踏み出そうとした直後、ドアが勢いよく開く音が聞こえた。
「ばぁば、ねこがいる!」
 通りに響いたのは、子供の声だった。エリカの立つすぐそばの家のドアが開いて、小さな男の子が日差しの下に顔を出した。よれよれの薄いTシャツを着て、短い髪の毛はあっちこっちに元気よくはねている。もしかしたら、昼寝をしていたのかもしれない。男の子は猫を指さす。エリカの視界の端で、何かがきらりと光って消えた。目の前のエリカが、男の子の視界から包丁をさっと隠したのだ。包丁は、彼の死角になるように彼女の後ろ手に回されている。猫を囲んで人がいるということに驚いたのか、男の子は、にゃん、といったまま、猫に向けていた視線をエリカに向けた。目が合う。黒い丸い瞳が、エリカと、彼女を含むその風景とを見ている。
 一瞬の間ののち、もう一人のエリカが駆け出した。やってきた方向に、包丁を手に持ったままエリカに背を向けて全速力で遠ざかっていく。銀色の光が時折ちらちらと反射して、まるで幻を見ているようだった。
 その場には男の子と、エリカと、猫とが残された。
 
 駆けていく音が遠ざかったとき、どこかでドアが開いた。男の子の後ろのドアだった。
「たっくん、何してるの。ベッド見てもいなかったから、ばぁばびっくりしたよ」
 中から出てきたのは、年配の女性だった。薄い前掛けをして、化粧が少し崩れている。彼女はドアの前で立ち尽くす男の子を見て、さらに彼の目線の先にいるエリカを見た。エリカは、今度は彼女と目が合う。足元にさらりとした、柔らかい感触を感じた。見ると、先ほどの猫が、人懐こくエリカの脚に体を寄せていた。
「ねこ見てたの」
 男の子が、振り返って女性に言った。女性は、その言葉にはじめて猫の存在に気がついたようで、エリカの足元に佇む猫を見て「あらほんと」と言った。
「おねえちゃんのねこ?」と男の子が言う。
 エリカは反射的に首を振った。猫はエリカのローファーに片足をつき、不遜な態度でエリカを見上げている。撫でてやろうかと屈みかけると、どこかで小さく鈴が鳴った。猫はその音を聞くとぱっと走り出し、道路を横切ってどこかへ行ってしまった。
 呆然と猫が走り去った道を見つめていると、その向こうから自転車がゆっくりとやってきた。「こんにちはー」と男の子に手をやりながら、祖母の女性が、乗っていた年配の男性に声をかける。男性はそれに気づくと、「暑いですねえ」と車輪の動きはそのままに、軽く会釈をして笑う。
 反対側から荒い息が聞こえた。毛の長い大きな犬が、飼い主に連れられて息を切らしながら散歩をしていた。向こうの家で二階の窓が開けられた。別の家では玄関ドアが開けられ、遅い昼食の香りがふわりと風に乗ってエリカの鼻をくすぐった。ぬるい風が、道路の向こうから一気に吹き上げて、エリカの切りそろえられた前髪を散らして去っていった。
「ねこかわいかったね」と声を掛けられて、エリカは男の子を見る。くしゃくしゃ髪の小さな顔が、黒い瞳をくりくりと光らせて、エリカのことを見つめていた。彼の背後の開け放たれたドアの向こうから、FMラジオの音が小さく掠れて聞こえていた。
「そうだね」と返すと、男の子はくるりと身をひるがえして、家の中へ消えていった。まるでさっきの猫みたいに。
 
 前髪を手で整えながら、エリカは目の前の風景をぐるりと見渡した。道路わきの道端で話し込む女性たち、小さな庭先で水遊びをはじめる幼いこども。散歩途中の男性に、小型犬を連れた女性が話しかけている。街路樹の葉が揺れて、見上げると、小さな鳥が何羽か高い声で鳴いて信号を送っていた。
 何の変哲もない、夏の午後の住宅街だった。
 

