『チェリまほ THE MOVIE』 sideB 前編

初のノートは、チェリザムの感想を書きました。
やはり「初」を冠する投稿は、今の私にとってこれ以外ないだろうと思って。
前に書いたように、この作品は、私の心に一生残るであろう素晴らしい作品となりました。

ただ、実は…
この作品のドラマ版に、異常な思い入れのある私には、映画版については「総論賛成、各論反対」的不満もあるのです。もちろん、プロが作った作品に対して、素人の私が自分の思い入れに基づく不満を抱いているだけであり、箸にも棒にも引っかかるようなものではないのですが、公開からある程度時を経たこともあり、シーンごとの感想やら詳細についての感想を残しておきたいと思うので、本作品について肯定的意見しか見たくない方は、そっ閉じされることをお勧めします。(そもそも見ている人がいればだけど笑)

正直、「他作品と比較してしまう」という、理不尽で作品に対して失礼ともいえる態度を、私は取ってしまっていることを認めざるを得ません。
本作品よりも半年程度先行して公開された作品のオープニング、ドラマのシーンをチョイスしてオープニングでのこれまでのあらすじ説明の鮮やかさ、テンポよく本編へいざなっていく手際の鮮やかさに魅了されたものです。

過剰だった期待~オープニング

で、ドキドキしながら迎えたオープニングでしたが、そこには…
素人目からすると、特に工夫なく切り取り、説明的に並べられたドラマのシーンのベタ貼り。有休を取り喜び勇んで迎えた公開日初回のスクリーン前で、私の中で過大な期待と荒ぶる感情がバグって、「え?え?」となったのを覚えています。

そして続いて提示されたのは、ドラマ版の「白シャツ朝チュン」をなかったことにした世界線。賛否のあったドラマ版ラストでしたが、あの朝チュンから大ラスの寸止めキスの流れに深い納得感とたまらないほどの「粋」を感じていた私にとっては、「え?そんなことある??」と頭真っ白になるオープニングだったのです。


安達と黒沢のキャラクター

続くシーンはピクニックデートの様子。ふとした触れ合いで、黒沢の心の声が漏れ聞こえて安達がドギマギという、見慣れた、かつ新味のないシークエンスを見せられつつ、二人のキャラがわかりやすく極端に寄せられているのを感じます。
安達が「木!木!」と、落ちている枯れ枝に駆け寄り、杖にして見せるシーンなど、「5歳児か!」と突っ込みたくなるもので、さすがに安達が稚気にあふれてかわいらしいキャラと言っても、これはやりすぎでは?と思わざるを得ませんでした。
そもそも、安達の幼さやかわいらしさって、かわいく振舞おうとしているときに出てきたものではなく、「世間ずれしていない30歳のもさい男がなんかジタバタしてる」なかで漏れ出てくるものでしたから、映画の安達がこういうキャラ見せをされている時点で、私には違和感が大きかったです。

黒沢のキャラについても、後述することになると思いますが、ドラマのキャラとは変わっていると感じており、演じた町田啓太さんが撮影現場で「僕、ちゃんと黒沢になってる?」と何度も聞いてしまったという違和感と、軸を同じにしていると感じます。

あと、視覚的な面で、秘境的な滝という設定だとは思うのですが、それにしても、目に入るスクリーンの大画面が、寒々とした冬枯れの山と小規模な滝、というのは、なんとなく寂しくなるような気持ちを禁じえませんでした。

ギミギミが流れる中で、オフィスでの様子を活写するシーンはかっこよくて、特にこのシーンでの浦部さんに惚れ直した!と思うのもつかの間、続く迎春~初詣のシーンですが、ここがもう、私的には「は!?なにこれ?!」くらいの勢いで疑問でした。

妙~にソーシャルディスタンスを保ちすぎた構図、セリフの間ごとに一拍入れてあるような不自然に遅いテンポ、これはおそらくコロナ対策やスケジュールの都合で合成なのだろうと信じていました。
その後メイキング映像など見て、4人が一堂に会して撮影されたものと知って、逆に驚いてしまったほどです。
テンポのもたもた感と不完全燃焼感は、結局、決めつけたくはないけど脚本に書かれたセリフの拙さなのかなと思えました。
比較の対象にならないのは承知なんですが、黒沢と柘植が、安達宅で鉢合わせする、ドラマシーズン8話の3人の会話のシーンの妙などと比べると、安達の魔法使い要素がいまだ温存されている点も生かされてないし、会話そのもののウイットにも欠けていると思えます。(忌憚なく言えば、4人の会話が、会社の取引先との世間話レベルで紋切り型)

黒沢の「今年は何しようか」のセリフも唐突感しかなくて、頭の中で疑問符が飛び交いました。「春はお花見、夏はお祭り、秋は旅行」って、小学校の行事予定かよ!と思わずツッコミ。このセリフはこのシーン後も回想で出てきて、「俺を思っていろんなこと計画してくれた…」って安達に言わしめます。「春はあけぼの」的なセリフ一つで「計画」って?

そもそも、この葛藤の理屈がよく呑み込めない
そして、おそらく全チェリまほファンが、「これはちょっとないのでは?」と心の中で思っていることだと信じているシーンが来ます。

安達の長崎転勤の話について「俺は応援するよ」とほほ笑む黒沢。その黒沢の後姿を追いながら(本当に、喜んでくれてる?)と、手を伸ばす。。。。。。

いや待って!!!!!!

それはないでしょ!!!!

ドラマの11話の地獄の苦しみを味わった安達なら、それは絶対にしないよね!!!!
それをするなら、もうドラマの中にいた安達じゃないよね!!!うそだ!!!劇場で叫びそうになる私。

そして「俺のこと、信用できない?」と寂しく微笑む黒沢。

これもにわかに飲み込めなかった。黒沢は、自らの戸惑いを安達のせいにして押し返すようなことはしないと信じていたから。
ドラマ11話で、信じられないと思うけど触れた人の心が読めるんだと言った安達の腕を、これでもかというほど強く握りしめ、まるで自分の心の中丸ごと差し出すようにした黒沢。
あの黒沢だったら、「自分を信じられない安達」のせいにしたりしないで、自己開示をしたって思ってしまう。でも、ここに、「『読まれたら困る自分=寂しさが勝って素直に応援できない自分』がいることを隠したい黒沢」という要素を持ってこないと、転勤をめぐる二人のディスコミュニケーションからくる葛藤の根拠が成立しない。


そう、ドラマのラストで、「魔法がなくても言葉で、気持ちを通じ合うことができる。一生一緒にいることができる」と強い決意を見ていた私は、この映画の前半の核となっている、「通じ合えない二人」がどうしても素直に納得できなくて、それを引きずるから描かれた細部にイエスと言えなくなっているのだな、と今ならわかります。
公開当日の初回でこの中に放り込まれた私の混乱を、ご想像いただけるでしょうか。

後編に続く



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