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なぜ新選組の甲府行きは遅れたのか

 私はへそ曲がりな性分で、新選組は京都での活躍ぶりよりも、江戸に帰ってきてからの方が好きだ。特に甲陽鎮撫隊は、進軍が遅れて先に官軍に甲府城を取られてしまい、勝沼での戦闘でも、たちまち敗走。みっともなくて人間臭いからこそ、心惹かれる。
 東京駅丸の内口からタクシーで銀座に向かう際に、JRのガードをくぐって「鍛冶橋」の交差点を通ることがある。新選組が京都から江戸に戻った後に、屯所を置いた辺りだ。ここから近藤勇は大名駕籠、土方歳三は馬に乗って、甲州街道を意気揚々と西に向かったのだなと、通るたびに感慨深い。
 途中、新宿で女郎を総揚げにして遊んだり、地元の多摩で旧友たちの歓待を受けたりしたのが、遅延の原因とされている。しかし「大事な役目の前に、女郎遊びなどするはずがない」と、断固否定する向きもある。
 私は、ありうる話だと思っている。それは近藤の気配りだったのではないか。配下の若者たちは新参が多く、死地に赴く前夜だけでも、いい思いをさせてやりたかったのだろう。その後のゆっくりした進軍も、すでに体調が悪かった沖田総司の足に、合わせたのかもしれない。近藤は下の者を思いやる気持ちが強く、だからこそ大勢の隊士たちから信頼を得ていたのは疑いない。
 近藤自身、甲陽鎮撫隊には命をかけていた。鳥羽伏見の戦いで傷ついた右肩では、もはや得意の刀は振るえず、まして時代は槍刀から銃砲に転じていた。その悲壮感を思いやると、新宿での女郎総揚げも、むしろ納得できるのだ。

文/植松三十里 画/いとうえみ(うえまつえみ)
「新選組友の会ニュース」vol.150 2015年12月10日発行に掲載
「なぜ甲陽鎮撫隊は進軍が遅かったのか」



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