 
 そう言えばまた鈴の音だ。
 エリカはバスに揺られながら、さっきの出来事について考えていた。
 鈴の音。そして、どこからか急に飛び出してきた猫。昨日の夜、はじめてもう一人のエリカに出会った時も鈴の音がした。こわばって固まっていた体が、その音で目が覚めたように、突然動かせるようになったのだ。そして今朝、竹本絵理花の名前を尋ねる電話口の向こうでも鈴が聞こえた。
 誰かが私を見ているのだろうか。とエリカは思った。誰かが、私を助けてくれようとしている。でも一体誰だろう?
 考えられるとすれば唯一、事情を知るフナキだった。でも気になるのは、昼前に話をした時、僕は電話をしていないと言っていた事だ。一連の流れには鈴の音が関係している。とするときっと、助けてくれているのは、一人の人間なのだ。フナキでは無いとすると、誰だろうか。
 それにさっきの猫、とエリカは考える。大きなキジトラの猫。落ち着いてから今まで、どうもどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。エリカは今まで猫を飼ったことがない。どちらかと言えば猫好きなのだが、父親がアレルギー持ちで飼えないのだ。
 しかしキジトラの猫なんて、別にどこにでもいるだろう。猫に一番多い柄なのだとどこかで聞いたことがある。小さい頃に家の周りで見た野良猫に似ているだとか、きっとそういうオチだろう。
 小さい頃。自分で考えたその言葉に、不意にエリカは引っかかった。
小さい頃?小さい頃、猫と何かあったっけ?
 しばらく考えて、首を振った。だめだ、思い出せない。
バスの車内放送が鳴って、次の停留所が近い事を知らせた。ショッピングセンター前。本日二度目の来店だった。
 エリカはもう一度フナキに会うつもりだった。会って聞くつもりだった。正直に、私を助けてくれているのは、あなたですか、と。いや、例えそれがフナキじゃなかったとしても、誰かが、おそらくエリカがこの現実にとどまり続けることを望んでいるのだ。エリカが消えてしまうことを悲しむ誰かが、この現実にいる。エリカは、その誰かの事を考えると、なんだかこの世界から消えてしまうのが惜しくなった。どんな理由かは分からないが、エリカのことを必要としてくれる人間が、この現実のどこかに確実にいるのだ。
 誰かが必要としてくれているから、現実に留まろうと思う。なんて感傷的。なんてロマンチックなのだろう。エリカは妙におかしくなって、くすくすと笑った。バスの中にはエリカの他に乗客はいないから、何をしようが誰に何を言われることもない。
 でも、なんだか違う気がするな。とエリカは考えた。
ロマンチックだろうとロマンチックじゃなかろうと、この現実に留まろうと考えているのは、結局自分自身なのだ。例えば同じ状況で「うるさい私の邪魔をするな」と言ってしまっても良かったのだ。ふと、エリカはその事実に思い当たる。
 エリカは、自分の目の前に、改めてたくさんの道が広がっていることに気がついた。例えば今フナキに会いに行こうとしているのも、沢山広がる道の一つだ。「なんだ変なヤツ」と思って、フナキの事を一笑に伏すことだって出来るのだ。それをそうしなかったのは、他でもない、エリカ自身がそれを選んだから。フナキの言う事を信じて、もう一度会ってみようと思ったのは、エリカ自身の選択の結果だ。
 選択。そう、選択ね。エリカは思う。
 ブザーを鳴らして、エリカはバスを止める。バスは次第に失速して停車し、停留所でエリカを下ろした。駐車場の満員御礼状態に比べて、バス停は相変わらず人けがなく静かだ。
 現在の上に未来が、そして過去の上に現在が成り立ってるって、フナキさんは言ったっけ。だとしたら、私が今こうしてもう一人の私と対峙しているのも、やっぱり私の選択の結果でしかないんだ。
いや、ううん、そうじゃない。選択はきっと、いつだって間違ってない。と言うより、間違いかどうかなんて、後からじゃないと分からないんだ。例え未来から過去を見つめてああ失敗したなって思っても、現在が未来に繋がる以上、現時点で何度でも選び直せるんだ。軌道を、自分が行きたい方に向けて、修正する事は出来るんだ。

