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「おうさまははだかだ!」と言える子どもの心を保ち続けられる「きょういく」とは。

童話「裸の王様」で、王様が裸であると指摘できたのは子ども達だけでしたが、子ども達が大人になる過程の一体どこで、「王様も他の人も言っているのだから、王様は裸ではないんじゃないか」という思考を抱き、それに準じた行動をとるに至ってしまうのでしょうか?

小学校に上がったばかりの娘の学級を見ていて、それは「権力」に対する「恐れ」を「制度」に組み込まれた「先生」の態度や言動を通して、子ども達がつぶさに感じ取ることで、それは生まれるのかもしれない、と感じ、愕然としています。

「何か、先生の意図に沿わないことをすると、叱られる」という環境は、「叱られる原因をつくる、全体の方向性にさっと溶け込めない子」の言動を、自分達の恐怖心から、できる子たちで「とりしまる」ような空気感が、なんとなく生まれます。だって、誰が原因にしろ、緊張した空気感を、その場では権威である「先生」が生み出すのを、避けたいもの。

「これはそうじゃないよ」とか「これは違うよ」とか――それは「全体に合わせた行動をすることを見に付けさせる」ということを深遠な目標とした「教育」では理想的なことなのかもしれませんが――そういった、「違い」を指摘してはじき出すような言動が、自然に増えていく。幼稚園や保育園で「あなたのままでいいよ」と大体は言われ続けてきたであろう、したがってお互いの違いは当たり前、で育ってきた子どもたちの間で。

何の「きょういく」だ?

読み書きそろばん以外のことまで子どもを預けるには、「先生」という職業に就く人の資格要件に「人間的成熟」が入っていない以上、余計な場所にもなり得るのかもしれない。

それも、「いまのは悪い見本」で済むのだろうか?



milbaさんが(笑)で茶化しながらも、夢を通して感じられた内容が、そういう「大人になってしまった子ども達」が牽引している社会への示唆として、なんだか深く心に響いて、こんなことを書きたくなりました。


わたしは、裸の王様を前に「おうさまは裸ですよ~♪」と言えるだろうか。鼻歌交じりに、歌って婉曲的に伝えるかもしれない。

そもそも、王様が裸だという事実に、気づけるか。

あなたは、言えますか?

あなたは、気づけると言えますか?

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