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イガイガするねえ

多分黄砂にやられて喉が痛い朝に、過去の自分の記事を読んでみた。
何とも拙い日本語で自分でも読みにくかった。
徐々に訂正を入れて読みやすくしていこうかとも思った。
けれど過去の記事には、その時の自分がそのまま切り取ってある。
きっと高校生の自分だったら、
過去の切り取られた自分が嫌で記事を一掃していたはず。
けど今は過去の自分をみる現在の自分をも俯瞰して
前よりも自分に寛容になった気がする。

何かに何かを残すとき 
ー 記事でも、誰かへの言葉でも
他の誰かに届くとき、それがその人にとって心地よく記憶から消える、
或いは記憶から消えなくても心地よい残り方をして欲しいと思う。
もし自分のエネルギーが強く届く相手であれば、
いい意味でその相手が慣れた思考習慣に傷がつけられたらなとも。

最近の自分にはあまり心地の良くない第三者からの言葉ばかりが残っている。黄砂が喉に引っかかって取れない感じ。

その心地悪さが、果たして第三者の発した言葉のもつ強さが故なのか、
自分の自分に対する偏見が故なのか、わからなかった。
わからなかったから、試しに別の誰かに自分が自分にその言葉を
照らし合わせているのを聞いてもらった。
するとその誰かはその言葉が「強い」といった。

自分の思考を自分の時間軸で切り取って記事に残すとき、
誰に対しても無害であるような記事を残しているつもりだから、
公共の場に開示しても許してもらえるものだろうと思っている。
自分の過去の産物であれば、自分で振り返って自己処理できる。
自分で砂浜に埋めたタイムカプセルを自分で掘り起こす作業と同じ。

でも誰かが自分の埋めたタイムカプセルで怪我をするのは嫌だ。
それは悪意のない地雷と同じ。

目覚めから続く喉のイガイガと、
「強い」言葉が通ったあとの心のイガイガが、
過去にどんなイガイガを自分は他人に与えたのだろうかと思考させる。
イガイガですらないことを望んではいる。








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