 エリカはエスカレーターを使って、上のフロアを目指す。二つ目のエスカレーターを上がると、すぐそばにフードコートが広がっている。夕方になってピーク時の賑わいこそないが、それでも十分過ぎるくらいに人で埋まっていた。これは、座って長話は出来なさそうだ。でも構わないや、とエリカは思った。言いたい事は、もう決まっているから。
 通路を歩いて、フードコートのそばのテナント「駄菓子のびいどろ」までたどり着く。店の前で商品補充をしていた鈴木に声をかけると、店長ですか、と挨拶抜きで返された。きっと有能なアルバイトなのだろう。呼んでもらおうとしたその時、レジの方から「エリカちゃん」と声がかかった。
「たびたびすみません」
「先ほどぶりだね。まだ何か、話足りないかい?」
「全然お話、足りていませんでした」
 エリカのその言葉に、フナキのレジを打っていた手が止まる。待っていた子どものお客に急かされて、フナキは慌ててレジを再開した。
「剣玉の使い方、教えてください」
 エリカは言う。フナキは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの爽やかな笑顔に戻った。それは、今までの笑顔より、ずっと楽しげに見えた。
「そうこなくっちゃ!」
 その声を聞いて、アルバイトの鈴木が何も言わずにレジに回る。フナキが何か言う前に、「行ってらっしゃいませ」とすました顔で声をかけた。その様子を見て、エリカは笑った。
ふたりは店のそば、吹き抜けを見下ろす手すりに凭れて話した。立ち話だったが、どうせエリカは短く切り上げるつもりだった。これ以上フナキの邪魔を出来ないという事もあったし、それに、もう歩く道は決まったのだ。後は、歩き方を知るだけ。
「手短に聞きます。フナキさんは剣玉を護身用だって言いましたね。それってきっと、もう一人の私に関わる事ですね?」
「ピンポン、お察しのとおりさ」
「でもどうして剣玉なんですか?あの子は包丁を持っていました。刃物に、剣玉で対処出来るんですか?」
「むしろ、剣玉でなければ対処できないのさ。エリカちゃん、現実はまだ君のものなんだ。もう一人のエリカちゃんは、侵食してきつつあるけど、まだ幻想の存在でしかない。現実のものを傷つけるには、現実にある刃物を使う。でも、幻想はそうはいかない。幽霊が包丁で切れないようにね。だから剣玉なんだ。剣と玉。幻想には、幻想の剣と玉で立ち向かう。まあホントかいなって思う気持ちももちろん、痛いくらいにわかるんだけど……だからこそ、エリカちゃんのお心に縋るしかないんだけどね。この舟木伊作を、信じてくれるかい?」 
「信じます、私。フナキさんのこと」
 信じているから、信じたかったからこそ、もう一度ここに足を運んだのだ。即答したエリカに、フナキはありがとう、と言って笑う。
「今までの経験から言って、人によって若干条件は違うけど、もう一人の存在について分かっていることが三つある。一つは、現実の武器では対処出来ないということ。二つは、時間が経つにつれて、こちらが対抗しない限り、どんどん相手に合わせて現実が作り替えられていくということ。三つは、もう一人の存在を消し去るには、本人自身が対峙するしかないということ。見たところ、こう言っちゃなんだけど、もう一人のエリカちゃんは、結構神経が太いみたいだ。エリカちゃん、大丈夫かい?」
 珍しく心配そうな言葉尻だった。薄い眼鏡の向こうで、フナキが真っ直ぐにエリカを見つめている。
だから、エリカは正直に答える。
「わかりません。でも、きっと大丈夫。大丈夫になるように、努力する事は出来るから」
 その言葉を聞いて、フナキは満足そうに微笑んだ。その言葉が聞きたかった、というふうに。
「よし来た。じゃあとにかく、今日はこれからもう日が暮れるだけだから、行動を明日に移した方がいい。明日朝起きたら、なるべく人けがなくて、静かな場所に行くこと。正直言って何が起こるとも限らないからね。街外れの県令邸は知っているね?市の建築文化財の」
「知ってます。小学生の頃、遠足で行きました」
「ならいいや。あそこは文化財のくせに基本時間内なら人の出入りが自由だからね。特に受付なんかもないし。そんなにホットなスポットでもないから、午前中なら見に来る人間もあまりいないだろう。そこに行くんだ。どこであれ、君がいる場所に、必ず相手はやって来る。それでいいかい?」
「わかりました。明日になって、開館時間が来たらすぐに行きます」
「健闘を祈るよ。ところで急にどうしたんだい?イヤにやる気が出たじゃないか」
 フナキはおどけたように茶化して言う。エリカは、それに笑って答えた。
「別に。ちょっとこの現実に興味が出てきたんです。かわいい猫を見つけたものだから」
 なんだそりゃ、と言って、フナキは笑った。
 
 エリカは、あの時の猫の姿を目に浮かべた。そして、やっと思い出す。
 エリカが小さかったころ、絵画スクールに入って一番初めに描いたのは、キジトラの、大きな猫の絵だった。
 

日曜日


 まだ昼前だというのに、夏のさかりの太陽は、容赦なく辺りを照りつけていた。額に浮いた汗を拭う。あまり汗をかいていないつもりだったが、一度拭っただけで、手の甲はびしょびしょになった。
 エリカは乗り継いだバスを降りて、県令邸へ向かう最後の道のりを歩いていた。夏用の制服に、学生鞄。鞄の中には、剣玉が入っている。百万円は、昨日の夜交番に返しに行った。交番なのに何故か灯りは消えていて「御用の方はこちらまで」と書かれたポストのような物が入り口に置いてあった。さすがに缶ごとは入らなかったから、札束だけをそっと中に滑り込ませておいた。フナキは受け取ってもらえないはず、と言っていたが、こうしてうまく処理ができたのだ。どうやら現実は、案外エリカの側に傾いてきているのかもしれない。
 黒い髪の毛を焦がす太陽の下を、エリカは歩く。日曜日だと言うのに、誰にも出会わない。バスにも誰も乗っていなかった。エリカは何も考えなかった。本来なら、自分に本当に立ち向かえるのだろうか、とか、考える事はたくさんあるはずだったが、何も頭に浮かばなかった。けれど、真っ白で不安になることは無い。今の自分なら、わき目も振らずに、走っていけると思った。どこまでも。
 県令邸にたどり着くと、大きな木の門は既に開け放たれていた。門を潜って、敷地の中に入る。そこには誰もおらず、大きな塀で囲われているからか、通り以上にしんと静まり返って見えた。
 エリカは真っ直ぐ正面玄関に向かう。木製の机の上に記帳台と小さな看板があるだけで、やはり誰もいなかった。エリカは机に近づくと、ページを捲って、ボールペンをノックする。空いている所を見つけて、名前を書き込んだ。竹本絵理花。その名前は、考えるまでもなく、するりと出てきた。

