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おかーさん劣等性の気持ち

 夏休み、悩めるおかーさんシリーズも、第4弾(ぐらい)になりました。まだまだ行きます(苦笑)

 劣等性の気持ちを、おかーさんとして幾度となく味わってきた。


 始まりは、子どもを産んだのに経済的に大黒柱にならざるを得ず、フルタイムで長距離通勤していた時。かまってやるべき乳飲み子、職場で昼休みにトイレで搾乳しないと腫れてくるおっぱい。食育やらシュタイナー教育やら自然育児やら、元々そういうのに憧れていたのだけど、そんなのには時間も体力も届かない毎日。

 うちの長女の名前は「はなちゃん」なのだが、このころ『はなちゃんのみそ汁』っていう本があってさ。余命短いお母さんが、3歳ぐらいの娘に、自分でごはんを作れる、食を大事にする姿勢を教えて、この世を去っていく、っていう話だったんだけどさ。わたしも、味噌汁で育ってきたから味噌汁がいいなぁ~、ちゃんと食文化伝えたいな~、と思いながら、現実は、朝はお味噌汁にご飯、なんて理想の彼方。長女の世話を引き受けていた夫が、シリアルかピーナッツバター&ジャムのサンドイッチを作り、彼はシャワーを浴び、長女はテレビを見ながらもくもくと朝ごはんをしていた。

 この時の母の「スーパーのレジ打ちでもいいから、もっと近くて子どもにかまってやれる仕事にした方が、あなたも体力的に楽だし、はなちゃんにもいいんじゃない」という言葉は、真に受ける必要はないって分かっていても、なんだか、自分がその時埋めようとしても埋めることが叶わなかった何かを、ストレート・ジャブ・アッパーカットでクリーンヒットしているようで、それは「パンがなければクッキーを」って聞いたフランス革命前夜の困窮するパリ市民のような心境だったしれない。

 「ろくに手をかけられもしない状況で子どもを産んでしまった」という、ファーストステップからして、わたしはおかーさん劣等生だった。

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 その頃に比べたら、私はずっとフレキシブルな形態で働いていて、子どもとの時間のやりくりもずっとやりやすく、居たいと思えば一緒に居られる時間も長いだろうに。10歳と6歳の娘たちが私と過ごそうと思ってくれる時間も、もうそうは長くないだろうに。わたしのからだは一人の時間を要求し、それに従わないと心も体も行き詰まってにっちもさっちもいかなくなる。

 それは何も子どもとの関係だけではなく、パートナーとのパートナーシップや自分自身とのパートナーシップが崩れているから、こんなに目詰まりしているのだろうけれど。

 もやもやな終わり方で何だか申し訳ないのですが、今日はモヤモヤしているから、主部はこれでおしまい。

 昨日、ADHDコーチングの先生に、「それじゃあ、午前中はご自分の時間と割り切って、午後からはお母さんとして側に居られるよ、ということをお子さんに伝えて、実践なさったらどうでしょう」と言われました。

 早速昨日、やってみて、午前中はさんざん家出をして、夕方になって子ども達とプールに行ったら、楽しかった。

 それから、「今はコロナで、休みでも外出れなくてモヤモヤするのは、きっと世界共通。だから、いいと思えることのハードル下げていきましょう」とも。それで、今が10%だとしたら、20%に上げられればいい事にしたので、それはサバイバル術。よし、プール、気持ちよかったし楽しかったし、ハナマル。

 そんなんしか、できないけど、楽しいと思える時間を、凝縮して過ごせたら、いいのかもしれない。チェコのことわざでも、時間は関係ない、と言っていたし。


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