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ねまき

大正に生まれて

 戦前育ちというのは日本人の精神を深いところで受け継いでそれを体現しながら生きているもので、大正十五年生まれの祖父もまさにそんな人だった。

 陸軍士官学校で終戦を迎えた威(たけし)少年は、その後縁あって逓信省、後の郵政省に勤務し終生奉職した。

 士官学校時代の訓練の賜物だと推察されるが、一通りの身の回りのことはでき、肌着の類は毎晩風呂に入るときに石鹸を付けて手洗いし、固く絞って自室のハンガーにかけていた。少し黄ばんだ白いブリーフが、絞ったあとの皺をそのままに一、二枚、おぢいちゃんの部屋のテレビの上辺りの鴨井にかかって揺れていたのは同じ屋根の下で暮らしていた孫の私にとっては鮮やかな記憶だ。

 女二人、男三人の五人きょうだいの下から二番目で、男児としては末子だった威くんは、生まれた仙台市に遊びに来た子供のいない叔父夫婦と共に彼らの住んでいた関西に行く運びとなり、それが話の流れだというから現代だと驚きなのだが、そのまま養子となった。二、三歳のことだったという。寂しかったり、混乱した気持ちが、あったことだろう。そのときの威くんの気持ちを想像すると、胸がつぶれそうになる私がいる。

 男児たるもの、口は真一文字に結んで、という養父の教えそのままに、残っている士官学校時代の写真の彼は凛々しい眉と真っ直ぐな眼光に、口をへの字に結んで胸を張っている。学校では柔道を修め、結構良い線を行っていたと聞いている。

訓示

 待望の初孫、しかも彼の五人の孫のうち唯一の女孫であった私は、祖父がたいそう可愛がったと母は言うし、自分でもそうとしか思えない。ただし、大正生まれ・士官学校卒の「可愛がり方」というのは、欲しいおもちゃを与えるようなものではなかった。

 逓信省で自身も筆まめであり、かつ家族の祝い事にこだわりのあった祖父は、誕生日や入学・卒業等の節目には必ず祝儀袋に入れたお祝いと、毎年趣の異なるバースデーカードをくれた。そこでは、彼の「訓示」が下される。

 「知未君は、何かを言われた時に口答えをするような癖があるようですから、人に何か言われたらそれは『ハイ』と返事をして快く受け取り、どうしてそれを相手が言ったのか良く考えてみるようにして下さい。」

 等々。――そして、結びは必ず「おぢいちゃんより」だった。「じ」の発音は「し」にてんてん、を学校で教わった小学生の私は、どうして「ぢ」なのか不思議に思っていたが、今でも思い出すおぢいちゃんは、おぢいちゃんという平仮名と彼の癖の強い頑張り屋さんな、要領は決して良い方ではないだろうと想像される字なのである。

 訓示は、別の様々な形でも、下された。

 朝夕の食事を囲む時、私の指定席はおぢいちゃんの左隣だったから「いいかね知未君、御飯の時にはまずお汁を啜る。そうすると、今から御飯が行きますよー、と胃袋に知らせが行き、準備ができる」という教えが身体に忠実に残っており、この歳になってもご飯は汁物から始めなければ何だか気が済まない。

 「あいさつは 人の心を明るくし 自分の心を豊かにする」

 というような標語が、濃い墨の細筆の習字で書かれた半紙の半分ぐらいの紙が、茶の間の私の目の着くところに、物心付いた時には貼ってあった。その他、正月等の年中行事の節目には、私と弟を座らせ正座で相向かい「訓示」を垂れた。

 かようにすることが常となっていたから、大学入学で郷里を離れてから休みに帰省する時も、まずはおぢいちゃんの部屋へ行き、正座で近況報告をしたものだった。先祖の仏壇に手を合わせるよりも心が落ち着くような気がした。この時、報告して恥ずかしくない行いをしていたいと思っていたが、大学卒業後、社会人に上手く馴染めず、いつも申し訳が立たないように思ってきた。