 びろうどが敷かれた階段を登って、広間壱と書かれた部屋に入る。明治初期の古めかしい作りだったが、きちんと人の手が入って、時代にぼけた感じは全くなかった。立派な建物だ。窓は開け放たれていて、白いレースのカーテンがぬるい風に揺れていた。エリカは窓際まで歩いていく。窓から顔を出すと、強い光がエリカの目を射った。エリカは鞄のポケットから携帯端末を取り出す。そして発信履歴から電話番号を呼び出して、コールした。
「はい、駄菓子のびいどろ、ショッピングモール××店です」
「フナキさんですね」
「その声はエリカちゃんだ。県令邸に、行ってるんだね」
「はい。最後に、一応フナキさんの声を聞いておきたくて」
 電話口の向こうでは、ショッピングセンターの楽しげな店内放送が流れている。日曜日なのだ。きっと、駄菓子屋も混んでいることだろう。
「最後にってなんだい。まるで別れの挨拶じゃないか。湿っぽいのは、受け付けないよ。そういったのは返品返品」
 そう言いながら、フナキが爽やかな微笑みを浮かべて笑う様子をエリカは思い浮かべる。なんだか元気が出た気がする。そういうと、フナキは今度は声を出して笑った。少し照れたような笑い方だった。
「ねえフナキさん、最後に、聞いてもいいですか」
「だから最後にって言うのはやめなさい。いいよ、オーケーなんでもききたまえ」
「私みたいな人って、きっとたくさんいるんでしょうね」
 エリカは言った。通話口の向こうで、にぎやかな日曜日が通り過ぎていくのがわかる。
一瞬だけの沈黙の後、フナキは、すぐに言った。
「そうかもしれない。でも、竹本絵理花は、ひとりだけだ」
 それはしっかりとした口調の、やさしい声だった。
「ありがとう。フナキさん、また電話します」
「もちのろん。いつでも待っているよ」
 エリカは通話終了の画面をタップした。いつの間にか、笑っていた。こういうふうに心から笑ったのは、いつぶりだろう。エリカは広間を後にする。白いレースのカーテンが、やさしく風に踊っていた。
 正面玄関を通って、おもてへ出た。敷かれた玉砂利を踏みつけた瞬間、つま先に強い太陽の光が降り注ぎ、ローファーの内側に隠された小さな指を暖めた。その光はつむじから順に、さらりと揺れる黒い髪の毛、セーラー風の衿、スカートと、エリカをまんべんなく包み込んでいく。小石だけでは防ぎきれない湿気が地面からゆらりと立ち上って、意識を曖昧にさせた。エリカは庭園を道なりに沿って歩いていった。手にした剣玉が、白っぽく輝く砂利に不思議な形の濃い影を落とす。ラッカーコートされた木製の軸は汗を吸い取らず、握った手はすぐにびしょびしょに濡れた。
 球形に刈られた大きな植木のそばを抜けて、建物の反対側へ向かう。植木はちいさな朱色の花を付けていた。いかにも夏らしい色だ。門は大きく開け放たれているというのに、そこは鳥の声さえ聞こえない。空を見上げた。どこまでも突き抜けるような青さを瞳に映して、エリカは微笑んだ。景色を綺麗だと思えて、なぜか嬉しかった。
 それにしても暑い。ローファーのつま先は砂利に沈みながら進む。
裏側へたどり着く前、ちょうど建物の側面に回ったところで、不意に空気が変わったのを感じた。不思議な硬さのある空気だった。流れてきた雲が日差しをさえぎって、一瞬だけすっと暗くなる。けれどすぐに太陽がまた顔を出して、あたりに光が急速に満ちていった。ほんの一瞬だけのことだったのに、うす闇に慣れた目に襲い掛かる光の洪水がまぶしくて、エリカの瞳に涙が薄くにじんだ。世界のすべてを洗い出すような、強い日差しだった。
 その中に、暗くなる前にはなかった影のようなものがひとつ混じる。吹き付ける風は湿気をはらんで生ぬるく、むき出しの頬や腕に重たくまとわりついた。エリカは足を止めない。視界の端に映るその黒い影は、地面に染み込む模様のように、絶対の静けさを持って、真夏の景色の中にただ音もなく佇んでいた。エリカには、それがもう何であるかわかっていた。彼女が来たのだ。
 景色には一切の音が無かった。エリカの足が砂利の上を進む、ただその音だけがあたりに響いている。風が切り揃えられた髪を肩の上で揺らして逃げて行った。エリカが砂利を鳴らすのに合わせて、もうひとりの足が、同じように砂利を鳴らした。エリカはようやく顔を上げて、音の鳴った方を見る。そこには、もう一人のエリカが立っていた。手には、昨日見たのと同じ、魚切りの包丁が握られている。エリカは彼女の顔を見た。そこには以前目にしたようなうすら寒い笑顔はなく、口元を小さくあげて、ほほ笑んでいた。目を細めて。それは、まるで慈愛の表情のようにすら見えた。これから失われていくものを見たときの、本能に近い部分で生まれる感情。消えていくものを最後に慈しむような感傷。彼女の中では、エリカはもうこの世界でなきものに等しいらしい。彼女の表情は、その事実を雄弁に物語っていた。
