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マイナースポーツの大会統括者はどうして「元締め」として敵扱いされやすいのか?

こんにちは。佐藤奨(さとうつとむ)です。

2月20日の #スポピザ 特別版 bb project「新体制発表会」に向け、昨日より #マイナースポーツあるある をTwitterで更新中だ。

この企画は、2月20日当日のイベントでのトークセッション「マイナースポーツ談義」「これまでbb projectが取り組み、乗り越えてきた課題」をやる上で、その手前にあるマイナースポーツにある環境を、参加者の多くが事前にイメージ共有しやすくすることが目的である。

投稿を繰り返していくうちに、私以外の方の投稿も増えて、盛り上がりつつある状況であるが、その中で、気になる以下のような投稿があった。

マイナースポーツの、大会の主催で、元締め”だけ”が「儲かっている」というニュアンスを感じる書き込みがあった。

それを読んで、私の肌感と乖離があることが分かった。

大会統括者は大変なのに、敵視されたり、不信感を抱かれたりして「報われてない」現実を目の当たりにしているため、思わずnoteを書くことにした。

今回は、マイナースポーツの大会統括者はどうして「元締め」としてこのような敵扱いされやすいのか?というポイントで今回の記事を書いてみる。

元締め”だけ”が「儲かっている」イメージはほぼ間違い?

さまざまなマイナースポーツの現場に関与してきて感じている私の印象は、元締め”だけ”が「儲かっている」イメージは湧きにくい。

それはなぜか。そこにかけた労力からの利益を、日給や時給に割ると、大した金額にならないことが多いイメージだ。さらに、統括者は、多くの場合逃げずにやり遂げなければならない。やらなきゃいけないのに、労力を割いてやり遂げなければならない状況にある方が多い。正直、がんばっている統括者が多い。一番汗をかいているケースが多かった。(私の感想でもあるが)

それなのに、元締め”だけ”が「儲かっている」と言われるのか。それは、統括者は「お金」を得ている一方で、手弁当(ボランティアなど)で協力して大会を支える方がいるからだろう。この不公平感が敵視される要因にありそうだ。

こうして大会の運営を、手弁当で協力し、統括者を支えてくれる方々は、運営する上でとても貴重な存在。ただ、統括者と異なり、個々の任意でやることができ、場合によって関わることを断れる。やらない選択肢もあるのだ。誰かが少しお金を得ているのか、それともみんなが手弁当なのか、そうした不公平感もあるのかもしれないが、現実を直視するべきだ。

理想は、関与者みんなが理想のリターンを得ること。でも実際問題として、十分な「お金」のリターン(対価)のみ得られる場合に大会を実施するとなる場合は、世界中のマイナースポーツの大会が実施できず、減っていくことになるだろう。

ここで言う、世界中の大会が実施できず、減っていくとは、地域のサッカーや、少年野球の大会、ゲートボールとか、ボーリング大会などもそう。趣味の延長線上にある以上、主催する側も、手弁当で関わっている人がいて、それは世界中で同じこと。全員がお金のリターンになったら、スポーツの発展はない。

対価が「お金」に限定されると、小さな大会は壊滅してしまうだろう

「対価」はあるべきだが、対価を「お金」だけにすると、小さな大会はすべて壊滅してしまうという意味だ。対価は、お金以外には、自分の子供の成長、自己成長。仲間と一緒にモノゴトをつくれる、やりがい。など、さまざまな「対価」が存在する。お金以外の対価を許せないタイプと自分で思うのならば、それに関わらず、自分がやらない選択をすれば良いのだ。自由意志で選ぶことが可能だ。

ここまでは、あくまで、私のイメージで書いたが、元締めが「儲かる」というのは、ほとんどのケースで勘違いだと思っている。

統括者は1円でもお金を得ていると「儲かる」と言われる勘違い

さらに、手元にお金が余っていることを「儲かる」と言われている場合がある。でも、それは収支で余った「利益」であって、かけた労力からの日給や時給に割ったら、大したことない金額になる場合の方が多そうで、それは果たして儲かっていると言えるのか?と疑問に思う。

もちろん大会の運営には「収益化」はとても大切なこと。大切なことだが、関わることの、リターンとなる「対価」が、「お金」しか許されない場合には、多くの子供たちの大会、マイナースポーツの大会がなくなってしまうだろう。手弁当に助けられている現実は、すぐには変わることがない。

みんなボランティアでやれ、という圧をかけているわけではなく、自由意志の中で行われるもので、自分の判断でやりたければやれば良いのだ。やりたくなければやらない選択肢もあるのだ。

元締め(統括者)の場合は「やらなければならない」

ただ、元締め(統括者)の場合は、意味が異なる。自由意思とは異なり、責任もあり、参加者の期待に応えるため、やらなければならない場合が多い。

「やらなければならない」と「やりたいときにやる」には大きな違いがある。

これは、どういうことか。

例えば、災害が起きた時、市役所などの行政の職員たちは、給与をもらいながら業務にあたる一方、その地域に来るボランティアは、お金をもらわずに労働する。現場の作業では、同じようなことをやっているケースがあったとしても、なぜ給与をもらう人、そうではない人が出てくるのか。

答えは明確だ。これは、行政の方は、ミッション(業務)としてやる人、か、ボランティアの人は、やりたい人かの違い、である。

ミッション(業務)として、やらなければならない人か、自由意思で、やるかやらないかを選べるやりたい人かは、大きく異なるのだ。そうした「役割」からくる責任の所在というものは、日常生活において、あまり理解されていない。そして、スポーツの大会の、元締め(統括者)が、悪く思われてしまう構造と、この給与を得る行政職員に対しての不公平感は、少し似ている。

