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天吾と青豆《ADHD脳のおもむくままに、ものを書いてみる。》

天吾と青豆…とタイトルを打って、何を書きたくってこのタイトルになったのか忘れてしまった。

私のワーキングメモリの美しい限界、飛躍する思考。

何か新興宗教かドメスティックバイオレンスか、そういう類のところを、同名の主人公の登場する村上春樹先生著『1Q84』に紐づけて、書こうと思っていたような気がする。

カラシニコフ、見つからないアイスピック、植物の生い茂る天井の高い温室、微笑む傷ついた女性たち……そういう断片的な単語や小説から描いた風景、それを追体験した旅先の記憶などが、思い出そうと検索すると無秩序に立ち現れる。

――そう、無秩序なのだ。私の記憶の保管庫は。
まるで番地のない縦型に成長した街の住戸に、住人を訪ねて一つひとつ、ドアを叩いているような感じ。

そして、ドアを叩く手・・・・・・は、数多ある。そう、私の中の記憶探知役は、番地のない郵便配達に嫌気が差して、数打ちゃ当たる、の戦法で、身体に実に複数の手を生み出した。その中のいくらかは、足なのかもしれない。

『変身』と題されたシルクスクリーンの絵を、中学の美術の資料集で目にした時、これだ、と思った。


フォロン「変身」 
ナツメbooksさんHPより、お借りしました。

思い出したい記憶の検索指示を出して「ENTER」キーを押すと、私の脳内の特定の領域で、こいつの活動スイッチがオンになる。ぞろぞろと動き回っては、適当に突っ込んである・・・・・・・・・・引き出しにあたりをつけてガバガバ開いてゆく。開けたら戻す、なんて作法は何のそのだから、そのうち閉じるという適当な機能に任せて、開いたままに・・・・・・しておく。

結果、脳内には引き出しから顔を覗かせたデータが、要領の狭いわたしの脳内RAMというデスクに取っ散らかる。これで、何の論理的で効率的な作業ができるというのだろう?

畢竟朗報、良い面と言えるところもある。それら無造作のデータ達が、思いもよらない結びつきを構成し、閃きが生まれる。創造性のための混沌。美しい欠陥と創造性。

ただし、現代社会は、学校を筆頭として、そういったものを歓迎しない。そんな創造性が熟すのを待つよりも、みんなに合わせて、みんなと同じように、みんなに迷惑をかけないように、注意を周囲に分散させて・・・・・・・・いることを、強いる。一極集中のマイペースな集中力は、たいてい歓迎されない。特別支援教育の場でさえ、その総じたベクトルは同化政策だ。

結果、生きづらい。

自閉のある子の、十代半ばそこらの白髪の多さに、涙が出そうになる。そんなにまでして、合わせてくことが、彼らにほんとうにひつようなのか?それが彼らに将来の生きる居場所を確保して、幸せになるために必要な道なんだ、と言えてしまえる、神経発達的にマイノリティの思いをしたことのない強者の論理に、反発心を覚えてしまう自分がいる。

One for all, all for one はとてもいい理念だと思う。けれど、allの全体を読むというか、ミラーニューロンのはたらきが抑えられて生まれてきたような子は、それを伸ばす個別支援は行いつつも、それが「できない」ことで叱責されたりして委縮するような思いを、極力、させなくてすむようにしたい。世の中の理解も、がっこうきょういくも。

集団行動ができない、は、もうちょっと分解してその背景を考えていく必要があるよなぁ。……そんな昨日の気づきに帰着して、タイトルからどこか別の方向へ進んだことを自覚しながら、今日の朝のものかきは、おしまい。

でもどこか奥のところで、何がしか つながっている。

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