 彼女が、ゆっくりとした足取りで砂利を渡って、エリカに近づいてくる。一歩一歩。それはまるで、昼下がりの住宅地での風景の焼き直しだ。ただ背景が変わっただけ。そう見える。エリカは剣玉の柄を強く握った。そう、今のエリカには剣玉がある。あの時とは違う。それにエリカは、もう、この現実から消えてしまってもいいなんて、思わない。
 剣玉を握りしめた手をゆっくりと持ち上げながら、エリカはもう一人のエリカに向かってゆっくりと歩いていく。もう一人のエリカは、少し驚いたように目を少し大きくしたが、それでも、歩みは止めなかった。やわらかく持ちあがったくちびるの端が、何か確信めいたように、大きく持ちあがる。頬笑みは、完全な笑顔になった。
 一歩一歩、熱された砂利を鳴らしながら、彼女は近づいてくる。そしてエリカも、同じように彼女に近づいていく。黒いロングヘアが、重たそうにぬるい風に揺れている。風向きによって運ばれた強い油絵具のにおいが、エリカの鼻先をかすめた。懐かしいにおいだった。むせかえるような、濃い匂いがする。
 先に動いたのは、彼女だった。何の前触れもなく、勢い良く、急にエリカに向かって飛び出す。片足で地面を蹴って、間合いを一気に詰めてくる。エリカは反射的に避けた。不意をつかれこそしたが、そこまでスピードが無かったから、比較的容易に避けることが出来る。もう一人のエリカは前方につんのめりながら堪えて、体勢を立て直していた。平らな地面と違い動きをある程度制限される砂利の上でなお、彼女の機動力は平地のそれと変わらない。「私って、こんなに体動かせたんだな」とエリカは思った。と言うより、これまで動こうとしなかっただけか。そう考えながら、すぐに首を振る。いや、考えるのはそこじゃない。彼女がこの位動けるという事は、今の自分だって同じくらい動けるということだ。
 もう一人のエリカは体勢をすぐに立て直すと、振り返って再びエリカの懐に飛び込んでくる。厚い鋼の切っ先が、白い太陽に眩しく反射した。腕を伸ばして、致命傷よりもまず先に負傷を狙ってくる。一度でも傷を付けられたらおしまいだ。そう思って、すんでところぎりぎり、エリカは避ける。首元の空間を包丁の切っ先が一直線に切り裂いた。思わず背中に汗が滲む。大きく後ろに跳んで、幾らかでも彼女から距離をとった。その隙にもう一人のエリカは包丁を握り直す。表情は、もう笑っていない。大きく開かれた目は、エリカ以外の何も見ていない。そこには、エリカを仕留める事以外の意識は全く感じられなかった。一つの事しか考えていない。本当の、本気だ。
 エリカは剣玉を握りしめた手をゆっくりと前に突き出した。目の前の彼女が、包丁をそうするように。もう一人のエリカの表情は変わらない。風が吹いた。外を通り抜けてきた風は、大きな門に侵入を狭められたことによって、不規則な強さで彼女達に吹き付ける。もう一人のエリカの髪の毛が風に吹かれて、顔にぱらぱらとかかった。彼女はそれさえ、気にとめない。熱い風はエリカのおかっぱの髪の毛を同じように遊ばせて、遠くの方へ消えていく。揃えて切った前髪と襟足は、熱気をほとんど受け流すようにして、さらさらと揺れただけだった。私の髪はもう、長くない。エリカはそう思った。
 風が消えて、また景色は動きを止める。遠くで蝉が忙しなく鳴いているのが聞こえた。目の前の彼女の肩が、細かい呼吸で僅かに上下しているのが分かる。剣玉の切っ先の向こうに、包丁の切っ先が見える。何も知らない人が見たら、それはずいぶんおかしな光景だろう。でも今は、フナキの言った「現実でないものを切る剣と玉」という言葉を信じて戦うしかない。不思議と、包丁に対する怖さは薄らいでいた。それは自分も武器を持っているからなのか、それとも、違うなにかなのか。
 今度はエリカが先に動いた。片足を勢い良く踏み出して、剣道の「突き」の要領で飛びかかる。もう一人のエリカは、その動きを見逃さずに、エリカの動きのほんの一瞬後を追ってこちらに飛び込んでくる。二人は、正面からお互いに飛び込み合う形になる。エリカは相手の懐には入らずに、足の筋肉を目いっぱい稼働させ、片足を軸に体を捻り、もう一人のエリカをぎりぎりのところでかわす。もう一人のエリカはそのままの状態でつんのめり、バランスを崩して、砂利の中に倒れた。しかしすぐに起きて態勢を立て直すと、立ち上がる時間も無駄というように、中腰の姿勢から飛びかかってくる。エリカは慌てて後ろに跳んで、彼女の体当たりを避ける。一瞬避けきったように見えたが、スカートの裾が振り降ろされた包丁の先端に捕まり、ぶつりと音を立てて生地に穴が開いた。