スポーツの大会の元締め(統括者)は成果への責任がある

スポーツの大会の、元締め(統括者)は、災害地にいて、ミッションとして業務に当たらなければならない人と似た状況である。成果を約束された役割であり、給与を得るべき存在である。でも、一方でボランティア(手弁当)で関わる人たちからすれば、なんであの人は、お金をもらってやっているのだ?という視点で見られる時がある。

対価として「お金」が欲しいならば、その業務として、逃げられないポジションに身を置くこと。または、自分で十分な収益化ができるよう道筋を描くことだ。

そして、統括者になったのなら、もし大会で利益が出ず、赤字のときは、身銭を切る必要もあるだろう。それでも統括者になる覚悟はあるのだろうか。

元締めのことを悪く思うのであれば、実態を把握することも大切だが、自ら大会をゼロから立ち上げてみることだ。その方が見えてこない作業が見えてくるかもしれない。

稲作に例えれると「刈り取り」だけに関与する人が叩きがち

稲作の畑があったとして、統括者は、そこの農家だったとする。1年に渡って、まずは苗から植えて、苗ができたら、畑の雑草を抜いて畑を耕し、水を入れ、コンバインで苗を植える。たまに様子を見に言っては、雑草を抜き、害虫の駆除を行いを繰り返し、数ヶ月経ってようやく刈り取りの時期となって、刈り取り、出荷して、ようやくお金が手に入る。

手弁当で関わる人というのは、立ち上げから関与する場合も稀にあるとは思うが、稲作でいえば、後半の刈り取りの時期くらいからの関与が多いはずで、そこの刈り取りだけに関与する人が、なぜか統括者を叩きがちである。

それで、十分な収益が得られていないと感じるならば、自分から苗づくりの段階から立ち上がって動けば良いだろう。それで見えることがあるはずだ。

収益化に目を背けてはいけないが、大会を、やりたい人、参加したい人がいる以上は、十分な収益がなくとも、やりたい人たちはやれば良いのだろう。スポーツとはそういうものなのだ。(むしろ、プロスポーツの現場でさえ、現地ではボランティアの力を借りて運営が成り立っているケースも多いのだ)

お金の流れが見えないから不審に思われる

最後に挙げたいポイントは、お金の流れが見えないから統括者(元締め)に不信感が広がってしまうケースだ。

これは、マイナースポーツの場合、考えてあげて欲しいのだが、エントリー収入とスポンサー収入がメインの売上だ。そこから経費を差し引いた金額が粗利になるわけだが、それは粗利だ。

粗利があったとしても、そこから広告費(細かな移動交通費、宿泊手配、打ち合わせ経費、設営費等々)細かな経費が含まれている。

こうした様々なことを実行していく必要があるが、この「見えにくい」ところに紐づく「業務」には、本来なら価値がつく。本来ならイベントの企画、プランニング、当日までのディレクション、事務局業務、当日の進行と掘り下げたら、ほぼ100%、それに見合ったお金の対価を得られないはずだ。

そもそも、確定申告や決算業務をやったことがある方なら想像がつくと思うが、イベントごとにクリアな収支報告をするとなると、統括者にさらに負担を強いることになる。たいして儲かっていないのにだ。

明朗会計がベストかもしれないが、それを実現するには、さらに経理担当など、その業務にあたるメンバーがチームに必要となるし、その経理業務を担当する方への人件費を上乗せした利益をさらに出す必要が出てくるのだ。

もっとエントリー料金をあげられるか?もっと粗利が出るように、イベントの収益をあげられるのか?簡単じゃないからそうなっているのだ。

関与者もイベントのプロじゃないし、こうした収支を出すことの業務にも課題があることを理解せずに不信感を抱いているケースもあるだろう。

繰り返すが、不審感がそんなにあるのなら、自分でやってみて欲しい。小さいサイズのイベントで、たいして利益が出ていないのに、明朗会計で収支までクリアな状態のイベントをやる、となると、収入少ないのに、業務を増やすという構造となり、その構造は、まさにブラック企業です。(ある程度のサイズの大きなイベントになって、経理担当をつけられ、ようやくそういう収支をクリアにできるのではないだろうか)

まとめ

まとめると、マイナースポーツの大会統括者はどうして「元締め」としてこのような敵扱いされやすいのか?...それは、「お金」を得ていることに対して不公平感が生じているから。そして、総括者が、そこに掛けた労力が考慮されていないこと。さらに、統括者としての責任(ミッション)を考慮されていない、かつお金の流れが見えないからだろう。

こうした認識のまま、統括者を叩く場合、多くのケースで統括者が報われない。その疑惑は、多くの場合で、解いてあげるべきだと私は考えている。正しく評価をされるべきだし、評価されるべき統括者は、たくさんいるはずだ。そして、統括者が報われなければ、その競技の発展にブレーキがかかるリスクさえある。

以上が今回の記事だ。

2月20日に行う #スポピザ のイベントでのトークセッション「マイナースポーツ談義」と「これまでbb projectが取り組み、乗り越えてきた課題」では、こうした現実的な課題にも触れる必要があると思っている。

マイナースポーツにある環境を、参加者の多くが現状課題を認識し、どのようにしてクリアしていくのか。そういう”ヒント”を一人でも多くの方が感じられる機会になることを願っている。

繰り返すが、大会の運営も、収益化から目を背けてはならない。しかし、収益化がみえなかったとしても、どうしてもやりたいならば、現実を見て、実施するのか否かを判断して大会の実施可否を考えるべきだろう。

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