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「ばかにしないでよ」#3/3 あなたのわたしの認知スタイル


#1と#2では、わたしの腰の痛みに眠っていた幼いころの記憶と、それにまつわる気づきについて書きました。この「気づき」には、自分の認知の特性と、それが周囲に奇異なものとして扱わる経験をしてきた(と少なくとも自分が感じていた)こと、それが私自身が自分に許してきた人格に、20年余りにもわたって影響を与えて来たこと、を書きました。

そんな自分の経験から、学校という(おおよそ)全ての子どもが通過する場所で、自分のような「ちょっと変わった」子が疎外感を感じることのないよう、持って生まれた能力を、窮屈さを感じず、その子なりに伸ばす手助けがしたくて、教職を志したことを、書きました。つくば万博のトマトの木みたいに。

その続きから…

8年間のシャカイジン生活を経て教員の道に踏み出したのは、ちょうど3年前のことだった。いろいろなことが重なって押し出されるように、わたしは一番やりたかった、でも一番怖かった先生という職業に就いた。正採用ではなく講師として、高校の教員になった。

ちょっと脇にそれるが、「一番怖かった」のは、何でかって?本気でやりたかったからだ。ここで失敗したら、もう本当に自分に絶望する、だからチャレンジしない、っていうことを私達は人生でしがちではないだろうか。少なくとも私には、そうして致命的に一歩を踏み出ない、踏み出せない状況を固めているところがもう一つあるのを自覚している。それとも時期が熟すのを待っているのかな

話を元に戻そう。わたしと教職の出会いと、人生を共に歩みだすまで、だ。大学を出て、学校しか知らない先生にはならんぞ、と思って「英語を実際に使うこと」「that it takes me around=旅をさせてくれる」を条件に仕事を探した。都内のNGOが採用してくれた。

それから人生の紆余曲折を経て、それなりに人生経験も積んで、子どもを二人産んだこともあって個人比で言えばかなり肝も据わって、いざ!教員になった。なったのだけれども。

何か、ずれるのである。授業の内容に集中すると、50分や55分という1時間の単位を気にすることが難しく、気づくとチャイムがプロレスのリングのごとく試合終了を告げ、「え?もう?」となる。初任校の年度最後の授業でこれをやり、生徒にぼそっと「最後にこれかよ」と言われたことは忘れられない。タイムタイマーを講師研修で知り、使ってみたりもしたがあまりうまく活用できず捨ててしまった(当時、自分が視覚ではなく聴覚的な手掛かりによる援助が必要であることを知っていたら、タイムタイマーを買ってがっかりすることはなかっただろう。聴覚優位については下記の記事に詳しい)。

一番の苦しさは、大半の生徒は音で記憶を保持していないようである、ということだった。聞いて、唱えていれば分かるようになる。だから聞いて、唱える量を増やすことが生徒皆に練習の機会を保障することになると思っていた。高校生の自分は、そういう授業を望んでいた。

でも、多くの生徒とわたしは噛み合わない。どうして?

英語を本物のたこ焼きとして知っている子たち、つまり英語を言語として使う環境に恵まれ、幸運にも英語学習に意欲を持っている場合は、それなりに尊重されているように感じた。わたしの言語を学ぶ意欲と情熱だけは絶対評価でAプラスだ。ここは譲れない。

けれどもその熱さががえって、「英語はあくまで教科」というスタンスの大半の生徒のクールさとの間でギャップをつくった。そして、私はそれを埋める手段としてのスキルに悉く欠けているように思えた。

受験英語の解説を流暢に行うスキル。これは時間と共に少しずつではあるが進歩している。あちらこちらへ飛んでしまう発想に手綱を付けて「まとめる」のを、もっとうまくなりたいと手掛かりを探している。生徒への発問プログラムと時間把握プログラムを脳内で同時に走らせること。色々工夫をしているがまだ苦手だ。何より、「普通の」生徒のつくる集団との距離をうまくとって立ち振る舞うこと。これが困難に感じる。薄氷が張って、よく分からないのだ、何が適切なのか。でも最近になって、おぼろげながらではあるが、課題の輪郭が見えたのだ。

同時処理と継次処理という概念が腑に落ちた時、その薄氷の正体が見えた気がした。

私は「継次処理=聴覚優位型の認知」が強く、恐らく「同時処理=視覚優位型の認知」が弱い(それともワーキングメモリの弱さ?検証中)。

This explains each and every difficulty that I've encountered!

つまり私は同時処理型の認知プロセスに沿ったものの見方を「知らない」のだ。そしてだから、おそらく…同時処理型の「彼ら」が英語を学ぶとき、音による手掛かりではない視覚的な何等かの方法で、効率的に学ぶのだ。そういう、わたしの経験したことのない同時処理型に適した学習方法があるのだ、きっと!

ヘレン・ケラーが「水」という概念を獲得した瞬間と同じくらいに、わたしにとっては画期的な発見だった。だって、そうした特性を通して認知する世界を、わたしは聞いたことも見たこともなかったし、これかれもそうして感じることはできないのだから。

でも、「知る」ことはできる。

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岡南『天才と発達障害』を読み始めた。

視覚優位の建築家である著者が、精神科医であり宮尾益知と協働し聴覚優位の認知への理解を試みながら、それをガウディとルイス・キャロルそれぞれの作品に現れた世界観への裏付けとして、説明していく。

わたしは、視覚優位の学習スタイルとそれに合った適切な援助ができるようになりたい。そうしたら、ちゃんと皆が理解できるように、説明できるでしょう?きっと。

それは、「彼ら」の世界の見方に私が無知であったことへの猛反省と償いでもある。知らなくて、ごめんね。身勝手な教え方で、ごめんね。もっとわかるようにしてあげたかった。ちゃんと英語というスキルへの媒介としての役目を果たしたかった。でも至っていなかった。苦しい英語を一方的にダウンロードするばかりで、本当にごめんね。

異言語の世界への中立な案内人になれるよう、修行を続けるから

パーフェクトにはなれないけれど、わたしの最大限を注ぐよ


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