自閉スペクトラムのきょういく~待つこと、忍耐、穏やかな航海~

ドーブラバ ドーブラバ
ドーブラバ プチ
サーマバ サーマバ
ドーブラバ プチ

ロシア語の詩歌『船乗りの唄』をNHKロシア語講座を録音したMDと共に贈ってくれたのは、24の時の教育実習の担当教官の先生だった。

他の実習生の二倍か、下手したら三倍の時間をかけて、効率悪く授業準備をするわたしを、「待って」下さった。急かすことこそしなかったその先生からは、たくさんのギフトをいただいた。できると信じて見守る姿勢・それを支える忍耐という教育者の要素、冒頭のはなむけの唄、居残りの毎日を見かねた奥様が焼いて下さったドライフルーツの入ったパウンドケーキ――きっと、実習先の英語科の他の先生方からのそうしたギフトと共に枚挙にいとまがないのだが、やはりその指導教官の先生の一言が、忘れられなかった。

 実習手帳に書いてくださったのは、次のような趣旨の一文だった。

時々、小畑さんは止まっているように見えるので、その間にオーラルイントロダクションを口に出して考えたり、手を動かせるといいかもしれません。でも、内側では何か深いことを考えているのかもしれないですね」

 この一言が、わたしが自分の抱える特性を理解するヒントになりそうな気がして、ずっとそれが何でなのか、考えてきた。

「外からは止まっているように見える、わたしの時間」は、果たして、無駄な非効率の象徴なのかーー?

「外からは止まっているように見える、わたしの時間」

 その時間の間、私の心は、確かにあちらに、こちらに、下に、上に寄り道をしている。道草を食んでいる――食んでいるのだが、食みながら、わたしなりの最適解を、持てるもの全てを総動員して、考え、思いめぐらしている。模範的な授業のかたちをなぞる、という、ゼロか一か、の答えではない、何か、深いところで生徒に訴えられるような、本質的なものを掬い上げて、それをどう授業に落とし込んだらいいのか、考える。

 それは、教材研究とも言えると思う。教科書に「書いてある」範囲以上に、その、たとえば今でいう「コミュニケーション英語」の、教科書の一レッスンの文章が扱う題材の奥深さ、みたいなところを生徒と感じるためには、どうしたらいいのだろう?と節々に潜って、考える。

 実習ではキング牧師の公民権運動のレッスンを担当させてもらったのだが、やはり「混迷の時にあっていかに人々に感銘を与え、導くか」のエッセンスをキング牧師のスピーチに聴いて感じ入り、公民権運動の参考文献の中に見出して胸熱くなり、ついつい詩編を一遍、書きたくなってしまう。

――そう、潜りすぎて、戻って来れなくなるのだ、本題に。その「奥深さ」に潜ってみたはいいものの、スポットスポットの深さにハマりすぎて、戻ってこれなくなる。だから、時間がかかる。

 でも、本質に触れたいというこの気持ちを、どう無下にできよう?

 それを待ってくれない社会や教育が排除しているのは、果たして「無駄」か、それとも実は必要な「遊び」なのか――?

 後者も然り、なのではないか、と、思っている。

 必要な「遊び」って、あるよね。(学生時代にやっていた津軽三味線でも、上手な人の撥捌きには何とも言えない美しい「遊び」があって見とれたものだった。)

 八宮先生、たくさん残業してくださることになり、ごめユニコーン、と思っていることに、変わりは、ないのですが…。。。

「さとみちんを、社会は待ってくれないんだろうね」

 は、石橋をたたいて渡る、私とは好対照の性格の大学のルームメイトが、くれた金言だ。寮で一緒になって数か月で、彼女はわたしと主流社会の、平行線の結婚生活のような関係性を見抜き、一言で言いおおせた。(みゆきちん、あなたの観察力は必ず何かや誰かを救うから、どうか同時代でこれからも側に居てね。)

 そう、社会は、たいてい、待ってくれなかった。

 多くの学校の先生も、はじめての社会人経験のインターン先も、その先の社会人生活でも。社会はわたしを急かし、わたしは急げない自分・適応できない自分を駄目なものだとみなし、責めた。その中で出会った数少ない恩師や大人の、そう、忍耐と理解、そして両親に助けられ、どうにか、ここまで生きて来れた。

 でもね、そっちは違うって、わかってきたの。少なくとも、私には。

 自分を急かさず、自然のリズムにむしろ意識的に合わせながら、ぼーっとする中で読める振動のようなものがあり、それは生きものとして、とってもだいじ。

 そして、そうして意識と無意識の間を潜るようにしてつかんできたものを、言語化することが、わたしの得意分野であり、仕えるべき天職なのだ。

「自閉症」という世界を見る力

 自閉症や、自閉スペクトラムの濃いめに位置する特性をもつ人や子どもというのは、そちらの「自然のリズム」、言い換えると世界が呈する相似性や、光や音の規則性の美しさ、そういったものを感じ取る力が、強いのだ。そうやってせっかちで仮面をかぶることを容易く求める社会の側と折り合うよりも、「美しい世界の規則性」の方に籠っていたくなる。

 「自閉」なんて名称は、多数派が勝手につけたもので、そんなネガティブなコノテーションは無くっていい。むしろ「こっちの世界」を理解しない世知辛さが押し回す車輪の速さや効率性ばかり見ている人達の心の方が、よほど閉鎖的で表面的だと思う。

「きょういく」を問う

 「普通であること、マジョリティに属すること」から外れることへの恐れが、自分という存在への理解し肯定するまでに、私には途方もない回り道をさせてきた。それって、きっと、無駄ではなかったんだけれどね、すんごい、しんどかったんだよ。

 だから、自分より若い世代やこれからの子どもたちには、そんな「回り道」をしないで、素直に、持てるものを伸ばし、発露していって欲しい、と心の底から願っている。(そのためなら何だってするから、どうぞ私を使って下さい神さま、って祈りのような気持ちで、生きている。)

 同胞の子どもたちへ。

 どうか、苦手なところで阻害され、劣等感や無力感を感じることの寸分もなく、自分を信じて、行為できる大人に、なって欲しい。

 そうしたときに、「教育」の名の下に、右へ倣え、倣わねば、恐れを植え付けるような学校は、わたしは、好かんのじゃ。

 きょういくは、もっと一人ひとりを信じて良いはず。

 忍耐と自制心を以て、子どもの、自分の力を発露するのを、待つ「きょういく」であり、それを可能にする「遊び」のある、社会で、在りますように。――教育実習先で、指導教員の先生が、わたしにそう接してくださったように。まるで、砦のように。そう、学校はそういう、砦で在りたいのだ。


ドーブラバ ドーブラバ
ドーブラバ プチ
サーマバ サーマバ
ドーブラバ プチ

――こんな意味だと、教えていただいた気がする。

揺りに 揺られて 航海を
どうか 穏やかな 航海を

 海へ、漕ぎ出すのじゃ。


令和三年九月二十九日 記

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