もう一人のエリカはそれを手がかりにエリカを捉えようと、追いすがるようにスカートに掴み掛る。ものすごい力で布地が握られた。これが、自分の力なのだろうか。振り払おうとして、剣玉のことを思い出す。エリカは鞭をふるうように、剣玉を振った。赤い大きな玉が空中を割き、包丁を握りしめる白い手に勢いよくぶつかる。ごつりと鈍い音がして、エリカのスカートを握っていた手は木の葉が散るようにひらりと落ちていった。つぶれた声が、もう一人のエリカの喉から漏れる。その隙を逃さずに、エリカは思い切りスカートを引っ張って、もう一人のエリカから離れる。布を裂く甲高い音がした。見ると、スカートの大きなひだのひとつが、半分裂けて糸がはみ出ていた。
「自分から呼び出したくせに」
 もう一人のエリカは、包丁を持った手を、もう一方の手で押さえている。赤い玉に打たれたその甲は、嫌な鈍い色に染まっていた。
「あなたは、過去をやり直したくないわけ」
 もう一人のエリカは、ゆっくりと立ちあがった。赤く腫れた手と反対の手に、包丁を握り直す。その先端はまだ、エリカのほうを向いたまましっかりと空間に固定されている。
 エリカは何も言わなかった。大きな雲が頭上を音もなく横切っていく。砂利の上に大きな影が落ちる。それはすぐに通り過ぎて、再び鋭い夏の日差しがエリカたちを照りつけた。もう一人のエリカの身体がゆらりと揺れた。その姿は、陽炎のようだった。
「今ならまだ間に合うよ。さあ、私と交代しよう。また最初からやり直そうよ。ほんとうの竹本絵理花に、戻ろう」
「ほんとうのって、何?」
 エリカは尋ねた。もう一人のエリカは、その問いかけに頬笑みを浮かべる。
「ほんとうは、ほんとうだよ。そのままの意味。間違えなかった未来、あり得たはずの未来をやり直すの。あのとき選んでしまった分岐点の、反対側の道を歩くの」
「私が選んだのは、間違った道だったの?」
「そうだよ。だからこそ、ここに私がいる。あなたが選んだこの世界を、あなた自身が間違いだと思ったからこそ、私があなたと交代しに来たんだよ。あの時あなたの選択次第で、あり得たはずの現実からね。
さあ、正しい現実に戻ろうよ。髪の長い竹本絵理花がいるって現実に。そこは今よりももっと楽しくて、今よりももっと、あなたは、私は、笑顔が素敵なはずだよ。
 ずっと絵が好きだったんだよね。知ってるよ、だって私のことだから。私に任せて。面倒だったことも、うまくいかなかったことも、むしゃくしゃした気持ちも、全部なかったことにしてあげる。あなたが描きたかった絵を、私が描き続けてあげる」
 もう一人のエリカは、包丁を持つ手を下げた。そして、もう一方の手をエリカに向かって伸ばす。空に向かって開かれた手に、日差しが白く降り注ぐ。まるで、光る水を湛えているようだ。彼女は、エリカがそこに手を重ねるのを待つ。
「今までたいへんだったね。疲れたでしょ。もう大丈夫だよ、ここじゃないどこかで、ゆっくり休んで。あなたには、世界に労られる権利があるはずだよ。だってこんなに頑張ったんだもの……」
 もう一人のエリカは、手を伸ばして、茫然と立ちすくむエリカの手を取った。その手の熱さに、エリカは驚いて思わず手を離しそうになった。しかし、もう一人のエリカが手を強く握って、それをとどめる。伝わってくる感覚に、エリカははっとした。相手の手が熱いのではない。自分の手が、どんどん冷たくなってきているのだ。
「怖い?」
「怖くない。怖いんじゃない」
「嘘つき。泣いてるよ」
 エリカは、いつの間にか自分が泣いていることに気が付いた。涙が溢れて、頬に線を描く。透明な水は、音もなくどこかへ落ちていく。
「怖くないよ。大丈夫。頑張ってきたあなたへ、これはたったひとつの贈り物なんだから」
 もう一人のエリカの、手を握る力が、強くなる。
「私は、間違ってなんかない」
 エリカは言った。
「……今更、なに?」
 彼女のその言葉は、凍らせたように冷たい。
それでも、エリカは続けた。
「ある時点から心のどこかでずっと思い続けてきた。私は間違った道を歩いてきたんだって。だからこそ、失われた過去の分岐点からあなたがやってきて、そんな現実の私に取って代わろうとした。私は、別にそれでもいいと思ったの。現実を捨ててもいいって思った。ほんとだよ。嘘じゃない。
……でもね、気がついたの。私が消えてなくなったとしても、私が過去の自分に道を譲ったっていう事実はなくならない。誰も気づいてなくたって、あなたがそれを忘れたって、私はきっと覚えている。それは私が、一番最後に、自分自身に負けたということに他ならないの」
 エリカは、手を握り返した。温度は、変わらずに冷たいままだ。相手の手は、焼けるように熱い。けれど、そこに込めた力は、相手のそれと変わらない。
