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(Book)学歴競争人生 十代の今知っておくべきこと

大学生の時に好きなことをして働きたい!とアホな私は思いました。
そして、旅行が好き×塾のバイトをしていたため学生も好き=教育旅行に携わる仕事に就きました。

しかしながら、そこに働き方という考え方を失念してしまったのが最大のミスでした。
朝4時に起きて夜1時に寝る生活。死ぬわそんなもん。


ということで、ほどほどに好きなことを今は仕事にしています。英語はほどほどに好きなんです。
完璧にツールだと思っているところがありますしね、できたら便利なことだから、みんなできるようになろうよみたいな。
別に英語じゃなくて国語でも社会でも良かったんです。本質は教育が好きなんです。
今日も厚生労働省が出しているGテスト(簡易版職業適性テスト)をやったら適正はマルチタスクを行う教員でした。笑っちゃうわそんなもん。
教員の仕事、本当に適正だって思いますしね自分でも……めちゃめちゃ向いてると思ってます。


しかしながら、好きだけではご飯は食べていけないんですね、圧倒的な知識と技術が必要です。
だから、教育に関する本はたくさん読むようにしています。学生たちに勉強を斡旋している立場の人間が勉強をしないっていうのは、ちゃんちゃら可笑しいというか。
人間って言葉ではなく、態度で示さなければいけないですしね。自分も学んでいます。
そんなこんなで今は学歴に関する本を読んでいます。
いつもはアマゾンの書籍紹介を参考にするのですが、あまりにも短かったので今回は目次を添付します。

第1章 受験競争がなくならない理由
受験さえなくなれば学校はよくなる?/学歴と競争があたりまえの社会/お隣・韓国と比べてみると…/受験競争は文明病/受験競争は社会の問題??

第2章 学校に埋め込まれている競争
競争意欲を左右する仕組みがいっぱい/他の生徒に追い抜かれたら…/順位をめぐるバトル/偏差値には2つの意味がある/学校で作り出される「能力」/学校での競争≠おとな社会での競争

第3章 受験競争の現在
家族ぐるみの大戦争/受験競争への熱心な参加者はだれ?/大衆化時代の大学受験/選抜制度は偏りだらけ??/知っていますか!?受験の意味

第4章 大人への道
夢と希望と可能性―あなたはサッカー選手になれますか?/夢から覚めるティーンエイジ/人生の天気予報/不透明な将来の希望論/高校までが義務教育?/18歳成人制度?/学歴分断社会

第5章 人生の選択肢
半分しか見えていない社会/三人の自分を考えてみよう-大卒・高卒・フリーター/もし惑星衝突が起るならフリーター/大卒は高学歴ではなく重学歴/受験生特有の学歴観は要注意!/高卒学歴は低学歴ではない/軽学歴も悪くないかも?

第6章 学歴は世代をつなぐ
学歴は誰のもの?/拝金主義の教育格差/学歴の世代間関係/学歴分断社会の大学像/綺麗ごとなんて役に立たない!/不透明な社会で生きる君たちへ、“人生ゲーム”のルールを説明しよう!


受験戦争、もう負けそう、か弱いハートが折れちゃいそう 

相対性理論、地獄先生より引用。いい曲です。

世の中では声高に学歴社会が終わりつつあると叫ばれています。
大学が募集している人数より、現在学生の人数が上回り、選ばなければどの学校にも入れます。
つまり大卒っていうところに特異性も何もないんですね。
しかしながら、これが学歴社会の瓦解とは言えないというか、だからこそ良い大学に入りたいっていう、熾烈な争いになっているように思います。(そもそも日大の院卒と早稲田の学部卒のどっちが高学歴か、みたいな難し差もある。)
2016年度に始まった、定員厳格化により大学入試は一層厳しくなりました。だからより偏差値を高めるために、学生たちは勉強しています。

偏差値とは相対的なものだから、自分が今までより勉強しても、周りのみんなが同じようにたくさん勉強したら偏差値は上がりません。
筆者は偏差値を上げるためには「人より」頑張る必要があると述べています。確かに納得。
一方で偏差値が競争教育を抑止する役割を果たしているとも述べています。

というのも、偏差値という数字で、自分の実力を見せつけられると「身の丈」を知るためです。
全員がライバルじゃなくて、自分のレベルはこの辺だ、だからその周辺の人達がライバルだというのを示す役割になっているということですね。


努力するって大変なことです。だから、自分が頑張ればできるレベルっていうのを見定めなければいけない。
つまり、現在の実力のちょっと上を目指すっていう所が、偏差値を「使って」自分の人生を主体的に決めるということになるのではないでしょうか。

勉強は頑張れば成績上がる 学生時代はほんとはわかりやすいんだね

モーニング娘。の「ロマンスに目覚める妄想女子の歌」よりタイトル引用。

浪人時代って今考えると結構生きやすかったんじゃないかなって思います。
だって、偏差値あげればいいんですもん。そのためには、友情とか恋愛とか人間関係もある程度遮断することも可能ですしね。
(当時友人と食事を取る時間をずらしたら嫌われたのかと思ったと言われたことは反省してます……きっちり言葉にすればよかった)

大人になると評価の指標がとっても曖昧というか。複数のレイヤーがあります。
例えば英語教員だと以下の通り

  • 英語の運用能力があるか

  • 英語の指導能力があるか

  • 生徒を引きつける能力があるか

  • 板書は読みやすいか

  • 声ははっきりしているか

  • 授業を退屈させない工夫をしているか

  • 授業自体に生徒が価値を見出しているか

  • 尊敬される人柄であるか

  • 身だしなみが整っているか

  • 高い同僚性を有しているか

  • コミュニケーション能力は高いか


などなどですね。とってもマルチタスクなんです。
どれかができていても、例えばすごーく英語が出来ていても、教える力がなかったら意味ない仕事なんです。
例えば英語が好きな英語の先生(学生時代から洋書を読んでいて、英文学科を卒業みたいな)は「生徒が自分のように英語に興味を持っている」と思っていたら、ドツボにはまってしまいますし、客観性も大事ですよね。
しかも人間だから、全員の生徒に好かれるってわけでもないし……年齢とか性別とかで判断されることもあります。

だからこそ、浪人時代の偏差値至上主義っていうのはとっても楽だったなと感じます。まあ浪人のクラスで絶対1位になれなかったのは悔しかったけど。すげえ頭良い奴がいたんですよね。


でも、偏差値競争を勝ち抜いて学歴を手に入れたかったのは「人間は学歴(だけ)じゃない」って言いたかったのもひとつあります。
学歴よりも大事なものがあるよって言うためには学歴が必要なんですよね。
今まで学歴が必要ない!って自分に断言してきた人達は、学歴コンプレックスの傾向が強かったように思います。(旅行会社でスイスの首都聞かれて、間違えたら慶應生なのにわからないの〜?とか言われました)

偏差値が高いっていうことはもちろん評価の基準になって欲しいです。だって努力の結果なんだから。
就職活動中に学歴は見ません!と断言している会社は、努力を無下にしている感じがしました。スポーツで全国大会に行った人は評価して学歴を評価しないっていうのはどういうことかい?みたいな。

優しい、温厚だ、みたいな人間を評価する軸の一つに、学歴があるってことはなんら問題ないことなんじゃないかなって個人的に思います。
ただ、自分の浪人時代みたいに学歴が全てみたいになってしまうと、極論ですね。単なる逃げです。


そんなこんな語ってたら3000字を超えてしまいました。やっぱり教育の話になると長くなっちゃいますね。

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