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パートナーの家事に期待してはいけないという綺麗ごとから

パートナーの家事に期待してはいけない、その方が精神的に楽だ、
第三者のサービスをお金出しても買うし、
という地平から、

そうは言っても相当経済的に突き抜けないとマネジメントに回す気力も体力も物理的ににっちもさっちも立ち行かない、となる局面が、きっと子育てという家事∞増協働事業が、産院を退院した後のどこかに待ち受けていて、

それは程度のグラデーションこそあれ、専業育児にしても兼業育児にしても一緒な筈。

だから、その、育児家事の他にどれだけ家庭に貢献してるか、的なのを、
夫婦間で甲乙つけるのも、

まして専業育児者・兼業育児者間で線引きして分断を自ら産むのも、
ありがちだけど突き詰めたら誠に勿体ない。

そんな状況に自分という「人間」を陥れた時代や社会背景や集合意識やもろもろを、曇りなき眼で直視して、そっちをどうにかするために自分を奉じた方が、建設的だし気持ちいいと思う。

結局のところ、人類の如何なる争いごとも、規模のいかんにかかわらず、内輪もめで、良いコトない。

ということに、いさかいもたけなわとなると、良い加減、ってやつで、誰でも気づくんじゃないんだろうか?そういうのを、人類の共通課題として、世代を超えてやってるんじゃないだろうか。


そして、もろもろもめて辛いことあったけど、じゃあ、もういいじゃん、てなってるのが、そこここのものごとのいまなんじゃないかと感じている。


話は人類まで飛躍したけれど、(お得意のエントロピーに従順な特性を、ストレスにより遺憾なく発揮しております。)、かくいうわたしも、パートナーに家事を頼んで期待してそれはプログラムが違う人のやることなので、ことごとく小さなツボを突いて裏をかかれるが如く裏切られ、精神的につらいから期待しない、と開き直ってはみたものの、じゃあこの猫の手でも気まぐれなしっぽでもいいから借りたいこの時に、期待しない、全部自分でやるか外注する、でできるかというと、もう達磨さん状態なのです。手も足も出ない。

だから、フォローの必要な仕事だとわかっていても、頼んで、やってもらって、フォローして、疲れからため息とイラっとがそこには数滴混ざり、その滴り落ちるコップがいっぱいで。

そんなときに、君の態度が悪い、ってムッとされて、へそを曲げたような返答しかされなくなって、もう、何に頼ったら良いんだろう、私は、この家庭という囲いの中で、と絶望的な気持ちになった。

仏か?
尼にでもなれと言ふのか?

なれるかわたしにはまだ現世でやることがあるのじゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!



すかーれっと負けないの。

自分が悲しい思いや辛い思いをしたときに、ヒガイシャの立ち位置を取らないことにするの。ましてや、それを近くにいる人のせいだ、って、冷たい態度取ったりしてばらまいたりしないことにしたの。こういう人になりたくない、って心から思ったから。

そう、ちょっと、わたしも、これを、やってたんだ。家族ってことに甘えて。やめよう、他人なんだ。心を分かってくれるはずがない。自分の心は、自分で癒そう。

もう、ふっ、残念な人ね、ぐらいにしか思わないから、もう金輪際口酸っぱくも言わないから、最後の期待を込めて言うね、って全部言った。

それを英語でよどみなく言えたのは、この12年間の賜物だと思っている。どうもありがとう。


わたしは、自立するぞ!

周りのみなさん、どうぞ助けてください。

わたしもできることは、惜しみなく、隣人に与えられるような人になりたい。


じぶんのからだという領域を、しっかり保全再生保護しながら。


Degrade me, and my resilience skyrockets as is stressed, as slowly as a munching cow...


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