長蛇の列は…
大阪市立中之島美術館で開催中の「福田平八郎展」に行ってきました。
美術館の入口が遠くから見えるところまできたとき、長蛇の列!
「えっ?こんな並ぶの?」
確かに、コロナ禍のあと、しばらくは日時指定しなければならなかった美術展も、今回は指定なしになっており、そういう意味では人が多く集まれば入場規制されるわけです。
列のところまできてスタッフの方の看板に
「モネ展 最後尾」
モネ展もここでやってるのね(笑)。
「福田平八郎展」はすぐに入場することができました。
福田平八郎
画家としてとても順風満帆な人生だったんだなと思いました。
1915年の美術学校の卒業制作は学校の買い上げ、1921年の帝展の作品は宮内庁の買い上げ。
日本画家として写実から琳派風な作品は美しく、確かに好き嫌いが発生しない作風な印象です。
自然なもの~物体として存在しないものを描く
タイトル画像の「漣」(さざなみ)は1932年は40歳の作品。
日本画として「問題作」と言われたそうですが、これまでとは全く異なるように見えるけれど、写実を追求した先に彼に見えたものなのかとも思います。
このあと、どんどん彼の作品は自然の物体として存在しないものを描きます。
明治生まれの人とは思えない感性だと思いました。
作品は現代アートにも通じるけれど
最初、この展覧会のポスターを見たとき、現代のポスターか?と思ったら、明治生まれで「没後50年」とあり、しかも日本画。こんな人がいたなんてと驚きました。
でも、彼の略歴と作品を見ていくうちに、「戦争は?」という疑問が生じました。
戦争中の彼の足跡です。
昭和17年満州での美術展審査のために中国を訪れたことと、日本画家報国会軍用機献納作品展に「白梅」を出品。
昭和20年海軍軍需美術研究所の指導主任になったこと。
戦争中でもこれぐらいしか戦争関連の言葉はみつかりませんでした。
従軍画家や戦争画を描かされた多くの画家がいた時代、彼はどういう立場でいたのでしょうか。
1940年~1945年は、彼が48才~53才。
これだけ当時世間に認められていた日本画家が戦中にどんな気持ちでどんなことに携わったのか、多くの仲間が従軍画家になったり、批判して徴兵されたり、戦後は逆に戦争加担で批判される…
こうしたことにはならなかったのはなぜなのか?
展示を見た時の作品の素晴らしさとは逆の気持ちが、今、私の心に芽生えています。