「私は、ずっと周りに負けたって思ってた。たったひとつの宝物を、周りに奪われたんだって。ううん、そもそも、そんな宝物なんて、はじめから私にはなかったんだって思ってた。私みたいな人間は、どこにでも、山ほどいるんだって。
 でも、そうじゃなかったんだ。負けたのは、周りにじゃなくて、自分自身に。いつの間にか心に住んでいたあなたに気が付かなかったように、自分の弱さを見ないようにして、周りが自分よりも強いんだって思いこんでた。周りなんて本当は関係なくって、ただ自分が弱かっただけの話なのにね。例えどんな事になっても、自分自身を正面から受け止められなかったことが、私の一番の弱さだった」
「じゃあ……それなら、私が弱さを克服して、これから強くなってあげる。正しい現実で、正しく、強い竹本絵理花になるんだ」
「正しい現実なんてないよ。そんなもの、きっと、どこに行ったってない。どこにいっても、たぶん、私は迷うし、傷つくし、うまくいかないんだと思う。それでも、私が私であることは、変わらない。私みたいな人が世界にたくさんいたって……それでも私は、竹本絵理花は、この現実にたったひとりしかいない。私が私である限り、自分の足で、自分の頭で道を選んで、未来へ歩いていくしかない」
 エリカは腕に思い切り力を込めて、熱い手を振りほどいた。そしてすぐに剣玉を握る手を大きく振りかざす。舞い上がった赤玉が、宙を勢いよく旋回して、もう一人のエリカの肩をかすめる。もう一人のエリカはわずかに逃れて勢いよくステップを踏むと、再び包丁を構えなおした。今までのような優しい表情は、もうどこにもない。
「私のこと、自分で呼び出したくせに。今更、馬鹿じゃないの」
「ごめん。でも……もう、現実から逃げるわけにはいかないんだ」
 もう一人のエリカは心底嫌そうな顔をして、ガムでも吐き出すように言った。
「煩いな。黙って、消えちゃいなよ」
 包丁の切っ先を向けたまま一気に突っ込んでくる。エリカはもう一度剣玉を振るって包丁に当てようとした。けれど長い糸の軌道を読まれて、簡単に避けられる。鎌で刈るように脇腹を狙う包丁を、身体を反らせてすれすれの所で避ける。その時、軸にした足が砂利に動きを取られて、滑るように地面に崩れ落ちた。もう一人のエリカが、しめたと言うように覆いかぶさるようにとびかかる。エリカは思い切り体をひねって、最後に手をかけられるのを一瞬の隙に逃れた。起き上がるのと同時に剣玉を持つ腕を大きく振る。旋回した赤玉が、もう一人のエリカの肩を打った。くぐもった低い声が上がる。エリカが剣玉を振って、赤玉を引き寄せようとする。玉が宙に浮いた瞬間、もう一人のエリカは赤玉に掴みかかった。エリカがしまったと思った瞬間、勢いよく振り下ろされた包丁に、糸は断ち切られた。
もう一人のエリカは口元に大きく笑みを浮かべると、切り取った赤玉を後ろに投げ捨てる。
「糸だけになったね。釣りくらいならできるんじゃない」
 そう言うと素早く立ち上がって、全速力でエリカに突っ込んで来た。横に跳んで避けようとしたが、間に合わない。傾けた体はかろうじて刃物の直撃を免れたが、わき腹に、さっと熱が走った。制服の上着の裾が切れていて、そこに赤い色がにじんでいた。手で触ると、生臭い鉄の匂いが広がった。もう一人のエリカは強く舌打ちをすると、間を置かずに身体を旋回させ、今度はエリカの背中を狙った。エリカはとっさに振り向いて、玉を失った剣玉でもう一人のエリカに殴りかかった。少し丸められた木の尖りは、もう一人のエリカの制服をほぼ正面からなぞった。次の瞬間、制服が、なぞったところからぱっくりと裂け、なかに赤く血が浮かんだ。エリカは剣玉を見た。ただの木製の、古い剣玉だった。やはりフナキの言ったとおりに、現実に無い存在は、現実に無い刃物でしか切れないのだ。
 瞬間、足元に強い痛みが走る。もう一人のエリカが、スライディングをするようにエリカの足元に滑り込んでいた。ふくらはぎに大きく赤い線が付いている。慌てて動くと、ぱかりと傷口が開いて、血があふれ出した。燃えるような熱さが傷口に広がった。思わず体勢が崩れて、エリカは砂利に崩れ落ちる、機動を封じられたのだ。すぐに強い力で、剣玉を持つ腕を抑え込まれる。一瞬の後に包丁が降ってきて、エリカの体を狙った。エリカは懸命に体をくねらせてそれを避ける。鎖骨の下が切られた。けれどセーラーの衿生地が厚かったおかげか、大事までは至らなかった。もう一人のエリカが、もう一度押さえつける手に力を込めて、包丁を振りかざす。エリカは全力を使って身体を転がそうとする。押さえつける手の力が強くなる。エリカは気力を振り絞って、渾身の力を込めて、体を動かした。もう一人のエリカは、焦ったようにがむしゃらに包丁を振りおろす。

