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おかーさんの夏休み・家出・サードプレイス

 昨日わたしは小さな家出を決行した。

おかーさん疲れと深夜の片付け

 一昨日夕方、家族一緒の休みが3日半続いたところで、私の中の何かが切れた。おかーさんするのが疲れたのだ。家にいると、どこに行っても家事が追いかけてくるような気がして気が休まらない。小学4年生と年長の子どもがいて何かとくっついてくるのも、役得ではあるがたまには役を降りたい。お家はどこまで行っても「おかーさん」という役柄のステージであり、そこに立ち続けることが私という一つの人格を持った人間には、できない。

 その夜は何かに憑かれたように自分の居場所づくりに一つずつ、モノを動かし、捨てた。我ながら素晴らしい集中力。火事場の馬鹿力っていうやつも垣間見た。追いつめられると、人間、強いものだ。普段10時には床に入っているので、12時を過ぎたあたりでさすがにシンデレラお家に帰る、ごとくシャワーで汗だくの体を流して、眠りに就いた。

 そう、昨日は目覚めても何か不服な気持ちが肚の中で渦巻いていて、片付けを続けた方が良いような気もした一方、家に居られるような心境じゃなかった。

家出の、本当の原因は自分のホスト力

 ――何に、不服なのか。…家族、じゃない。…ええ、デフォルトで家事するように生まれ育っていない男性でありパートナーである夫は、この、わたしの苛立ちの原因の片棒を担いでいると確信する。そういう風に夫を育ててしまう社会環境やら人類史やらそれに伴う集合意識やら、というのにも肚が立つ。でも、本題は、そこじゃない。

 ――じゃあ、何なのか。「自分を丁寧に扱っていない自分自身」に、何よりも肚が立つのだ。自分の居場所を、お金を使って物資を揃えて、整える努力とそういうことをするスキル。自分の居場所を、家族と交渉してルールを作って、「おかーさん」だけに家事が集中しないように教育と家庭内政治を行う政治的手腕。そういうものへの投資と経験とスキルが、私にはまだまだ足りない。その結果、わたしの持つ感性とそれを受け止める媒体としてのからだを、適切な待遇で扱えていない。私という理性は、接待下手でしかも応接グッズをケチるホストのよう。

 そういう、紳士でないわたしという理性に、肚が立つのだ。そしてそれを夫に投影して、彼にも肚を立てる。厄介なのは私自身だ。

 心理学用語であるこの「投影」が、夫婦間やパートナー同士で働く、というのを知って内観を始めた(少なくともつもり)になって5年経つ。なのに、まだ、まだクリアにならない自分の遅々とした歩みに、苛立つ。内側で感性と理性が夫婦喧嘩してたら、それが外側にも現れてくるのだ。

自分をおもてなしできる女子

 人に尽くす前に、自分をケアしてかつおもてなしできる女子、というのが、メイクやらファッションやらじゃなくって本当の女子力だと思う。自分の中の小さい人の好みや偏りをしっかり把握して、それにカスタムメイドの接待を、24時間。男子でもそうなんだろうけれど、女子にそれがもっと問われている気がするのは…体の性別が女性の人の方が、感性と理性のバランスにおいて、感性が強め、な人が多いから、だろうな。

 その感性をしっかりホストして、具現化する理性を備えているのが、カッコいい女子なんだろうな。そういう女性こそ、男性も愛したいよね。いや、そういうバランスが、性別関わらず、二人の人間の間で取り交わされていれば、それで素晴らしいのだけれど。

おかーさんの夏休み

 そうはいっても、おかーさんはとりもなおさず大役だ。しかも裏方でいることが多く、スポットライトの当たらない大役、かもしれない。どんなおもてなし女子でも、新生児を抱えていたら自分を横に置いとく以外に選択肢はない。子どもがおっきくなっても、私の場合は、一緒にいると、ケアモードが発動してしまう。

 だから、距離を置く、ことは必要なんだろうな。

 さて、話を昨日の、家出に戻そう。そう、それで私は、カフェとコワーキングを点々とした。

 カフェではホワイトノイズとレインサウンドで、落ち着かなくなってしまったADHD脳をあやすように、邪魔されない時間を過ごす。

 カフェに居過ぎて体が冷えて来たので、5月にオンラインクッキングを教えてくれた新婚の友人が来ているコワーキングに初・対面を果たしに行く。そのままコワーキングのメンバーと、彼女の作る美味しい昼ご飯をご馳走になる。人が作ってくれるご飯を待つのって、ワクワク・ソワソワするんだ、と思う。家族はこういう感じなのかな、と新しい視点を得る。

 ソーシャルディスタンス用に導入された卓球台のブルーの机を囲んで、おしゃべりをしたり、昼寝をしたりする。私がここで要求されることはない。洗濯物も床に散らかったモノも台所の水切り籠の食器たちも、わたしに話しかけて来ることはない。おかーさん、お休み!――午後早い時間の夏の雷鳴と夕立ちに、わたしは久しぶりに夏休みを感じた。

サードプレイスとコワーキング

 今回、家出をするにあたって、サードプレイスのありがたみを心から感じた。お家でもない、職場でもない、役割から降りられる場所。そして人と、家のことでもなく、仕事のことでもなく、おしゃべりができるところがあると、更にありがたいんだと、感じた。

 日本人は学生を卒業して社会人になると、友達になりにくい、と外国人の夫が言う。分かる気がする。なんだか、役割を生きてしまうんだろうな。〇〇ちゃんのママ、オバタさん、と呼ばれることはあっても、下の名前で呼ばれる関係を築く機会は、少なくとも日常には転がっていない。男の人も、会社で働いてたら、〇〇の役職の何とかさん、になってしまうのかな。業務を円滑に進めるのには私情が入らなくて、良いのかもしれないけど、なんかな。

 これから、会社や何かから自由になって、個人で働く人が増えてくような気がする。そうしたら、ますます、コワーキングみたいな人の出会いとゆるいつながりが生まれるスペースの存在が、価値を持つんじゃないだろうか。というか、すでに、持っているんだろう。

ADHDおかーさんはコワーキングに行こう

 で、飛ぶんだけどね(笑) ADHDおかーさんほど、コワーキングに行くといいんじゃないかなー、ということ。別に仕事をするんでなくとも良いから、「おかーさん」を降りて、自分に戻って、他の人と交流したり、しなかったりする。私の場合、おかーさんとして、でない会話に、飢えているような気がするから、それは、ホメオパシーのレメディのように、自分を取り戻すために穏やかかつ深く作用する。

 カフェもいいんだけど、会話が生まれるところが良いよね。

 

 なお、私のお家の居場所づくりは、子どものスペースを作ったところで止まっており、自分が落ち着くスペースは、未完成です。未だ完成せず、でも、一歩一歩創っていると思うと、それは気分が良いものです。できない、からちょっとずつ手を動かす。ときにサードプレイスに逃げながら。バランスを取りながら。

 ADHDおかーさんは今日も居場所を模索しています。

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