見出し画像

お盆休みの深夜の日記

たまには、とりとめもない日記でも。

欲しい本は、まずメルカリで

最近、欲しい本が見つかったら、まず最初にメルカリで検索するようになった。欲しいと思うのはだいたい内容が気になるからで、所有しておきたい欲はないので、多少カバーが汚れていても帯が破れていても気にしない。

人気があって世の中に溢れかえってる本なら、かなり安く買えるからお得な気分になるし、調べてみてそんなに値崩れしてなかったら、「じゃあ新品で買うか」という判断基準にもなる。で、メルカリでしばらくウォッチしていても誰も売らないような専門書は、多少高くてもAmazonの中古で手に入れたりする。

読んだ本は、よっぽどじゃない限り、またメルカリで販売する。たいがいの場合、また売れる。きっとメルカリには、自分と同じような考えで本を売り買いしている人も多いんやと思う。そう考えると、本はどんどん循環させた方がもったいなくないし、メルカリで買った本を、またメルカリで売ると、なんかいいことをした気分にすらなる。

「ない仕事」の作り方

今日もメルカリで本が届いた。みうらじゅんさんの「ない仕事」の作り方、という本。みうらじゅんさんに関しては、昔のタモリ倶楽部の映像に出てくる人ってぐらいのイメージしか持ってないし、なんならそのイメージがあってるのかどうかもわからないぐらい。職場の人がインスピレーションを受けたと紹介していて、気になったので読みたくなっただけ。

内容はタイトルの通りで、いかにみうらじゅんさんが「ない仕事」を自分で作り出してきたか、その経験談やったりプロセスを紹介するもの。好きなものを仕事に変えれるのは、みうらじゅんさんという人だからできる特別なことやんと思わずにいられない部分も多かったけど、ひっかかりを感じたものをすぐにアウトプットはせず、自分はこれが好きだと盲信して突き詰めて、実際に好きになったところで自ら行動して売り込みに行くっていう一連のプロセスからは、大いに刺激を受けた。

あと、好きをたくさん突き詰めつつ、いろんな文章や絵の仕事を同時並行で進めているそのバイタリティの凄さは、自分も見習わないとという気持ちになった。

「です・ます」と「だ・である」

そんな刺激を受けて何かしなきゃという気持ちになって、こうやって日記を書き始めたというカラクリ。日記ってことで、普段のですます文体じゃ堅苦しい感じになるし、だである文体で自分に向かった喋るような意識で文章を書いている。

ネットでアウトプットのための文章を書く時は、ですます文体で行こう、そう決めたのは、そもそもいつからやったのか。「ですます」と「だである」を混ぜ合わせた糸井重里文体を無自覚で真似してた時期も長かったけど、最近はですます文体で統一している。そこには、誰かに読まれる前提で文章を書こうという自意識があるように思う。

ここ最近、文章を書こうという気力がなかなか起こらない。仕事も忙しいし子育てもある、そんな限られた時間の中で、何をもたらしてくれるのか分からない文章を書こうという気持ちが湧かないのは当然やと自分に言い聴かせて、しょうがないよなって思っていた。でも、誰かに読んでもらえる記事をかかなきゃという思いが、書こうという思いを邪魔しているだけなんじゃないかって、みうらじゅんさんの本を読んで思った。

顔が思い浮かぶあの人のために

じゃあ結局何のために文章を書くのか。自分のために書くとなれば、別にオンライン上で公開する意味ないやんってことになる。読まれる文章を書くのがハードルになっていると思う一方で、多くの人に読まれてTwitter上で記事が拡散されるのをニマニマと喜んでいる自分もいる。

結局、一番理想的なのは、顔が思い浮かぶ数人のために記事を書くことなのかなぁって思う。このジャンルの音楽の記事を書くと、きっとあの人とあの人が喜んでくれる、みたいな。読んでくれる人が具体的であれば、別に気負う必要はないし、スラスラ文章が進む気もする。無理にですます文体で書く必要性もない。

で、顔が思い浮かぶあの人が、極論自分自身でもいいかなって思う。自分が知ってテンションがあがったこと、それをそのまま発信すれば、世の中のどこかにいる自分みたいな人は喜んでくれるんじゃないかって考え。最近音楽ブログの方で書いた “Fugazi bell” と Timeshares の記事は、まさにそういうスタンスやったりする。

今はお盆休みで時間的にも精神的にも余裕があるからこんなことを思ってるだけなのかもしれないけど、これからも文章は書いていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?