 そうこうしているうちに五年前、祖父は九十で他界してしまったが、社会人としての私は、いつも不甲斐なかった。ようやく自分の特性という生来の気質的なものや、その環境要因である家系的なものへの理解が、ここ数年で自分の中で纏まってきた。胸を張ってお墓参りできる自分でありたいと、願い、思っている。

ねまき

 そんな威君は、寝る時はいつも「寝巻」だった。ガーゼの袷(あわせ)のように仕立てられた就寝用の浴衣である。

 祖父がふとした時にこぼした一言が、忘れられない。

「僕はあの、ゴムというのは、ダメなんだなぁ。寝る時は寝巻きでないと」

 木綿の寝巻きは、からだを文字通り巻いて「くるむ」。自分の、これも綿の共布で作った腰紐の締め加減から、伸びて妥協することがない。身体を、その巻いた加減に、張りと控えめな主張をもって矯正する。

 ゴムはこちらの都合の良いように伸び縮みしてくれるようでいて、実は元の長さに戻る伸縮の「縮」の力が常に働いている。だから、愛想が良いようでいて実は意のままに主張や要求を通そうとしている、口と肚とを違えた性質(たち)のわるい店員みたいだ。

 言わせてもらえば、前者はツンデレ、後者はデレツン。

 ツンデレは、「おっ」とちょっと面食らわせておいた後に不意打ちの引きが来るような態度やものごとの有様。本質を敢えて出すことをせず、寧ろ突っぱねることになりかねない態度で実は大事に隠している、その媚びない奥ゆかしさが故に、古今東西人の心を惹きつけてやまないのだろう。

 素材がこちらに訴えてくるものもそうだが、毎日の衣服の選択は私たちがそれらを選ぶ時に無意識に動員している価値観も、そのまま反映する。声の大きい多数派に受けの良い自分で居たいのか。自分の身体の小さな声が訴えてくる快不快、そして細胞レベルでの喜びや失意、そしてそれを抑圧するか受け入れるかという選択。

 あなたは今日、何を纏って一日を生きますか。

 *

『きもの』

 幸田文はその著書『きもの』の中で「人は木綿にくるまれて生まれ、死ぬまで木綿にくるまれて生きていく。おひいさんのような生まれの高貴な人の中には、絹でくるまれて一生を送る人もいるのだろうけれど」というようなことを、登場人物に言わせているのだが、これを三砂ちづるの『オニババ化する女たち』と立て続けに読んだ二十歳(はたち)の頃の私は、潜在的、というよりもむしろ戦後私たち日本人が置いてきてしまい忘れてしまったがその頃は当たり前、だった「きものの身体性」を何となく理解し、それに強く心惹かれた。

 紆余曲折を経て、三十六の私は、着物屋になることにした。綿と絹を日本の土地で栽培して、織と染色、縫製までをする。身土不二は私たちの食だけでなく、衣食住の衣と住もそうするのが合っているんだろう。自分の土地から出でるもの以外のものになろうとすることは、その心持の出どころからおそらくそうであろうように、何かが辛い経験で拗ねて、それを土台にして育ってきた性向であろうと推察されるから、足元が脆い。例え美しい花をつけていたとしても、どこか痛々しくて、見てられないような有り様になる。

 だから、私は着物をつくりたいのだ。そうしたら幸せな人が増える気がしている。

 この着物屋になりたい動機を説明し始めるとわたしという身魂のくぐったいろはにほへと、を「い」から触れなくてはいけなくなる位方々につながっているので別話にしたためることにするけれど、祖父母の建てた令和三年の今の時点で築五十五年の実家で生まれ育ち、その片付けをしていることが結構芯に絡んでいることは、ここにも書き留めておきたい。だからつまり、おぢいじゃん、というか、家族や先祖の由縁のようなところが、誰にでもそうであろうけれども、職業選択というか人生の岐路にあたってやはり絡んでくるということだ。

 それほどまでに、この生に産まれたかった。

 今際の床で、あー、良かった、と笑いながら死にたいから、今日も私は自分や自分の周りもものごとに対してできる働きかけを、精いっぱいやりたいと思う。

 からだを休めることも含めて。


令和三年五月十五日から十六日 記

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