他人軸・自分軸とパートナーシップ

 結婚12年、ごりごり「これはこうして欲しい」を伝えるようになってもうすぐ7年。

 上記のみかんさんの記事では、他人軸だったみかんさんと自分軸だった旦那さんが、雨降りの時期も経ながら、お互いに異なった価値観の良さに気づきながら、尊敬と愛情を育ててゆき、まさに地固まる、過程が繊細に描かれていて、もう、きゅん、となりながら、やっぱり自分のパートナー関係を見直さずにはおれなくなるわけです。事実は小説よりも奇、であり、人の心に訴えるものなのですね。それを優しいタッチで淡々と描かれるみかんさん、人間の器深っ!て思わずうなっちゃうので、ぜひお読みください。

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 さて、翻って私たちは、というと、他人軸×他人軸で外面は良いが、自分を犠牲にしてしまうタイプ。そこに二人の子どもの出産を経て他人軸ではとうてい心身ともに(とくに体ね!産後ワンオペとか無理ゲーでしかないから!!)立ち行かなくなった妻である私の方が、否応なく降伏し、ダメじゃ、自分を優先することを学ばねば…と来て、7年弱、なわけです。

 そうはいったものの、頭、つまりマインドでは「自分を優先じゃっ」とわかっているつもりでも、育ちの過程で意識的・無意識的に環境や一番身近なロールモデルであった母の立ち居振る舞いや果てはスクールカルチャーや漫画やアニメ・ドラマやニュース等あらゆるメディアを通して触れるサブカルチャー内に顕在する規範から、無防備な女の子であったわたしとそのからだは「他人を優先する女の子」という価値観を、細胞の隅まで、吸収していた。デトックスに時間がかかるのも、無理はないよねぇ、それにしても、他人軸がここまで女子の潜在意識に作用して憚らない日本という国は、元々のおみなの力が強いからに、このようにされているのじゃろうな、とも思うから、女性性開花、とかここ10年に盛んに言われてきたのだろうね!

 がんばらないように頑張ろう♡大和女(やまとおみな)♪

( ↑こういう名前のサークル、つくろうかな…ご興味ある人いたらメッセージください^^💛)

メディアの大罪と、教育の怠慢

 それにしても、日本でメディアリタラシー教育がされな過ぎている現状の嘆かわしきこと、この上ない。教育学を学んだ十年超前に大学というか、学問の世界ではとっくにメディアリタラシー教育の重要性なんて平然と言われていて、カナダの先進例を引き合いにうんちゃらかんちゃら議論されていたのに、どーして現場にそれがちtttttっとも反映されていない訳であろうか?

 メディアにしろ、携わる人が、実際に、未来を担う子どもたちに、どのような影響を表面的にも内面的にも与えるか、という点を考慮せずに番組やら情報商品を作成しつづけている。自分の仕事に責任を持たないにもほどがある。

 教育も、メディアも、それで口に糊をする限り、その更新と改善とその奥の奥の意図、それを理解せずにへらへらしていたんでは、給料泥棒でしょう?犯罪だよ。自重しやがれ。

 テストで点数とれない生徒を馬鹿にしている教師と同様に、それは本質を欠いていて片手落ち。そういう企業や商売やサービスは、衰退するであろうけれども、それにしても贖罪の業を成さずに滅びてしまっては、末代までたたられると思うから、今のうちにちゃんとしたらいいと思う。

(すかーれっと激おこ!)

 話、それました(てへぺろ)

 最近、アーユルヴェーダで言うところの熱をつかさどるピッタが乱れておるのを感じており、それはパートナー関係に腹を立てている自我の私が原因にほかならないのだけれど。

 わたしは、私を笑顔にするものを隣に置いておきたい、これが突き詰めたわたしの自分軸かもしれない、なんても思うのです。

 自分という感性と身体への尊敬、それが自分軸のベースであろうと思うから、それを侵害するものにまで菩薩の顔をするよう努める必要は、ない。

 時に修羅にならねば、自分は守れないのかもしれない、そういう12年の結論。


なんだかやぶさかでないまとめになってしまって、みかんさんごめんなさいですが。

他人とのパートナーシップの礎は、とりもなおさず、自分のマインド、つまり理性と、ハート、つまり感性とその媒体となるからだの、パートナーシップなんだろうな、そこのご自分としての「あり方」を見つけられたから、実現したご主人との関係性なのだろうな、と、よだれが垂れるぐらい羨ましく、また眩しく見えるのです。



令和五年五月十九日記



追伸

今日もまた次女が遅刻しそう。だって、書きたいんだもん。






 

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