 ちりん、とちいさな鈴の音が聞こえた。
 
 エリカは反射的に音の方を見ようとする。
 しかし、それより前に、音に気を取られたのか、一瞬腕を抑える手の力が緩んだ。エリカはそれを見逃さない。
もう一度思い切り体に力を込めて、もう一人のエリカを振り払う。おろされた包丁の刃が、頬をかすめる。しかしそれと同時に、剣玉の先が、もう一人のエリカの首をなぞった。形のあるものをとらえた、確かな手ごたえがあった。
しかし、そこに血は流れなかった。
 エリカの体を押さえつけていたものが、すっと無くなった。エリカは身体を起こす。気が付けば、切られたはずの上着の裂け目も、スカートも、身体の傷も、どこにもなかった。頬を手で拭う。ついてきたのは、汗だけだった。
エリカの前で、もう一人のエリカが、驚いたように目を見開いて、手を首に当てる。そしてその手を見る。そこに何かを見たように息を飲んだのが、エリカには分かる。
 もう一人のエリカは、何かを抑えるように首に手を当てながら、もう一度包丁を振りかざした。しかし、振り上げた瞬間、その手から包丁がこぼれる。包丁はがらんと明るい音を立てて、砂利の上に落ちた。それでも、もう一人のエリカは、エリカに掴みかかる。しかし指先はエリカの体をすり抜けて、彷徨うように宙をつかんだ。
 エリカは、自分の身体に触れる。確かな感触を指先に感じた。それから、もう一人のエリカに手を伸ばす。触れたはずの指先は、そこにどんな感触も感じることはなかった。
 もう一人のエリカの目から、一粒、涙がこぼれる。そしてもう一粒。次々とあふれ出したそれを、彼女はぬぐわなかった。砂利の上に、小さな子供のようにへたり込んでいる。小石の上に、彼女の目から、雨のように水滴が落ちる。
 もう一人のエリカは、肩を震わせて泣いていた。その声は、聞こえない。声をあげていないのではない。もう、エリカには聞こえないのだ。エリカは彼女の肩を抱こうとした。例えもう、触ることができなくても。
 腕を伸ばしたその時、また、どこかで小さな鈴が鳴った。エリカははっとして、その音の在りかを探した。敷地の中には、エリカ以外に誰もいない。フナキだろうか。でも、僕じゃないといっていたはずだ。庭木の濃い緑は、密集した葉の縁を夏の光にまぶしく輝かせている。風に乗って、また鈴の音が聞こえた。後ろからだ。振り向きざまに、猫が一声鳴いた。門のあたりに人影が見える。エリカは立ち上がって、目を凝らした。
 開かれた門の影に、女の子が立っていた。
 エリカだった。
 黒い髪は、長くない。今のエリカと同じ、おかっぱだ。
 長袖のセーラーの上着に、スカート。遠目から見るそれは、まるでワンピースのように見えるが、実際はベルトスカートのツーピースだということをエリカは知っている。
 冬の制服だった。
 手に持った携帯端末に付けられた、小さな鈴のストラップ。彼女がそれをちりんと鳴らすと、どこからか猫が飛び出して、彼女の足元に擦り寄って甘えた。冬服を着たエリカは、屈んで猫を撫でた。そして、顔をあげる。
 その表情は、影になってよく見えなかったが、笑っているように見えた。
 
 振り向くと、髪の長いエリカは、もういなくなっていた。もう一度、門の下に目を遣る。そこにいた女の子と猫も、もう消えていた。
「絵は、自分で描くよ」
 誰に向けるでもなく、エリカは言った。
 湿度を含んだ風が、たったひとりの夏の風景のなかを通り過ぎて行った。

 

それから


 月曜日の放課後、ホームルームで教師が退出したのと同時にエリカは教室を飛び出した。と言っても、ドアをくぐる勢いがいいというだけで走っているわけではない。女子高なので、スカートをはためかせて廊下を走っていると、結構な確率で教師に怒られるのだ。
 できる限りの早歩きで、廊下を歩く。隣のクラスに差し掛かかったところで、ドアが開いて、なかから授業を終えた生徒たちが溢れ出てきた。そのうちの一人は書道部の友人だった。彼女は手を振って、エリカを呼び止める。
「絵理花ちゃん、今日の部活出る?」
「出るって、自由参加なの?」
「そうだよ、ほら三年生が受験の説明会があるからって今日いないじゃん。顧問の先生もそれに顔出すから、今日は自由参加だって。土曜日の部活で言ったの、聞いてなかった?」
「うん、あーごめん、忘れてたかも。土曜日はちょっと、なんていうかいろいろあってさ。今日は出るよ。でもこれから職員室行かなきゃだから、それ終わったらね」
 じゃ、と軽く手をあげてエリカは歩き出す。放課後、それぞれの場所へ向かう制服の群れに紛れていく後姿に、友人が大きな声をかける。
「職員室って。もしかして誰かに目でもつけられたの?」
 エリカは足を止めないまま、首だけ振り返って笑う。
「うん。昔の私と、未来の私に」
「え?」
「なんでもないー」
 エリカは最後に大きく手を振って、また歩くスピードを上げた。
 そうか、今日は顧問の先生がいないのか。じゃあ学年主任にでも話をしよう。改まって会話をしたこともない相手だが、部活の話だといえば、聞いてくれるだろう。
それとも掛け持ちしたいということを切り出したら、一年生の時点でそれは無いだろうとか言われるだろうか。
 
 夏服のスカートを翻してじゃれ合う生徒達の間を縫って、エリカは歩く。角を曲がって少し行けば、もう職員室だ。卒業生が寄贈した大きな鏡の前を通りかかって、何気なく、そのなかを覗いた。そこに映るのは、もちろん自分だ。おかっぱの髪が、セーラー衿の上でさらさらと揺れている。
 それを見ている自分の表情が思いのほか楽しげだったものだから、エリカは周りに気づかれないように笑った。
 まあいいや。どんな事を言われたって、なんとかしよう。また絵画スクールに通うという手だってある。
 それよりも、帰ったら、何より先に道具の手入れをしなくっちゃ。久しぶりに絵具箱を開けるから、手入れにはそれなりの気力が必要そうだ。
エリカは、鏡の前を通り過ぎる。
 
 その時、携帯端末が震えた。着信ランプが家族限定の色に光る。エリカは慌てて画面をタップし、母からの着信に応えた。
 
 その携帯端末には、日曜日の午後にフナキの駄菓子屋で買った、小さな鈴のストラップが付いていた。
 
 
 
 
(end)



以前同人誌にして頒布していた小説です(初出:2016年)

 #小説 


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